一話 雨の境界線
また人が死ぬ。夢の中で。
死ぬにはちょうどいい殺風景なビルの屋上だった。
遠くには三角形に配置された三棟のタワーマンション。夜を煌びやかに飾る景色は、まるで地獄から見る天国を表しているようだった。
柵を越えた先には白いワンピースを着た女性が立っている。
足元にはヒールが綺麗に揃えられており、踵の部分を重石にして封筒が置かれていた。
きっと最後の言葉を綴った手紙だろう。
絶望という想いを筆に染めた、遺書という名の片道切符。
私は彼女の後ろ姿を眺めながら羨望していた。
たとえ夢でも、この穢れた世界から散ってゆけるのだから。
背中を押すような風が吹くと、彼女は掴んでいた手すりを離す。
そして体を前方に傾けると、痩躯が屋上から姿を消した。
とても静かに、一瞬で霧散するように、始めからそこに何もなかったように。
空が眠る雨の中。
星すら見えない夜の底で、一つの灯火が吹き消された。
エンドロールのない物語にピリオドを打って。
*
目を覚ますと、窓を叩く雨が鼓膜に響いた。
啜り泣くように小さく打ちつける音は感情に雲をかける。
人が死ぬ夢はこれで三度目だ。
見始めたのは二ヶ月前。
一度目は車内で煉炭を焚いた男性。
二度目は交差点に飛び出した同い年くらいの女性。
なぜか分からないが、夢の中だというのに意識ははっきりとある。
そして三回とも自死だった。
正直羨ましい。
潔く死んでいく人たちは、きっと強いのだろう。
私みたいな弱い人間は、価値のない命すら廃棄できない。
ゴミのようなガラクタを捨てれずに今日も朝を迎え、また心臓を鳴らしてしまう。
左胸に手を当てると、いつものように一定のリズムで胸を叩いてくる。
煩わしい雑音。
消えてと願うが、拒むように音を響かせる。
知らない誰かが消えていくたび、その誰かがいつか自分であったらと思う。
夢ではなく、この穢れた世界で。
♦︎
歯を磨いた後、部屋に戻って壁にかけてある制服に手を伸ばした。
シャツ、スカート、リボン、ブレザー、その一つ一つを身につけるたび、憂鬱が肩を叩いてくるようだ。
この世界で唯一の居場所である自分の部屋。
ここから出て行けば雨に晒される。
その無慈悲で冷たい悲しみは、傘を持たない人間の心に死を咲かせる。
朽ちた花を今すぐにでも摘んであげたい。
苦しみながら生きるより消えてしまった方が楽だから。
着替えが終わり、階段を静かに下りる。
存在を消し、一段一段ゆっくりと。
一階に着き、玄関に向かおうとするとリビングから声が聞こえた。
父と母、そして弟の楽しそうな会話だ。
「駿が中間テストで学年一位だったの」
「お母さんはしゃぎすぎ。学年で一位取るくらい、誰にだってできるよ。それよりも模試で結果を出さないと」
「その通りだ駿。偏差値の低い奴なんて社会のゴミだ。学歴がなければ誰にも認めてもらえない。お前の姉みたいに受験で失敗し、肥溜めみたいな学校に行くような奴は、一生家畜のような生き方になる。一度道から外れれば、いくらでも補充の利く人間として扱われ、必要とされずに落ちぶれていくぞ」
「僕は大丈夫だよ。逆にどう生きたら、あんな底辺に堕ちるのかを聞いてみたい」
「なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら。駿は良い高校に入って、西大に合格してね」
「当然だよ」
穢れた言の葉が雨のように降りかかる。
心臓をきつく締め、また一枚花びらを落とす。
むしろ躊躇いなく枯れてほしい。
色褪せた醜い命に価値なんてないのだから。
*
駅のホームには天国と地獄の境界線がある。
黄色い点字ブロックが一直線に並ぶ、世界を分断する境界線。
地獄側にはたくさんの人たちが列をなしており、陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
隣に立つスーツを着た男性。その顔はくたびれており、萎れた背中が希死念慮を煽る。
大人になっても希望なんてない――そう言われてるようだった。
生きていても絶望が繰り返されるだけで、幸せなんてものは幻想の中にしか存在しない。人が溢れる朝と夜のホームには、死ぬ理由が敷き詰められていた。
アナウンスが鳴ると、天国の切符を携えた電車が視界に映る。
近年はホームドアという死への障壁が増えてきた。
だがここは今も設置されていない。まるで私を歓迎してくれているようだ。
右足をゆっくりと境界線の上に乗せ、天国の淵へと一歩近づく。
――なんで梨紗みたいな子が産まれたのかしら
母の言葉が頭の中に響く。
産んでほしいなんて頼んでいない。もし選択できるのなら、私はこの世界に存在していないだろう。
死ぬことができたら、傷が付くことも悲しみに溺れることもない。何も感じないことが、私にとっての幸せだ。
左足を前に出そうとした時、急に恐怖心が湧き上がった。
両足が竦み、前に踏み出せない。
死にたいはずなのに、心と体が拒んでいるようだった。
自分の意思すら持てない。望んでいるものすら手にできない。
死という希望が遠のいていき、絶望の底へと再び落とされる。
瞬間、前髪が靡く。
顔を上げると電車が目の前を通過していった。
天国の切符が、今日も指からすり抜ける。
誰かと戦う勇敢さ、何度躓いても立ち上がれる強さ。
そんな力はもう望まない。
たった一歩、その一歩を踏み出せる勇気が欲しい。