第六章 かくて戦姫は暗夜に躍る その③
何を考えているのかわからない女性――。それが今から半年前、主席侍従官として召し抱えられたときに、美貌の女王に抱いたランマルの第一印象であった。
そして時を経て現在、ランマルは同種の思いに強く駆られていた。その理由は現在のウェミール湖の状況にある。
湖の南岸に陣を置いた女王軍に対し、約半日遅れで湖に進軍してきた同盟軍は反対側の北岸に陣を敷いたのだが、女王軍の出方を見守っているのか探っているのか。陣を構えたものの一向に攻めかかってくる様子は見られない。
それは女王軍も同様なのだが、この場合、地理的な面で両軍の間には大きな差異があった。
多少距離はあるとはいえ、同盟軍の後方拠点であるブルーク城は同じ領内にあるのに対し、女王軍の拠点たるカナン城は、早馬を飛ばしても片道一日はかかる遠方にある。同盟軍はいざとなれば武器でも食料でもすぐに湖まで取り寄せられるが、女王軍はそうはいかない。物資の補給を要請しても、湖に届けられるまで往復で五日から六日はかかるであろう。
湖畔に陣を敷いて以降、同盟軍が動かずにいるのは、女王軍のそういった事情を見越しているからとランマルは見ていた。
女王がこの湖を戦場に定めた真意というものをランマルはいまだにわからなかったが、ともかくそうと決めた以上は先の理由からも早期決戦を挑むべきなのではと思うのだが、当の女王はというと陣を構えて以降、湖畔の陽当りのいい場所に丸テーブルと椅子を並べて、そこで年代物のワインや熟成されたチーズなどを堪能しながら日向ぼっこに興じるという毎日を過ごしていた。
合わせて数千もの軍勢が湖を挟んで一触即発の状況だというのに、どこまで呑気なのかねこの女王様はと、ランマルは内心でイライラしていたのだ。
そんな側近の心情を知ってか知らずか。遠眼鏡越しに同盟軍の陣がある北岸を真剣な面持ちで眺めていたランマルに、後背からフランソワーズが陽気な声を投げてきた。
「うーん、このブルーチーズはほんと美味ね。赤ワインとよく合うわ。ちょっとクセはあるけど舌の上でよく溶けるし、お前もひとつどう、ランマル?」
「…………」
呑気というよりは、もはや「脳天気」としかいえないフランソワーズの態度に、さすがにランマルはたまらなくなって声を高くさせた。
「陛下! おそれながら臨時主席侍従武官としてご意見申しあげます!」
するとフランソワーズは、驚いたように両目をパチクリさせ、
「な、何よ、急にあらたまっちゃって……?」
「この湖畔に陣を敷いて今日で丸三日。地の利を有する反乱軍とはことなり、わが軍の後方拠点ははるか遠方にあり、いざ補給をうけようとしても時間がかかります。彼らが動かずにいるのは、われらのそういった事情を見越してなのは明白。ならば今すぐ交戦のご命令を下し、短期決戦を挑むべきではありませんか?」
「拠点なら、ちゃんとこの本陣があるじゃないの。ワインだってチーズだって十分な量をもってきているし、何が不満なのよ?」
あんただけ満足してもしょうがないでしょうがっ! と、フランソワーズのずれた返答にランマルは内心で噛みついたが、声にだしてはこう続けた。
「拠点の問題だけではありません。戦いには機というものがあります。それを逃しては勝てる戦にも勝つことはかなわないでしょう。あのとき動いていればと後日になって悔いても、時すでに遅しということになりかねません」
「ふうん、機ねえ……」
フランソワーズはひと口ワインを呑むと、薄笑いまじりにランマルを見すえ、
「それで、臨時主席侍従武官殿が考える機というのはいつかしら?」
「もちろん、今すぐにも動くべきかと」
「今すぐにもどういう手を打つの?」
「ど、どういう手と言われましても……」
とっさの返答に窮し、ランマルは声を詰まらせた。
ランマルとしては正直、そんな具体策まで考えてはいない。地の利がないから持久戦になることを心配しているだけで、作戦の中身まで考えている訳ではなかった。
ランマルにしてみれば自分は軍師でも参謀でもない、たんなる臨時の侍従武官なのだからそんなこと聞かれても困るのである。
「それは実際に戦いの指揮を執る四騎士団長の方々が判断されることなので、自分などが口出しすべきことではないかと……」
ランマル巧妙に逃げを打つと、フランソワーズは何か物言いたげに微笑したが、
「なるほど。機を逃してはならないというお前の言うことも一理あるわね。よろしい。では、さっそく今夜にも動くことにするわ」
「さようですか、今夜に……えっ、今夜?」
フランソワーズの言葉に、今度はランマルが目をパチクリさせた。
「こ、今夜と申しますと、つまり、今日の夜ということでしょうか?」
「辞書を引けはそうでるんじゃない」
愉快そうに笑うと、フランソワーズはふいに上空を指さした。
「見なさい、ランマル。あの雲を」
「雲?」
言われるままにランマルは頭上を見あげた。
透きとおるような青空が広がるその一角に、わずかに灰色がかった厚い雲を見つけたのは直後のことだ。
どうやら雷雲や雨雲のようではなさそうだが、気のせいか、その灰色の厚雲はだんだんとその面積を広げているように僕には見えた。
とはいえ、よく見慣れたなんの変哲もない雲ということにかわりはない。
「あの雲がどうかなさいましたか?」
「あの雲が私たちの勝機を運んでくるのよ、ランマル」
意味のわからないフランソワーズの言葉に、空を見あげたままランマルはただポカンとするしかなかった……。
†
太陽が一日の役目を果たし、山峰の稜線にその姿を消しかけていた時分。緊急の軍議のために女王の本営に集められた四人の騎士団長たちは、そこでフランソワーズの口から思いもがけぬ言葉を聞かされた。
すなわち、今夜軍を動かして攻撃にうってでる、ということをである。
フランソワーズの「突飛な」言動や思考というものに、四人の騎士団長たちは耐性や免疫というものが十分備わっていたはずなのだが、そんな彼女たちでもとっさの反応に窮し、黙したまま困惑の視線を交わしあっていた。
ややあって小さく息を吐いたヒルデガルドが、一同を代表して声を発した。
「陛下のお決めになられたことに、私どもは身命を尽くすのみにございます。ただご深慮の一端をお教えいただければ、私たちも迷いなく戦いに臨めるのですが……」
フランソワーズはうなずき、自らの作戦を語りだした。
フランソワーズの策――。
それは軍を二手に分けて湖畔を左右両側から攻めあがり、湖畔北側に陣を敷く同盟軍を挟み撃ちにしようという、いたってシンプルなものだった。
それだけに、かえって「粗」が見えやすかったのかもしれない。四人の将軍たちはふたたび視線を交わすと、今度はペトランセルが疑問の声を発した。
「おそれながら陛下。兵力を二分しては、逆に敵の思うつぼにございませんか?」
ペトランセルの懸念は、およそ用兵の知識に皆無なランマルにもよくわかった。
女王軍の兵力二千に対して、同盟軍はおよそ三千。ただでさえ兵力で劣っているというのに、その上軍勢を二分して挟撃戦をしかけたところで、敵は全軍をもって左右いずれかの半数になった方を攻めてくること疑いなかった。
そうなれば挟み撃ちにする前に、こちらが各個撃破の憂き目にあうかもしれない。その危険性をペトランセルは指摘したのである。
もっとも、その点について指摘されることはフランソワーズも予想していたようで、手にする紅茶のカップをテーブルにおくと穏やかな口調で応じた。
「そのとおりよ、ペティ。だから攻める際には、ちょっとした奇計を用いるのよ」
「奇計……?」
戸惑った様子の四将軍に、どこか興がった口調でフランソワーズが説明を続けた。
先に話したように兵力を二手に分けるが単純に半分に分けるのではなく、湖畔を右回りで攻めあがる右翼部隊はガブリエラのタイガー騎士団が一団でうけもち、左回りで攻める左翼部隊は残りの三騎士団が連合してうけもつ。
その際、タイガー騎士団は松明を一人が二本使用しながら進軍し、逆に三騎士団側は三人で一本の松明を掲げながら進軍する。こうすることでタイガー騎士団を倍の兵力に見せ、逆に三騎士団側を三分の一の兵力に見せる。
月星の光のない暗夜にあっては遠眼鏡による視認も限られ、敵は松明の灯火が少ない三騎士団側を兵力が少ないと思いこみ、各個撃破すべく全軍をもって攻めこんでくるだろう。あとはタイガー騎士団が駆けつけてくるまで敵軍をその場に釘付けにして、敵を前後から挟撃する。
視野のきかない闇夜と松明の灯火を利用した、まさに奇計戦法であった。
「なるほど、奇計というのはこのことでしたか」
一様に得心したようにうなずく騎士団長たちに、フランソワーズは薄く笑ってみせた。
「松明の灯りの数を見れば、当然敵は左翼の三騎士団側を少数と思いこみ、まずそちらを潰してやろうと攻めてくるでしょう。偽装とも知らずにね」
低声の笑いを漏らしながらフランソワーズはガブリエラに視線を転じ、
「ガブリエラ。交戦を確認したら、そなたは得意の高速行軍をもって湖畔を急ぎ回りこみ、敵の背後を強襲しなさい。夜目が利くそなたであれば可能なはず。いいわね」
「かしこまりました、陛下」
ガブリエラが低頭して応じると、フランソワーズはさらに強い語調で断じた。
「いつまでもこんな所でグダグダしていられないわ。今夜中に奴らとは決着をつけて、一日も早く国都に向かうわよ!」
語尾に重なるようにランマルと四人の騎士団長たちは椅子から立ち上がり、いっせいに頭を垂れた。
かくしてその日の深夜。作戦は決行されたのであった。




