三話 灰色の世界
外は小雨が降っていた。
霧のような儚い水滴が肌に触れる。
私は手洗い場でブレザーに付いたクリームを落としていた。
指で拭った後、ハンカチを水に濡らし優しく叩く。
シミにはならなそうだが、また一つ心に傷を作った。
瘡蓋にすらなれない痛み。
腐食していく感情は、喜びと怒りを忘れさせる。
始まりは、長い雨が降る一年前の六月だった。
「成績が良いからって、あんまり調子に乗るなよ」
藤本が言ったこの言葉から、私の学校生活には雲がかかり始めた。
入学してからテストは常に一番だった。
負けたくないとか、自尊心を守りたいとか、そんな理由ではない。
父に罵声を浴びせられるから。これだけだ。
怒られないために勉強を続け、ただひたすら机に向かう。
私の青春は教科書に埋もれていた。
二年にあがり、藤本たちと同じクラスになった。
彼女たちは意味もなくターゲットを決め、侮辱という娯楽で悦に浸っていた。
一年の時からずっと。
だから関わらないように生きてきた。
学校という狭い世界。その片隅で身を潜め、なるべく目立たないように影を歩く。特別なものよりも何もない平穏を願っていたから。
一学期の中間テストが返却され、順位が廊下に張り出された。
「また泉さんだ」
「本当に頭良いよね」
一番上には私の名前、その下には平田明日香。
一年の時から変わらない風景だったが、彼女たちは不満に思っていたらしい。
「調子に乗るなよ」
藤本たちに呼び出され校舎裏に行くと、そう言われた。
「明日香さ、今回は一位取るって頑張ったんだよ。なのに、なんでいつも邪魔するのかな?」
中山が詰め寄ってきて、壁際に追いやられる。
周りを見るが平田の姿はなかった。どうやらこの二人だけらしい。
「邪魔なんてしてない」
「明日香はさ、バイトもしてるの。塾だけ行ってればいい、お前とは違う。それって不公平じゃない?」
藤本が顔を近づけて言ってきた。香水の匂いが鼻に刺さる。
「そんなこと言われても……」
「おい!」
藤本の手が私の顔を掠め、壁を強く叩いた。
「期末で明日香より上に行ったら、どうなるか分かるよね?」
この世界は理不尽だ。勝手に雨を降らせ、傘すらも取り上げる。命は色褪せていくのに、それでも迎合させようとしてくる。
「分かった……」
一学期の期末は順位を一つ下げ、二番目に着いた。わざと問題を間違え、点数を調整したから。
「勉強しか取り柄がないのに、もう何も無くなっちゃったね」
藤本が嘲笑しながら言ってきた。
悔しかったが、何も言わずに耐えることにした。
平穏が欲しかったから。
家に帰り、順位を父に報告すると激怒された。
「お前には今後一切、金をかけない。塾も行かなくていい。全部駿に回す。俺の顔に何度泥をかければ済むんだ」
受験を失敗した時から失望されていたが、今回は見捨てられたと言っていい。
その日から、家では空気のように扱われるようになった。
それは学校でも同様だった。
関わりたくなかったのに、藤本たちは虐げるように罵声を浴びせてくる。
「バカが来た」
「ゴミ同然」
「お前がいると空気が汚れる」
なんのために、点数を落としたのか分からない。失っただけで、得るものなんてなかった。
彼女たちは嫌がる人間の顔を見ては、楽しそうに笑みを浮かべる。
だから私は反応しなかった。
その方がすぐに止むと思ったから。
でも降り続いた。六月の雨のように。
誰にも助けは求められない。私も見て見ぬふりを続けた。
自分に害が及ばないように、息を殺しながら日常を過ごしてきた。
残された道は“命を絶つ”だけ。
この穢れた世界から早く消えてしまいたい。
私が神様に頼むことは一つだけ。
死ぬ勇気をどうか授けてほしい。
それ以外に何も望まないから。
*
放課後の喧騒を縫って昇降口まで辿り着く。
長い一日を終える瞬間が、唯一の至福とも言える。
靴を取り出そうとした時、丸められた紙が下駄箱に投下された。
後に続くように、紙パックのジュースも。
「ここにゴミ箱欲しかったんだよね」
「分かる。でも靴入ってなかった?」
「それもゴミでしょ」
藤本と中山が、笑いながら靴を履き替える。
自分の所有物ですら他人にゴミだと決めつけられてしまう。
この場所では意思すら持てないみたいだ。
「ファミレス行くの?」
後から来た平田が二人に問いかけると、「もち」と藤本が返す。
私は立ち尽くすだけだった。それ以外の選択肢はない。ただ過ぎ去るのを待つだけ。
そうすれば雲は流れていき、雨は別の場所へと移動する。
三人の声が遠ざかるのを感じ、下駄箱に入れられた廃棄物をゴミ箱へと捨てる。
こんな風に簡単に命を投げ捨てられたら、どれだけ幸せなのだろうか。
そんな想いを抱きながら、ゆっくりと昇降口を出た。
青を奪う灰色の空は今にも泣き出しそうだった。
色彩を散らせ、無彩色で視界を染めていく。
不安定な表情を見せる曖昧な空は、私の心を描いているように見えた。
駅前に着いた時、空の涙腺が緩んだ。
感情を高ぶらせるように、土砂降りの雨が針のように肌を突き刺す。
まるで人間みたい。
笑ってたかと思えば急に泣くし、突然怒号を響かせたりもする。
こんな気ままに感情を出せたらどんなに楽なんだろう。
周りの人たちは濡れるのを嫌がるように、急いで駅に向かっていく。
人は雨を避ける。
打たれない居場所を探し、止むまで待ち続ける。
でもそんな場所、この世界のどこにあるのだろうか。
傘を持てない私は、死ぬことでしか雨宿りできない。
色褪せていく命を守るためには、命を捨てて傷が付かないようにするしかない。
それが唯一、救われる方法だから。