二話 雨の降る監獄
パンの空き袋、飲み干された紙パックのジュース、潰された空き缶。
下駄箱の中にはいつもの光景が広がっていた。
普段から自分が履いているものだとしても、廃棄物に埋もれると上履きすらも汚れたものに見える。環境の大事さが身に染みて分かる風刺画のようだ。
捨てられたゴミを手で掴み、下駄箱脇のゴミ箱へと捨てる。
これが学校に来て一番始めにやることだ。日課と言ってもいい。
なぜ自分が?
最初は疑問を抱いていたが、慣れてくるとなんとも思わなくなる。
人間の適応力をこんな惨めな形で知ることになるとは、想像もしていなかった。
上履きに履き替えた後、教室へと向かうため階段を上る。
喧騒を浴びながら、一段一段ゆっくりと。
会話に花を咲かせる生徒たちの声は、煩わしい蝉の声と似ていた。
夏の暑さを強調するようなノイズ。
仲睦まじそうに笑う声が、死の輪郭を一層と際立たせる。
「大学どこ行く?」
前を歩く二人組の女子の声が鮮明に聞こえてきた。
「西大」
「いや、無理でしょ。うちの学校では」
その言葉が心臓に突き刺さるようだった。自分を否定されてるようで。
普通はそう思うことはないだろう。だが学歴主義の家庭で育った私にとって、傷を抉られるような言葉だ。
本当は競い合いたくないし、ただ普通に生きたかった。
友達と青春を謳歌し、何でもないことで笑いあう。
小学生の頃はそんな日々を夢見ていたが、父は英才教育という名の鎖で私を縛り付けた。
――凡人と付き合っていたらお前も馬鹿になる
――あいつらみたいに遊んでいたら将来苦労する
――友達なんてただの飾りだ。優秀な人間とだけ時間を過ごせ
鞭のように叩きつけられた言葉で、私は友達を作ることはおろか、遊ぶことさえも許されなかった。
今は弟に全てを賭けているようで、家では空気のように扱われている。
この女子校でも同じようなものだが。
三階に着くと、「泉さん」と後ろから声をかけられた。
振り向くと樋口琴葉が階段を駆け上がってくる。
艶のあるミディアムボムを揺らし、透き通った肌が辺りを照らしているようだった。
「おはよう」
彼女は潤んだ唇を上げ、澄んだ目を輝かせた。
「……おはよう」
樋口さんとは同じクラスではあるが友達と呼べるほどの距離ではない。むしろ他人に近いと言ってもいい。
でも時折、声をかけてくる。
こんな価値のない私に。
「梅雨はジメジメするから嫌だね」
「……うん」
肩を並べながら、一番奥にある教室へと向かう。
朝の廊下には笑声が咲き誇り、色とりどりの音色が鼓膜の中へと注がれていく。私にとっては度数が高い。他人の笑い声を聞くと感情が悪酔いする。
顔を上げると教室から出てくる三人組が目に入った。
周りで咲いていた声も萎れ、会話のボリュームが小さくなっていく。
生徒たちが壁際に身を寄せるのを見て、私と樋口さんも同じように道を開けた。
目線を合わせないように、壁を沿いながらゆっくりと歩く。
闊歩する彼女たちが近づいてくると自然と視線が落ちた。
増幅する恐怖心が、塩をかけられたカタツムリのように体を縮こまらせ、存在を消そうとする。
すれ違い様、三人組の一人が肩をぶつけてきた。
壁際にいたのに。
顔を上げると、藤本千尋が見下ろしていた。
隣には嘲笑を浮かべた中山愛美と、無機質な表情の平田明日香。
「何か言うことは?」
“ぶつかってきた”藤本が言った。
「……ごめん」
私が謝ると、中山が頭を撫でてくる。
「偉いね、謝れて。でも次は気をつけてね。存在自体が邪魔なんだから」
藤本と中山の劈くような笑い声が耳に入り、心臓に亀裂が入る。
「あっ、こいつタトゥー入れてる」
藤本は私の左手を取り、宙に掲げた。
左手の小指の付け根には、糸でリボン結びされたタトゥーのようなものが描かれている。
「何これ、自分でいれたの?」
「違う」
藤本の問いに答えた後、すぐさま左手を引っ込めた。
このタトゥーのようなものは、いつの間にか小指に刻まれていた。たぶん人の死ぬ夢を見始めた辺りからだ。
「隠すなら入れるなよ」
「あんまり調子にのっちゃダメだよ。泉みたいなゴミは」
「言えてる」
罵詈雑言を吐き捨て、三人は去っていった。
これも日課のようなものだ。
被害を最小限にするため、ただ受け止める。
反発すれば傷が付くだけ。無駄に争う必要はない。
「ごめんね……」
零れた言葉を拾うように振り向くと、樋口さんは顔を歪めて俯いていた。
なぜか、その拳は強く握り締められていた。
*
「頼んだのと違うんだけど」
ひび割れた声が女子トイレに響く。
「私が頼んだのはクリームパンじゃなくておにぎり。日本語も分からないのかよ。このゴミは」
「泉には少し難しすぎたかな。日本語って難しいもんね」
「いや、流石に間違えないっしょ」
藤本と中山は笑った。
片方の口角だけを上げ、見下していることが明らかな目で。
二人の後ろには平田が立っている。
感情すら見えない冷えた視線を向けており、何を考えているかは分からない。
「クリームパンって言ってた。間違いなく」
つい反論してしまった。火の中に油を注ぐようなものだ。
「言い訳するの? ゴミのくせに。自分のことを棚に上げて人のせいにするんだ。そんな奴だとは思わなかったわ」
藤本は不快そうな顔で袋を開封し、パンを取り出す。
半分に千切ると、私の肩の辺りに思いっきり投げつけてきた。
ブレザーにクリームがべったりと付く。
「ムカつくからさ、歯向かわないで。次は許さないから」
苛立った顔を近づかせ、吐き捨てるように藤本は言った。
「こいつの顔見てるとストレス溜まるから行こうぜ」
もう片方のクリームパンを食べながら、藤本は去っていく。
「結局食うのかよ」と、中山が後に続いた。
顔を上げると、平田が冷え切った目でこちらを見ている。
凍りついた瞳は一言で言うと無関心。
私の目にはそう映った。
そして黙ったまま横を通り過ぎていく。
そこに何もいなかったかのように。