茜色の空
「お疲れ様でした。」
今日は久しぶりの定時上がり。
更衣室で帰り支度をしながらスマホの電源を入れる。
電源が入ったスマホのディスプレイには『18:06』の文字。アプリの通知に一通り目を通したあと、鞄を持ってすれ違う人にお疲れ様です、と挨拶をしながら更衣室を出た。
首にかけているICカードの紐を取って、社員通用口のカードリーダーに社員証をかざす。開いたゲートを通って、自動ドアから外に出ると空はまだ明るかった。最近は残業続きだったせいでこんな明るい時間に帰れることが不思議な感じた。
歩道には茶色くなった葉っぱがあちこちに落ちていて、頬に当たる風も少し冷たい。あぁ、いつの間にか秋になっていたんだなと、ふと上を見ると葉を落とした木々の間から茜色に染まったひつじ雲が見えた。
「あ。ひつじ雲だ...」
そうつぶやきながら、私はあの日のことを思い出していた。
「じゃあ、また明日ね!バイバーイ」
生徒会の仕事が終わり、私は夕陽が差し込む廊下を一人歩いていた。下駄箱でスリッパから靴に履き替え、グラウンドでボールを追いかけているサッカー部の声を背に正門をくぐる。すると、ちょうど正面に山に沈みそうな夕陽とひつじ雲が見えた。
綺麗な空だなぁと思って歩きながら、
何気無く右ポケットに手を入れたとき、
カシャン
と音がして、右手になにか硬いものが当たった。手に当たったものを引っ張り出すと『3-3』と書かれた木のプレートとそこにぶら下がっている鍵が見えた。
「やっば…!」
戻らなきゃ。
そう思った時にはもう走り出していた。
全力で来た道を戻り、昇降口から伸びる階段を一気にかけ上がった。タンタンタンタンタン、と私が走る音だけが響く廊下は陽が傾いたことでさっきより暗さを増していた。教室の手前の曲がり角にさしかかった、その時。角から大きな影が現れて、思わず足を止めた。
「わっ!」
「おぉっ…と…あれ、西田さん?」
頭の上から聞こえた声に顔をあげると、同じクラスの長谷川くんがいた。
「ハァ…ハァ…ぁ、っあのっ…長谷川くんっ…カギ、わたし…」
彼に会った驚きと、全力疾走のせいで上手く言葉が出てこない。それでも彼は、私の言いたいことがわかったらしく、
「やっぱり。西田さんが持ってたんだね、カギ。」
と、怒るわけでもなく目を細めて笑っていた。
「もしかして、ずっと探してたよね…?」
彼は帰宅部で、本当ならとっくに家路についているはずだ。その彼がこんな時間までいるということは、日直の担当である教室のカギ閉めをしようと残っていたに違いない。そのカギが見つからなかったのだから文句の一つでも言っていいのに、彼は怒るどころか微笑みを一層強くして私を見ていた。私は、彼に見つめられて恥ずかしいのと、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、
「ごめんね…。」
そう言いながらうつむいてしまった。
下を向いたままでいると、目の前に彼の手がスッと出てきた。
「行こ」
「えっ…」
彼の顔を見ようと顔をあげると同時に、目の前に大きな影ができた。いつもは見上げている彼の顔がほんの数センチ先にあることに気づき、私は咄嗟に目を閉じた。
「教室、行こ?」
彼の声に目を開けると、彼は目の前でカギをひらひらさせていた。私は頷くのが精一杯で、踵を返した彼の後を慌てて追いかけた。前を行く彼の背中を見つめながら、カギを取られた時に一瞬触れた指先が、ジンと痺れた気がした。
ガラガラガラガラ…
誰もいない教室のドアを開けて中に入っていく彼に続いて私も教室へ入った。いつも賑わっているその場所は、まるで別世界のように静かだった。彼は手に持っていたカギを、教室の一番前にある教壇の上に置いた。
コトン
やけにその音が大きく聞こえて、私はなんだか落ち着かなかった。
「…あのー…帰らなくていい、の?」
あまりの静かさにいてもたってもいられず、思わず出てきた言葉を口に出した。 すると、私に背を向けて立っている長谷川くんの肩が揺れ始め、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
「…フフッ… …知ってたよ。」
「えっ、何を?」
「ほんとは、知ってたんだ…」
そう言って、ゆっくりと彼は私の方を向いた。
「西田さんが教室のカギ持ってるの、知ってた。」
「えっ、そうなの?」
「うん。でも、西田さんなら絶対思い出して戻ってくるだろうなーって思って言わなかったんだ」
「な、に…それ…。言ってくれればよかったのに…」
長谷川くんが何を言いたいのかわからず愚痴をこぼしてしまった。そんな私の呟きに彼から返事はない。教室の窓に背をむけて立っているせいで、あまり表情は見えないけれど、真っ直ぐに私を見つめていた。その真剣な眼差しに目をそらすこともできず、私もじっと見つめ返していた。
「…さて、帰ろっか」
彼はそう言って教壇の上に置いたカギを取ると、教室の入口に向かった。結局、何で教室の中まで戻ってきたのかわからないまま、彼にならって教室の出口に向かった。すると、教室を出ようとする直前、彼が突然立ち止まりこちらを振り返った。 ぶつかる、と思い立ち止まって目をつぶると、ぶつかる感覚ではなく、耳元で囁く彼の声が聞こえてきた。
「本当は、西田さんと帰りたかったから言わなかったんだけどね。」
「……っ…!」
近くで感じた彼の気配が遠ざかったと同時に目を開けると夕日に照らされた彼の優しい笑顔がそこにあった。 言われた言葉の意味が徐々にわかると、顔がかーっと熱くなるのを感じた。何も言えず彼を見つめていると、
「帰ろっか」
と言って彼は教室の外に出た。
それから何を話したとか、どうやって帰ったとか全然覚えてない。でも、最初に一人で見た茜色のひつじ雲より、藍色に染まった空にうっすらと見えたひつじ雲のほうがキレイだなって思ったことだけ覚えている。
懐かしい思い出に浸っていると、バッグから聞き慣れた音楽が聞こえてきた。 携帯を取り出して、スピーカーを耳に当てた。
「もしもし…うん、さっき会社出たとこ。そっちも終わった?うん…じゃあ、一緒に帰ろっか。」
そう言って電話を切った私は、すっかり暗くなった道を少しスピードを上げて歩いた。
END