第六章 かくて戦姫は暗夜に躍る その⑥
悪意のこもったフランソワーズの推察は正鵠を射ていた。
同時分。同盟軍の陣内でクレメンス将軍は、自軍に対する底知れない苛立ちと後悔に歯ぎしりしていたのだ。
「不様な! いったい何をしているのかっ!」
クレメンス将軍が歯ぎしりするのも無理はない。兵の数で千人も上回っているというのに、敵の軍勢を蹴散らして女王の本陣に攻め込むどころか、戦端が開かれて半刻が経った今でも湿地帯付近に押し止められ、まったく先に進めないでいるのだから。
フランソワーズやヒルデガルドが目論んだとおり、湿地帯は通り抜けた同盟軍の兵士と馬双方の体力を消耗させていた。ゆっくりと進めばまた違ったのかもしれないが、攻め急ぐあまり全力で駆けたため、抜け出たときにはすでに肩で息をするまで消耗していたのだ。
そこに気力体力十分の三騎士団が攻めかかってきた。
ただでさえ兵士個々の技量が劣るというのに、馬上で身体を支える脚にも、それどころか剣や槍を振るう腕にも力が入らないときては、いくら千人の兵力差があっても防戦一方に追いこまれるのは必然というものであろう。
さらに言えば、同盟軍側の戦術の「稚拙さ」も理由にある。
兵力で上回っているとクレメンス将軍は言うが、その数の差が戦場において有効に機能しているとは言いがたい状況であったのだ。
全兵の内、およそ九割が同盟に参画した貴族たちの私兵という陣容故なのか、湿地帯を越えて女王軍との戦闘に突入していったまではよかったのだが、いざ戦いが始まると各貴族の私兵団は他の私兵団との連携や協調を無視し、それぞれの私兵団ごとに散らばって戦っていたのだ。
言うなれば各私兵団が同じ戦場内で「局地戦」を繰り広げていたわけで、これは同盟軍の戦術構想と指揮系統が、統一性を欠いているどころか皆無であることを如実に物語っていた。女王軍にしてみれば小グループに分散した各私兵団を各個撃破していけばいいだけである。
むしろそれらの理由を鑑みれば、戦場に踏みとどまって抗戦しているだけでも同盟軍は善戦しているともいえるが、クレメンス将軍にしてみれば何の慰めにもならない。あくまで女王軍を撃ち破ることがこの戦いの目的であって、善戦などには何の意味もないのだから。
一方、女王軍である。こちらは同盟軍とは異なる理由で「防戦」に撤していた。
三騎士団の騎士たちは皆、戦いの技量と経験ともに同盟軍兵士を上回り、事実、戦場の各所で悲鳴と血煙をあげて地面に倒れていくのは圧倒的に同盟軍の兵士であったが、それでも三騎士団の騎士たちは攻勢に出ることもなければ引いた敵を追うこともなく、指示された持ち場にとどまり戦力と体力の温存につとめていた。
例外的に戦場を駆け回っていたのは、遊撃兵として得意の弓術を駆使し、同盟軍兵士を狙い撃ちにしていたペトランセルくらいである。
彼らは待っていたのだ。全面攻勢の号令が下るのを。
そして、その時はほどなく訪れた。同盟軍の殿軍を守っていた兵士の一部が、後方の闇夜に揺らめく光点の群に気づいたのだ。
それが松明の灯火であることに気づくと、兵士たちは飛びあがらんばかりに仰天し、すぐさま指揮官たるクレメンス将軍のもとに駆け向かった。
「クレメンス将軍! 後方より敵の軍勢が迫ってきております。おそらくは反対側の湖畔を攻め上がってきた敵の分隊と思われます!」
兵士たちの迅速な対応と報告は、指揮官の不快げな一喝によって報われた。
「寝ぼけたことを言うな! 陽の出ている日中ならいざ知らず、この闇夜の中、こんなに早く湖畔を迂回してこれるはずがないだろう!」
クレメンス将軍の認識はある意味で正しく、ある意味で間違っていた。
たしかに常人であればこの闇夜の中、短時間の内に数百もの軍勢を率いて湖畔を迂回させるのは不可能であろう。だが女王軍には「フクロウ並に夜目が利く」高速行軍の名人がいて、その人物であれば可能であったのだ。
そのフクロウ並に夜目が利く人間――ガブリエラの愛嬌のある丸い目に同盟軍の最後尾が見えてきた。距離にして四百メイルほどである。
「見えた、敵の殿軍よ!」
すかさずガブリエラは、後背を続く騎士たちに肩越しに叫んだ。
「全騎突入! このまま敵の後背を突き、三騎士団との挟撃戦に入ります!」
言い終えるのと同時にガブリエラは馬体を軽く蹴り、さらに愛馬の速度を上げさせた。
指揮官に遅れまいと、麾下の騎士たちも同様に馬速をあげる。
「ガブリエラ将軍に続けぇーっ!」
五百騎のタイガー騎士団は気勢をあげ、猛然と敵勢に向けて疾駆していった。
このとき一団の先頭を走るガブリエラの両手には、数本の短剣が鋭い光をたたえていた。手の平大の小型の投剣である。
貴族や騎士の出身である他の騎士団長らとは異なり、農民出の彼女は生まれてこのかた剣や槍を習ったこともなければ振るったこともない。そのかわり山や森で鳥や小動物を獲るために独学で会得した投剣術があった。
その腕前は宙空をすばやく舞う鳥すら一発で仕留めるほどで、フランソワーズにして「もはや神技の域ね」と言わしめるほどである。
事実、タイガー騎士団の接近を知り、迎撃のために向ってきた同盟軍の隊列の中に先頭を切って飛びこんでいったガブリエラは、互いの距離が十メイルほどにまで達したとき、左右の手をすばやく閃かせたのだ。
その手から放たれた投剣は宙空を一閃し、迫りきた同盟軍兵士の甲冑に隠れていない喉もとを正確に刺しつらぬいた。
濁った悲鳴と血しぶきをあげて馬上から次々と落命していく敵兵の姿に、後方を続く騎士たちから「おおっ!」という驚嘆の声が重なりあがる。
むろん彼らも驚いているばかりではない。指揮官に負けまいと馬速をあげ、剣や槍を振って迫りきた敵兵を次々に斬りたて、刺し貫き、たちどころに同盟軍の殿軍を突き崩していった。
同時分。湿地帯の向こう側で起きた混乱は、すぐに女王軍の知るところとなった。
敵に生じた混乱をいち早く察知したヒルデガルドは、湿地帯の方角に視線を投げながら破顔した。
「ガブリエラが来たのね!」
さすがに速いわ、と胸の内で戦友の高速行軍の手腕を讃えると、手にするサーベルを頭上に突き上げながら周囲の騎士たちに向かって声高に叫んだ。
「全騎に申し渡します! これより全面攻勢に移ります。タイガー騎士団との挟撃戦に入り、敵の軍勢を掃討します!」
次の瞬間、戦場に二種類の声が響いた。「おおーっ!」という気勢と「わわっ!」という悲鳴とがである。それまで時間稼ぎのための戦いに撤していた女王軍が一転、猛然と同盟軍に襲いかかったのだ。
もともと戦いの経験と技量で勝る彼らである。タイガー騎士団に後背を強襲されて少なからず混乱しているところに、全力で攻めこまれたら同盟軍の兵士に抗する術はなかった。
どう戦えばいいかわからず、右往左往しているところを一刀のもとに甲を断たれ、頭を砕かれ、首を刎ねとばされ、馬上から突き落とされ、噴血をまきちらしながら次々と甲冑をまとった肉塊と化していった。
こうなると、さすがにもはや勝ち目なしと悟ったのだろう。騎兵たちはたちどころに馬首をめぐらし、歩兵たちは慌てふためきながら踵を返し、それぞれ闇夜の中をちりぢりになって戦場からの逃亡をはじめたのである。フランソワーズが看破したとおり、まさに烏合の衆であったのだ。
一方、兵士らが逃亡しだしたことを伝え聞いたクレメンス将軍は目玉をむいて仰天し、
「ば、馬鹿者! 逃げるな、踏み止まって戦えっ!」
血相をかえてそう怒鳴ってみせたところで、喚声と悲鳴とが交錯する戦場にあっては聞こえるものではない。もっとも、聞こえたところで引き返してくる者はいなかったであろうが。
この時点でなお決死の覚悟で戦っていたのは、将軍の護衛をつとめる直属の部下百騎余であったのだが、クレメンス将軍はそのことに気づいていない。
気づいていたのは部下たちのほうで、口々に戦場からの撤退を指揮官に進言した。
「閣下、もはやこの戦に勝ち目はございませぬ。ここはすみやかにブルーク城にまで撤退すべきかと存じます!」
「左様! 城内には二百の兵士にくわえ武器も食糧も十分にございますれば、ここはひとつ籠城し、国都からの援軍の到着を待つのが吉かと!」
部下の進言を受け容れるだけの理性が、まだクレメンス将軍には残っていた。
うなり、悔しがり、歯がみしつつクレメンス将軍は撤退の命令を下すと、自らも護衛の騎兵らに守られながら湿地帯に広がる闇中に消えていったのである。
そんな一団の逃げゆく姿をフェニックス騎士団に所属する騎士の一人が偶然見とがめ、すぐさま指揮官たるヒルデガルドに報告した。
その一報にヒルデガルドは追撃の指示を下すと、あわせてフランソワーズのいる本陣に伝令の騎士を走らせた。
「おそれながら女王陛下にご報告申しあげます。敵はわが軍の挟撃の前に戦場から逃走いたしました。お味方、大勝利にございます!」
駆け入ってきた伝令の騎士の報告に、ランマルを含め本陣に詰めていた兵士たちから歓声があがった。
その中にあってただ一人。サーベルの剣環に手をおいたまま無言を保っていたフランソワーズは、やや間をおいてから伝令の騎士に問うた。
「それで、敵主将クレメンス将軍はどうしました?」
「はっ、残念ながら討ち漏らしたとのことにございます。おそらくはこの闇夜に乗じてブルーク城に逃走したものと思われます」
すでにヒルデガルドが追撃の準備をしていることを騎士が告げると、フランソワーズは微笑まじりにそれを制した。
「追撃は無用とヒルデガルド将軍に伝えなさい。もはや敗軍の将などに用はありません」
そうフランソワーズは笑い捨て、続けて命じた。
「四騎士団長に通達。敵兵の残存を掃討したのち、この本陣に集結するようにと。それをもって本作戦の終了とします」
伝令の騎士が天幕内から駆け出ていったのをみはからい、ランマルがはずんだ声をフランソワーズに向けた。
「うまくいきましたね、陛下」
「当然じゃない。誰が作戦を考えたと思っているのよ」
フランソワーズは得意顔で胸をそらし、表情そのままの語調で続けた。
「一戦して敵の力量を探り、その出鼻をくじくという当初の目的は果たしたわ。あとは国都への征路につくのみよ。ランマル、その準備を整えておきなさい」
「かしこまりました。しかし、主将たるクレメンス将軍を討ち漏らしたのは残念でしたね。どうやらブルーク城に逃げこんだようですし。かの将軍が健在なうちは城を放って進軍させるわけにもいきませんし……」
もはや敗残兵など放っておいてもいいだろうが、進軍した後、後背でちょこまか蠢動されてはなにかと厄介である。
ここは城をきっちりと陥して後背の憂いを断ちたいところだが、敵の大将たるクレメンス将軍が健在であるかぎり、やすやすと城が陥ちるとも思えない。
そうランマルが懸念を漏らすと、フランソワーズは何やら含みのある笑みを浮かべ、
「心配ないわ。私にちゃんと考えがあるから」
「お考えがあると?」
「そうよ。数日のうちにもブルーク城はわが軍のものとなり、ついでにクレメンス将軍の生首とも対面することになるでしょうね。それも味方の血を一滴も流さずにね」
わずかな沈黙をおいてから、ランマルはうやうやしく低頭してみせた。
根拠のない大言を吐く主君をもった憶えなど、彼にはなかったのだ。
事実、フランソワーズの「予言」は、これより五日後に現実のものとなったのである。




