第四章 かくて戦姫は賊討を決意す その②
「ほげべっ!」
と、突如としてわが身、というより顔面を襲った得体の知れない衝撃と痛みに、ランマルはエリートらしからぬ悲鳴をあげて床にひっくり返った。
そして顔を押さえながら起きあがったとき。その目に一番に映ったのは、きらびやかな刺繍細工がほどこされた女性用のパンプスだった。どうやら顔面を襲ったのはこれらしい。
「パ、パンプス……!?」
「この最低オトコ! あんたなんかチーズの角に頭をぶつけて死んじゃえばいいのよ!」
ふいに鼓膜を叩いたその怒号に驚いたランマルは、とっさに前方を見やった。
すると、そこには赤色を基調としたドレス姿の少女が一人廊下の角に立ち、目端をつりあげた凄い形相でランマルを睨みつけている姿があった。
「エ、エマ様!?」
その姿を視認するなり、ランマルは驚きのあまり声を失ってしまった。
それも当然であろう。彼女の名はエマニュエル内親王といい、フランソワーズの妹、つまり王族の一人なのだから。
妹といってもフランソワーズとは異母姉妹であるが、それでもフランソワーズはこの異母妹をことのほか溺愛していた。骨肉の争いを演じた王族の中で唯一、自分と敵対することのなかった人間だからかもしれない。
そのエマ王女はこの年十六歳になる。小柄でちょっと丸顔の、やや癖のかかった金髪とふっくらとした唇がとても印象的な女の子なのだが、じつはランマルとエマは王族と家臣という立場を超えた「いい仲」なのであった。
ようするに恋人同士というわけなのだが、しかし、そんな二人の関係を知る者はフランソワーズも含めて城内には一人としていない。それも当然で、ランマルもエマも周囲には秘密にして交際を続けていたからだ。
その理由は二人の身分にある。いくら子爵家の出身で女王側近のエリート侍従官といえど、つまるところランマルは一介の廷臣でしなく、対してエマは傍流とはいえ王族の一員である。
この交際が周囲に知られでもしたら、互いの身分を理由に強制的に別れされられるのは目に見えており、ゆえに二人は細心の注意を払いながら今日まで交際を続けていたのである。
そのエマ王女だが、どういうわけか廊下の先で目端をつりあげた形相でランマルを睨みつけていた。
絵に描いたような憤怒の態に、いったい何事であろうかとランマルはいぶかった。ここ最近、彼女を怒らせるようなことをした憶えはランマルにはないのだが……。
「な、何をお怒りになられているのですか、エマ様?」
「何を白々しい! 聞いたわよ、今度、縁談をするんですってね!?」
「え、縁談……?」
一瞬、ランマルはエマの言葉が理解できずポカンとなったのだが、ややあってその意味が脳裏に染みわたると、ようやくエマの怒っている理由を察することができた。
どうやら彼女、姉のフランソワーズに舞いこんできた縁談話をなぜかランマルの話と誤解して、それで嫉妬のあまり怒り狂っているらしい。
(何かと思えば、まったく嫉妬ちゃってほんと可愛いんだから……って、今はそんな呑気なこと言っている場合じゃない!)
内心でニヤついたのも束の間、ランマルは慌てて首と両手を激しく左右に振りながら、縁談の話が事実誤認であることを必死に説いた。
「ご、誤解ですよ、エマ様!」
「何が誤解よ! 私、姉様からちゃんと聞いたんだからね。自分の勧めた縁談話をあんたが喜んで承諾したって!」
「へ、陛下が!?」
意外な一語にランマルは目玉をむいて仰天したが、すぐにおおよその事情を察した。
すなわち、フランソワーズが自分への縁談話をランマルの話にすりかえてエマに伝え、それを信じたエマが「自分という恋人がいながらよくもよくも……!」と妬心まじりに怒っているという構図をである。
(まったく、あの底意地の悪いスイカップ女王め。いくら僕とエマ様の関係を知らないからって、しょうもない嘘をつきやがって!)
女王への憤りにランマルは歯ぎしりする思いであったが、それよりなにより今は悪鬼の形相で怒り狂っている恋人の誤解を解かなければならない。
「そ、それは僕の、いえ、私の話ではありません。陛下の縁談にございますよ!」
ランマルが「冤罪」であることを必死に主張すると、エマはそれまでの憤怒の形相から一転、きょとんとした顔になり、
「……陛下? もしかして姉様の縁談話なの?」
「そ、そのとおりにございますよ!」
一連の話をランマルが詳しく説明すると、ようやく誤解であることを理解したエマはたちどころに笑顔になり、
「なんだ、姉様の話だったの。どうりで変だと思ったわよ。だってランマルはまだ十七歳なのに縁談なんてね。怒って損しちゃったわ、ウフフ」
「ご理解していただけて私も嬉しく思います。ハハハ……」
と、ランマルも笑って追従したのだが、本音はというともちろん別で「そういうことは靴を投げつける前に気づいてくださいね」と文句のひとつも言いたかったのだが、ここは年上の恋人として(たった一歳ちがいだが)大人の態度をとることにした。
するとエマは表情を改めて、脳裏に浮かんだ疑問をランマルに向けた。
「それにしても姉様に縁談を勧めてくるなんて、ミノー国王はどういう心境の変化なのかしら? 先の戦いでアジュマン兄様とアドニス兄様が亡くなられて、そのことを理由にミノー国王はわが国を敵視していると聞いていたのだけれど……」
「エマ様はご存じでしたか」
「城の人間なら誰でも知っていることよ。実の甥のアジュマン兄様かアドニス兄様のどちらかに国王になってもらって、このオ・ワーリ王国を意のままにしようとしていたのに、それをカルマン兄様やフランソワーズ姉様に阻止されて恨んでいるんでしょう、ミノー国王って。なのにどうして縁談なんか持ちかけてきたのかしらね」
「だからこそにございます」
ランマルがミノー国王の思惑を話して聞かせると、エマは得心したようにうなずき、
「なるほどね。今度は姉様を利用しようという考えなのね。王太后様と同じパターンで」
「はい。ただ、あくまでも私の勝手な推測ではありますが、話を勧めてきたミノー国王自身も今回の縁談を陛下が素直にお受けになるとは思っていないでしょう。おそらくは断られることを前提とした縁談話のように思われます」
「つまり、ミノー国王には別の意図があるというわけね?」
「さようにございます」
このあたりの察しの良さは、異母姉妹とはいえ姉の女王とよく似ているとランマルは思った。
王女の聡さにランマルで内心で感心していると、後方からなにやら騒々しい声が響いてきた。
何事かと思って振り返ってみると、一人の侍従官が血相をかえて廊下をこちらに走ってくる姿が見えた。
ランマルの部下の一人で名前は……いや、名前などどうでもいい。この後もう登場することはないのだから。
その某侍従官が廊下を駆けながらランマルに声を飛ばしてきた。
「こ、こちらにおられましたか、ランマル卿。大変でございますぞ!」
「何事だ、騒々しい。内親王殿下の御前だぞ!」
というランマルの一語と、そのランマルの後背からエマがひょいと顔を覗かせたことで、ようやくその存在に気づいた某侍従官はたちどころに立ち止まり、恐縮した態で深々と低頭した。
「こ、これはエマ様、失礼いたしました!」
「気にしなくていいわ。それより何かあったの?」
「は、はい。じつは今しがた、北部ノースランド領主のグレーザー男爵の急使が城に到着したのですが、その急使によればあの黒狼団どもがまたしてもあらわれて、領内の村々を襲っているとのことです」
「な、なに、黒狼団が!?」
某侍従官の報告に驚いたランマルとエマは、おもわず顔を見交わした。
某侍従官が口にした【黒狼団】とは、おもに国土の北部帯を活動範囲にしている盗賊集団の名である。
その黒狼団。オ・ワーリ国内では一応盗賊集団として扱われているものの、そのじつ盗賊業のみならず村々を襲っては殺人や誘拐を繰り返すなど、他の盗賊団とくらべてもその非道さは突出しており、王国内では「最狂最悪の賊集団」として恐れられていた。
くわえてその行動は神出鬼没を極め、短期の内に派手に暴れまわったかとおもえば霧のように姿を消し、一転して長期にわたって消息を絶つといった謎の行動を繰り返し、結果、捕縛された賊はこれまで一人としておらず、詳しい正体は今もってよくわかっていない。
それゆえ王城に勤める人々の間では、件の盗賊団に対して「ミノー王国の兵士なんじゃないのか?」という【ミノー兵擬装説】がまことしやかに囁かれていた。
領土を接する北部帯ばかりで暴れまわり、捕縛の手が迫ったらさっとミノー領内へ逃げこむ。これならこれまで一人として捕まえられないことも説明がつくからだ。
賊らしからぬ統制のとれた集団行動力といい、襲撃の際の殺傷力の高さといい、限定された出没範囲といい、ランマルなどは個人的に限りなく「クロ」だと思っている。
いずれにせよ、その黒狼団が久々にあらわれた。それも女王に縁談話が持ちこまれたのと前後して。鼻がひん曲がるほどのキナ臭さをランマルが感じたのも当然であろう。
とはいえ、連中があらわれたというのなら好機ともいえなくもない。今度こそ一人でも賊を捕縛して奴らの正体を暴き、件の説を立証したいところだが……。
「いかがされますか、ランマル卿?」
某侍従官の声で思案の淵から脱したランマルは、
「よし。ともかくも陛下のご裁断を仰ごう。すべてはそれからだ」
そう言うなり踵を返し、女王の執務室に駆け戻っていった。




