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六月の紫陽花は雨に降られ美しく咲く  作者: 最下真人
【一章】 卯の花腐し
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三話 灰色の世界

外は小雨が降っていた。

 霧のような儚い水滴が肌に触れる。 

 私は手洗い場でブレザーに付いたクリームを落としていた。

 指で拭った後、ハンカチを水に濡らし優しく叩く。

 シミにはならなそうだが、また一つ心に傷を作った。

 瘡蓋にすらなれない痛み。

 腐食していく感情は、喜びと怒りを忘れさせる。


 始まりは、長い雨が降る一年前の六月だった。


「成績が良いからって、あんまり調子に乗るなよ」


 藤本が言ったこの言葉から、私の学校生活には雲がかかり始めた。

 入学してからテストは常に一番だった。

 負けたくないとか、自尊心を守りたいとか、そんな理由ではない。

 父に罵声を浴びせられるから。これだけだ。

 怒られないために勉強を続け、ただひたすら机に向かう。

 私の青春は教科書に埋もれていた。


 二年にあがり、藤本たちと同じクラスになった。

 彼女たちは意味もなくターゲットを決め、侮辱という娯楽で悦に浸っていた。


 一年の時からずっと。


 だから関わらないように生きてきた。

 学校という狭い世界。その片隅で身を潜め、なるべく目立たないように影を歩く。特別なものよりも何もない平穏を願っていたから。


 一学期の中間テストが返却され、順位が廊下に張り出された。


「また泉さんだ」


「本当に頭良いよね」


 一番上には私の名前、その下には平田明日香。

 一年の時から変わらない風景だったが、彼女たちは不満に思っていたらしい。


「調子に乗るなよ」


 藤本たちに呼び出され校舎裏に行くと、そう言われた。


「明日香さ、今回は一位取るって頑張ったんだよ。なのに、なんでいつも邪魔するのかな?」


 中山が詰め寄ってきて、壁際に追いやられる。

 周りを見るが平田の姿はなかった。どうやらこの二人だけらしい。


「邪魔なんてしてない」


「明日香はさ、バイトもしてるの。塾だけ行ってればいい、お前とは違う。それって不公平じゃない?」


 藤本が顔を近づけて言ってきた。香水の匂いが鼻に刺さる。


「そんなこと言われても……」


「おい!」


 藤本の手が私の顔を掠め、壁を強く叩いた。


「期末で明日香より上に行ったら、どうなるか分かるよね?」


 この世界は理不尽だ。勝手に雨を降らせ、傘すらも取り上げる。命は色褪せていくのに、それでも迎合させようとしてくる。


「分かった……」


 一学期の期末は順位を一つ下げ、二番目に着いた。わざと問題を間違え、点数を調整したから。


「勉強しか取り柄がないのに、もう何も無くなっちゃったね」


 藤本が嘲笑しながら言ってきた。

 悔しかったが、何も言わずに耐えることにした。

 平穏が欲しかったから。


 家に帰り、順位を父に報告すると激怒された。


「お前には今後一切、金をかけない。塾も行かなくていい。全部駿に回す。俺の顔に何度泥をかければ済むんだ」


 受験を失敗した時から失望されていたが、今回は見捨てられたと言っていい。

 その日から、家では空気のように扱われるようになった。


 それは学校でも同様だった。

 関わりたくなかったのに、藤本たちは虐げるように罵声を浴びせてくる。


「バカが来た」


「ゴミ同然」


「お前がいると空気が汚れる」


 なんのために、点数を落としたのか分からない。失っただけで、得るものなんてなかった。

 彼女たちは嫌がる人間の顔を見ては、楽しそうに笑みを浮かべる。

 だから私は反応しなかった。

 その方がすぐに止むと思ったから。

 でも降り続いた。六月の雨のように。


 誰にも助けは求められない。私も見て見ぬふりを続けた。

 自分に害が及ばないように、息を殺しながら日常を過ごしてきた。

 残された道は“命を絶つ”だけ。

 この穢れた世界から早く消えてしまいたい。

 私が神様に頼むことは一つだけ。

 死ぬ勇気をどうか授けてほしい。

 それ以外に何も望まないから。


 *


 放課後の喧騒を縫って昇降口まで辿り着く。

 長い一日を終える瞬間が、唯一の至福とも言える。

 靴を取り出そうとした時、丸められた紙が下駄箱に投下された。

 後に続くように、紙パックのジュースも。


「ここにゴミ箱欲しかったんだよね」


「分かる。でも靴入ってなかった?」


「それもゴミでしょ」


 藤本と中山が、笑いながら靴を履き替える。

 自分の所有物ですら他人にゴミだと決めつけられてしまう。

 この場所では意思すら持てないみたいだ。


「ファミレス行くの?」


 後から来た平田が二人に問いかけると、「もち」と藤本が返す。

 私は立ち尽くすだけだった。それ以外の選択肢はない。ただ過ぎ去るのを待つだけ。

 そうすれば雲は流れていき、雨は別の場所へと移動する。


 三人の声が遠ざかるのを感じ、下駄箱に入れられた廃棄物をゴミ箱へと捨てる。

 こんな風に簡単に命を投げ捨てられたら、どれだけ幸せなのだろうか。

 そんな想いを抱きながら、ゆっくりと昇降口を出た。

 青を奪う灰色の空は今にも泣き出しそうだった。

 色彩を散らせ、無彩色で視界を染めていく。

 不安定な表情を見せる曖昧な空は、私の心を描いているように見えた。


 駅前に着いた時、空の涙腺が緩んだ。

 感情を高ぶらせるように、土砂降りの雨が針のように肌を突き刺す。

 まるで人間みたい。

 笑ってたかと思えば急に泣くし、突然怒号を響かせたりもする。

 こんな気ままに感情を出せたらどんなに楽なんだろう。

 周りの人たちは濡れるのを嫌がるように、急いで駅に向かっていく。


 人は雨を避ける。

 打たれない居場所を探し、止むまで待ち続ける。

 でもそんな場所、この世界のどこにあるのだろうか。

 傘を持てない私は、死ぬことでしか雨宿りできない。

 色褪せていく命を守るためには、命を捨てて傷が付かないようにするしかない。










 それが唯一、救われる方法だから。


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