第三話、薄給の男
横崎警察署の刑事課、一班のメンバーは白石、沢口、木戸、脇田の四名である。
捜査は主に一番年長で犯罪心理学を学んだ経験のある白石の主導の下、行われている。
その白石刑事が一目置く人物がいる。
交通課の長峰である。
『アイツの女の勘には太刀打ちできない』そう白石に言わしめる彼女は今日も朝から免許更新の受付窓口に座り黙々と仕事をこなす。
彼女は笑顔を絶やすことなく窓口に座り続ける。
その表情は優しげだが決して動く事がない。
『あの千里眼の女の笑顔ほど怖いものはない、何を考えてるのかまるで読めない』と白石は言う。
その彼女の顔から笑みが消えた。
出来上がった新しい自動車免許証を受け取りにきた小坂竜二を見て長峰は真顔になった。
二週間前に更新手続きに来た時と違うわ
目が座っているし、イラついているし、なげやりだわ
「氏名、住所等記載事項に誤りがないか確認してください」長峰は真顔で言った。
長峰に言われ小坂は受け取った新しい免許証に見入った。
その彼を見つめながら長峰はボソリと言った。
「気をつけてください。貴方にとって辛い出来事が待ち受けている・・気をつけて」
新しい免許証を財布に入れ警察署の駐車場で車に乗り込みながら小坂は思っていた。
なんだ? あの窓口の女、気味が悪い
今日はラーメン屋で働いている彼の週に一回の休みの日だった。空には雲一つない絶好の行楽日和だが小坂のこれからの予定は弁当を買ってアパートに帰るだけである。
彼はスーパーの地下駐車場に車を滑り込ませた。
なげやり、弁当売り場で品定めする彼は長峰の見立て通り、なげやりだった。
給料日前で懐が寂しい彼は食べたかった焼肉弁当を諦め、のり弁とビールをかごに入れるとレジに向かう。
ちっ、と心の中で舌打ちする。
毎月、給料日前になると財布の中の所持金を気にしながら弁当を選ばなければならない。週一回の休みでさえ食べたい弁当を食えない。
給料が安過ぎるのだ。
小坂の働いているラーメン店は行列の絶えない人気店である。だから儲かっているはずなのに彼が貰っている給料は雀の涙、である。
くそ、ケチな加藤の野郎
加藤は小坂の勤めるラーメン店の店主である。
店に入った当初、先輩の社員に釘を刺された。
「いいか、絶対、給料の金額を労働時間数で割って計算しちゃダメだぞ」
よせばいいのに、つい計算してしまった。
計算した一時間あたりの金額は最低時給を下回っていた。
彼は最低時給より安い金で働いている己の身の上を嘆くと共に店主に憤りを覚えた。
だから店の金を盗む事を企てた。
決行は日曜日の夜に予定していた。
店は週末になると一段と混む。当然、売り上げも良くなる。銀行が営業していない土日は本来なら金を夜間金庫に預けるべきなのだが面倒なのか店主は店にある金庫に売上金を入れる。
日曜日の夜は土日、二日分の売り上げがまるまる金庫に眠っている事になる。
彼には盗みを働いても捕まらない自信があった。
安普請のアパートに戻った彼は食べたくもないのり弁を電子レンジで温めた。
薄給でこき使われている日頃の恨みを晴らしてやる、と思うとのり弁は少し旨く感じた。
そして決行当日の日曜日になった。
日中は目が回るほど忙しかったがこの売上が全て自分の懐に入るのだ、と思うと身勝手なもので疲れも感じない。
夜、最後の客を見送り厨房の火を落とすと小坂は調理場の掃除を始めた。加藤はレジの締め作業をしていた。
加藤が数える紙幣の束を盗み見する。
「じゃあ、お先に失礼します」掃除を終えた小坂は腰エプロンを外しながら店主に挨拶した。
「お疲れ」売り上げが良かったからか加藤は上機嫌だった。
カウンター裏手にある控え室のロッカーで私服に着替えた彼は部屋の端にあるアルミドアの前に立った。
ここからが計画の始まりだ、抜かりなくやらなければいけない。
彼は出口のアルミドアを開けた。
だが外には出ずに、音を立てて閉めた。
そしてそっと控え室の横の倉庫に身を隠す。
控え室にある出入り口のアルミドアは中から出る時はカギはいらない、開けるだけでいい。
そして外に出てドアを閉めると自動でカギが掛かる仕組みになっている。
今、小坂は倉庫に隠れていた。だが店のレジ前にいる店主は控え室のドアの閉まる音で小坂が帰ったと思っていた。
三十分後、売上金を持って控え室に入って来た店主は控え室の隅の金庫に金を入れるとダイヤルキーで施錠した。
仕事を終えた加藤は着替えると店を後にした。
五分後、静まり返ったラーメン店の倉庫から控え室に出てきた小坂は暗闇の中、懐中電灯をつけた。
早速、控え室の隅にある金庫の前に膝をつく。
金庫にはカギが掛かっていたがダイヤルキーを解錠する番号は知っていた。
店主が以前、解錠する時にその手元を盗み見していたのである。
7771
重く分厚い金庫の扉を開けると、盗んでくれと言わんばかりにたんまりと金が入っていた。
あとはこの金をリュックに詰めてアルミドアから出てドアを閉めれば自動でカギがかかる。
つまり控え室は密室となり、その密室の控え室から金が忽然と消えた事になるのだ。
我ながら巧妙な計画を立てたものだ、と自画自賛しながら明日の朝、空の金庫を見た時の泡を食った店主の顔を思い浮かべた。
ざまあみろ
小坂は金に手を伸ばすと手早くリュックに詰めた。
金庫の金を全部リュックに詰めた彼は足早にアルミドアに向かった。
長居は無用だ、速やかに立ち去るに越したことはない。
その時だった。
外からアルミドアのカギを開ける音がした。
二日後、横崎警察署の刑事課のデスクで白石刑事は頭を抱えていた。
「ウーン」
「どうしたんですか?」木戸刑事が尋ねる。
「日曜日の夜に捕まったラーメン店の強盗だけど頑固で困ってる」
「ああ、自分の勤める店のお金を盗もうとした犯人ですね」
「ああ」
あの夜、小坂は盗みを終え控え室を出ようとしていた時に、忘れ物を取りに戻って来た店主と鉢合わせしてしまったのである。
逃げようとする小坂と彼を羽交い締めにしようとする店主、二人はもみ合いになり倒れた店主は手首の骨を折る大怪我を負った。
「イタ、イタタタ、誰か助けてくれ、誰か」
騒ぎを聞きつけて来た三人の通行人に小坂は取り押さえられた。
こうして御用となった小坂だが店主にケガを負わせた事から窃盗ではなく、より罪の重い強盗で取り調べを受けているのだった。
木戸は聴いた。
「頑固ってどういう事ですか? 現行犯逮捕されてまさか犯行を否認しているんですか?」
「金は盗んだんじゃない、と言っている」
「ええ?」
「奴の給料は時給に換算すると最低時給にも満たないらしい、だから日頃の労働の対価としてあの金は自分が受け取って当然だから盗みじゃない、と言うんだ」
「詭弁ですね。無罪になろうとして言っているんじゃないですか?」
「それがどうも違うんだ。傷害の方はあっさり罪を認めて償いたいと言っている。だが金の話になると頑として罪を認めない、自分が貰って当然な金だから盗みじゃない、の一点張りだ」
「困りましたね」
「ああ」
白石は途方に暮れた。
小坂は強盗罪で起訴された。
強盗罪でも初犯なので罪を認め謝罪し被害者と示談が成立していれば執行猶予がつくかもしれないのに、彼は頑なに罪を認めようとしなかった。
小坂には強盗罪で実刑判決が下され、収監される事となった。
こうして刑務所に入った小坂だが、意外にも居心地が良かった。
よく刑務所に入る事を『臭いメシを食う』というが、献立は品数もそこそこにあり栄養のバランスもとれていて中々のものである。ラーメン店に勤めていた頃、のり弁ばかり食べていた食生活よりずっと良いのだ。皮肉なものだ。
監房は四人の相部屋だが気の合う仲間も出来た。
半田という小坂より一回り年上の男だった。
彼は暴利を貪る悪徳消費者金融の事務所に忍び込み金を盗み児童養護施設に寄付する、という小坂から見れば『善行』を成した人物だった。
二人は意気投合した。
その半田が言った。
「小坂君、明日からは刑務作業ですね」
刑務作業とは受刑者が行う生産作業や奉仕作業である。特に生産作業によって作られた品々は刑務所作業製品と呼ばれ即売会が開かれるほどなのだ。
小坂は頷くと言った。
「なんか給料も貰えるみたいですね。頑張ります」
「作業報奨金です。微々たるものですがめげずに頑張ってください」
「え? でも最低時給は支払われるでしょ?」
「外で貰える給料と同じ次元で考えたらダメだよ。兄ちゃん」別の受刑者が言った。
「え? じゃあ、いくらなんですか?」
半田は申し訳なさそうに言った。
「貴方にこれを言うのは胸が痛みますが・・いずれ分かる事ですし小坂さんの場合、報奨金は時給に換算すると六円くらいでしょう」
「・・・・」
小坂は警察署の窓口に座っていた女の気味の悪い言葉を思い出していた。
「気をつけてください。貴方にとって辛い出来事が待ち受けている・・気をつけて」