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ハマギク(2)  作者: 島央加
1/1

ハマギク

[31]

まさかこいつが私の孫だとはね。だからこそこそジムを覗いてたりしてたのか。なるほど。それにしてもなんか変な気分だよ。めちゃくちゃ嬉しいけどね。さっき、いきなり会ってなかった娘と話をして、優一が孫ってことを知らされるんだからさ。

「さあ、優一。泣くのは止めだ。嬉しいことなんだ。笑え。な。」そう言うと、「はい。」と言って涙を流したまま、笑顔をつくった。

トゥルルルル。

何とも言えない空気を変えさせるが如く、電話がなった。

着信を見ると春奈からだ。ジムに電話を掛けてくるなんて、龍二がここに入ったくらい以来だな。色々心配して電話してきてたっけな。何だろうね。

「もしもし春奈、どうした?」そう聞くと、若干慌てた様子で、「明代さん、急にごめんなさい。龍二いますか?」

「ああ、いるよ。替わるかい?」何があったんだろう。全然見当がつかない。

「いえ、いいです。明代さん。今市立病院から電話がありまして、光夫が怪我をして、救急車で病院に運ばれたみたいなんです。あの人今1人で生活していて、家族が周りにいないので私に連絡がありました。命に別状はないってことなんですけど、とりあえずそれだけ伝えられただけで、どんな様子なのか、詳しいことはわかりません。私はこれから病院へ向かいます。龍二にも来るように伝えて貰えますか?」若干声が震えているようにも聞こえる。そりゃそうか。心配なんだろうな。離婚したって言っても元旦那だし、嫌いで別れた訳じゃない。あんな事がなけりゃ今頃まだ家族だっただろう。

そんな事を思いながら龍二を見ると、締めのストレッチをしているところだった。

「春奈。わかった。龍二に伝える。私も一緒に行くよ。」そう言うと、少しの間春奈は無言になった。そうだろうな。私と光夫が顔を合わせるということになるんだからね。

「わかりました。お願いします。」少しして口を開いた春奈はそう答えて電話を切った。

市立病院まではジムから近い。車で10分程だ。フロントガラスに目をやると、濡れていた。先程までの晴天とはうって変わって急に雨が降ってきた。ワイパーを起動させる。チラッと横に座っている龍二を見ると、静かな表情で前を見ていた。

「龍二。心配かい?」そう聞くと、「ええ、まあ。」と短い言葉で返してきた。その後病院に着くまでは、ワイパーの動く音だけが車内に響いていた。

病院に着き、総合案内で、何処で光夫が処置されているのかを聞く。てきぱきとした40代くらいの女性が早口で、説明してくれた。

「はいよ。ありがとね。」そう言って指示された場所へ向かう。総合案内から長い廊下を歩き、突き当たりを右に曲がった所で、処置されているということだった。突き当たりを曲がると、部屋から春奈と光夫が丁度出てくるところだった。

「大丈夫かい?」そう言うと、春奈はこっちを向いて、深々と頭を下げた。光夫は何も言わず、ただこちらを見ている。どんな心境なんだろうね。私と龍二は2人の元へと移動した。

「おい、大丈夫だったか?」そう聞くと、春奈が説明してくれた。

「お騒がせしてすみませんでした。怪我大したことはないんですが、右足の先端の甲の骨の骨折です。仕事で、資材が崩れ落ちてきて、下半身が下敷きになったそうです。少しの間仕事を休んで安静にしていれば良いとのことで、今日は帰されました。松葉杖生活で、色々不自由だと思うので、私達としばらく生活することにしました。」まだ家族3人共に言葉を交わさず、私と春奈のみの会話だ。

「そうかい。まあ無事で良かったじゃないか。」光夫を見ると、下を向き、黙ったままだ。

「おい、光夫。」そう声を掛けると、少し強張った表情でこちらを見た。

「久しぶりじゃないか。」

「・・・、お久しぶりです。」顔はこちらに向いているが、目線をやや下にして、そう返してきた。

「なあ、光夫。ちょっと話があるんだ。良いかい?」私が急にそう切り出すと、一瞬戸惑うような表情を見せた後、「・・・、はい。」と一言だけ返した。

「春奈。龍二。ちょっと光夫と話がしたいんだ。外してくれないか?」私の要望を聞き、少しの時間、春奈は考え、「分かりました。私達は車で待っています。」そう言って龍二と一緒に去って行った。

雨音のみが聞こえる誰もいない廊下で、私と光夫だけとなった。

[32]

「久しぶりだね。元気にしてたか?」

「はい。・・・あの、なんて言っていいか。」確かに何て言っていいのか分からないだろうな。こいつにとっては言葉に出来ない程気まずいだろう。うちの旦那を事故で死なせちまって、刑期を終えてから初めて会うんだ。嫌なもんだろうし、どうして良いか分かるはずもないか。こいつはおそらく、どうやって謝ろうかと考えているんだろう。だけど、謝ってもらうために春奈と龍二に外して貰った訳じゃあない。光夫に言わなきゃならないことがあるんだ。

「おい。お前、刑務所出てから、何か余計なことしてるだろ?」私の問いに「え?」と、咄嗟に返した。

「あんた、何かジムのポストにちょこちょこ放り込んでないか?」何を聞きたいか理解した様子の光夫は気まずそうに横を向いた。

「あ、いや、その・・・。」上手く言葉が出せないでいる。自分の中で何て言葉を発して良いのか自問自答しているのかね。

「あんた、何度も金ジムに放り込んでんだろう?」私が大きな声で怒鳴ると、龍二の処置をしていた部屋から医者が出てきた。

「どうしました?何かありましたか?」

「いやいや、何でもない。ごめんね。」そう言うと、「分かりました。」と言って部屋へ入っていった。医者が部屋へ入った瞬間、急に光夫は両膝をついて、頭を床に付けて土下座をし出した。

「すみませんでした。すみません。すみません。あんなことしか思い浮かばなかった。何をしても許される事はないと思いますが、せめてもの償いです。」泣いていた。

「おい、顔を上げなよ。何してんだい。」そう言いながら、光夫の肩を叩いた。しかし、まだ床に頭を付けたまま、「すみません。俺なんか、こんな怪我じゃなくて、死んでれば良かったんだ。」その言葉を聞いた瞬間、私の中で怒りの感情が生まれた。力付くで光夫の襟首を掴み、顔を上げさせた。

「おい、お前、何言ってんだよ。」そう言うと、再びさっきの医者が出てきた。

「あのー、大丈夫ですか?何かありましたか。」私は光夫から手を離し、「大丈夫ですよ。ごめんなさいよ。」そう言うと、「あ、分かりました。」と言って中へ入って行った。再び2人になった廊下で、光夫に問いかけた。

「あんた、死んでれば良かったってどういうことだい?馬鹿なこと言ってんじゃないよ。」私の言葉に、下を向いたまま聞いている光夫は何も答えない。

「どういうことなんだい?」光夫の顔を見ると、泣いていた。

「・・・すみません。すみません。」床に頭を擦り付けながら言葉を絞り出していた。

「死んでれば良かった。こんな足の怪我じゃなくて、いっそのこと死んでれば良かったんです。こんな人殺し。すみません。すみません。すみません。」光夫の言葉を聞いて私は即座に前髪を掴んで前を向かせた。

「おい、光夫。人殺しって言葉の意味知ってんのか?故意で人を殺める事だ。お前は違う。事故だ。故意で私の旦那殺したんなら、今頃あんたは私に殺されてる。馬鹿なこと言ってんじゃないよ。」

「でも・・・、俺はあなたから大切な方の命を奪ってしまったんです。」変わらず大量の涙を流していた。

「ああ、命奪われたよ。ただ、結果だ。今も言ったけど事故だ。確かに旦那が死んだ時は落ち込んで、全身の力が抜けちまったよ。だけどな、数日で元に戻った。いや、戻したんだよ。落ち込んでてもつまんねえからな。だからお前も、もうつまんない自己嫌悪は止めな。前を向くんだ。」光夫は肩を震わしたまま、声を絞り出した。

「俺、許してもらえるんですか?」

「許すも何も、恨んじゃいないよ。何にも恨んでない。だからもうポストに金なんか入れるな。当然ながら今までの金も返す。貰う理由がないよ。」光夫はゆっくりと頷いた。

「ありがとうございます。」鼻水を啜りながら、静かに呟いた。

こいつはこいつなりに苦しんだんだろうな。ずっと重い十字架背負って、自分を攻め続けていたんだろう。

龍二とこのジムに初めてやってきた時から真面目な親父だなと思っていた。明るくて、冗談も言ったりしていたが、礼儀正しくて、腰の低い奴だった。それに家族思いで春奈と龍二を大事にしていた。だからこそ家族に迷惑かけまいと、出所後は離婚して、別に暮らすっていう選択をしたんだろうな。

「光夫。これから暫く家族3人で暮らすって言ってたな?」ゆっくりと立ち上がり、1つ深呼吸してから光夫は言った。

「はい。足がある程度良くなるまで世話に成ることになりました。情けないんですけどね。」本当に自分が情けないといった表情で下を向いて呟いた。

「いや、あんたネガティブに考えているけど、これはチャンスじゃないか。」私の言葉に、少し驚いた様子で、「え、どういうことですか?」と、予想通りの返事が帰って来た。

「今ふと思ったんだ。あんた達、又夫婦に戻りな。別に嫌で離婚したわけじゃないんだ。春奈だってそれを望んでるかもしれない。龍二にとっても良いに決まってる。あいつも色々辛い思いしたしな。そうしなよ。」呆然とした様子で聞いていた光夫はゆっくりと口を開いた。

「いや、どうなんでしょう。今はそういうことは何も考えられないというか・・・。」

「あ、ああ。ああ。急にこんなこと言われても困っちまうか。まあ、難しく考えずにそういうことも考えてみたらどうだ?」軽い感じで私がそう言うと、「そうですね・・・。」と、複雑そうな表情でそう呟いた。

私は強い力で光夫の背中を叩いてから言った。

「そういう事だ。しっかりやれ。あ、そうだ。もうじき龍二のデビュー戦で、あいつ頑張ってるぞ。いつでもジムに見に来い。」光夫は大きく2回頭を下げて、「はい。あ、ありがとうございます。ありがとうございます。」と、また涙声になった。

「馬鹿野郎。何又メソメソしてんだい。行くぞ。」今度はケツを蹴ってやった。これからこいつは今までとは違って前を向いていけるはずだ。

[33]

昨日は本当に色々あったね。優一は私の孫だって判明するし、久しぶりに光夫に会って一悶着あるし。疲れたよ。まあ、どちらも悪いことじゃあないし、結果的に嬉しいことだったから良いか。

今日は日曜だ。梢は七海を連れて出掛けるから来ないって連絡あったから、今日は時間が出来た。さっそく光夫に金を届けに行くか。アリも連れていこうかね。そんな事を考えながらアパートの階段を降りてジムを見ると、ジムの前に立っている奴がいた。・・・やれやれ。日曜だってのに面倒くさいのが来たね。

「おいおいおい、何か用かい?今日は梢と七海は来ないよ。」少しびっくりした様子でこちらを見た。

「そうなんだ。」その言葉を聞いて、とりあえず襟首を掴んで怒鳴ってやった。

「ちょっとあんた。礼儀がなってないね。まず、おはようございますだろ?それからね、年輩者には敬語で話をするもんだよ。ここはボクシングジムだよ。ボクシングっていうのは礼儀作法を重んじる、伝統と歴史のあるスポーツだ。分かってんのか?ああ?」

「お、おはようございます。」返事を聞いて、襟首から手を放した。

「で、今日も会いに来たんだろ?」

「ああ。あ、そうです。ここにいるかなーと思って来てみました。」こいつは何なんだろうね。どういう人間なんだろう。まだよく分かんないね。良い奴なのか、悪い奴なのか。

「あんたさ、どうしたいわけ?梢と七海と一緒に暮らしたいのか?」

「え、ええと、そうですね・・・。出来れば一緒に暮らしたいんですけど・・・。」もじもじした態度と、ぎこちない敬語でそう返した。

「無理だね。」はっきり言ってやると、瞬間的に「えっ。」と言ってこちらを見た。

「何意外そうな顔してんだよ。当たり前だろ。あんた今まで梢に酷いことしてきたみたいだね。馬鹿男が。私だってムカついてるんだよ。」こいつがしてきた事は詳しくは梢から聞いてはないけど大体分かる。あの遺書にも書いてあった。

「そ、そうですか。確かに、まあ、酷いことしちゃいましたね。」ボソッと軽い感じでそう言った。こいつは何なんだ。こうしてここまで足を運んで来るってことは関係修復をしたいんだろうけど、態度が軽すぎる。

「お前さ、分かってんのか?何なんだよ。本気で許して欲しいと思ってんのか?馬鹿。」我慢できずに再び襟首を掴んだ。

「ほ、本気ですよ。」

「本気か?おい。」そんなやり取りをしていると、こいつの背後に2人立っていた。梢と七海だ。出掛けるところだったんだろう。私はゆっくり手を放した。

「おい、後ろ。見てみろ。」そう言うと、ゆっくりと後ろを振り返った。

こちらを見る梢の顔がみるみる険しくなっていった。

「梢。お、おはよう。」若干緊張した様子で、梢の機嫌を取るように挨拶した。しかし、梢の表情は険しいままだ。しかし、横にいる七海は「あ、お父さん。」と言って笑って手を振っている。なんか七海は嬉しそうだ。そういえば、梢の話や、あの遺書の内容。こいつは梢には色々酷いことをしてきた。でも七海に何かをしたということは一切伝わってこなかった。まあ、梢だけに色々したってだけで十分罪深いんだが。

「な、何してるの?」手を振ってこいつの所へ来ようとした七海を止めて、静かにそう言った。七海は不思議そうに梢を見上げている。

「いや、特に用事って訳ではないんだけどさ。ちょっと梢と七海の顔が見たいなぁって。」低姿勢でこいつは話すが、梢は目を合わせようとはしない。相当拒否の感情が強いんだろうね。

「・・・来ないで。もう来ないで。」下を向いてそう話す梢の目には涙が滲んでいた。

「ちょっと待ってくれよ。少し話がしたいんだ。」そう言いながら梢の傍まで走って言った。

「嫌。・・・嫌です。帰って。」2人のやり取りを見て、七海は不安そうな顔をしている。そりゃ母親が涙溜めて嫌がってりゃ不安になるわな。

「ちょっとあんた止めな。」そう言って左の腕を掴み引き離した。

「おい、ちょっと強引過ぎるだろ。梢と七海の顔見てみろ。」私の言葉に反応して、2人の顔を見た。

「ごめん、ごめんよ。」先程とは全く違う表情で謝った。こいつは本当にどういう奴なんだ。梢に酷いことをしていたのは事実だろうけど、実際の人間性は優しい奴なのか。それともこれは演技か?そんな事を考えていると、「・・・お父さん。」と七海が父親に言葉を発した。咄嗟にこいつは七海の方を向き、「どうした七海?・・・っていうか元気にしてたか?」七海は下を向いて、「うん。」とだけ返した。

「ごめんな。お父さんしばらく居なくて。ずっと会いたかったんだぞ。」

「私も会いたかったよ。でもね、でも、お母さん困ってるからら又来てね。」下を向いていた七海は、今度はしっかりと父親の顔を見てそう言った。

「そうだな。七海の言うとおりだ。あんた、2人の事を思ってんなら今日は帰りな。」もうさっきまでの強引さはなかった。

「分かりました。梢と七海のことよろしくお願いします。」深々と頭を下げ、背を向け立ち去ろうとした。

「大丈夫だよ。私が付いてんだから。七海もしっかりしてんだろ。初めて会ったときよりもずっと成長してる。」背を向けたまま聞いているこいつに、もう一言付け足した。

「おい、許して欲しければ、もっと誠意を見せな。一度や二度顔出したくらいで許されるなんて甘い考え捨てて、もっと根性見せるんだよ。そっからだ。分かったか?」今度もこちらを振り向かず、頭だけを下げて、ゆっくりと歩きだし、去って行った。

「お騒がせして、すみません。」まだ赤い目をしている梢はそう言って謝った。

「全然大丈夫だ。気にするな。あ、そうだ。七海、中入ってジュースでも飲むか?」

「うん。」七海はいつもの元気な感じに戻っていた。


「はいよ。」七海にオレンジジュース、梢にアイスコーヒーを出した。七海は「ありがと。」といつもの様に笑顔でお礼を言うが、梢は軽く頭を下げただけだった。まだ感情が正常な状態ではないんだろう。そうだろうな。

「アリー。」あっという間にジュースを飲み干した七海はそう言ってアリの元へと走って行った。

「なあ梢。どうするんだい?」今日の一件で梢の心境が変わったとは思えないが、一応聞いてみた。

「・・・七海と2人で暮らしていきます。それは変わりません。」そう言って私の目を見た。強い意志が感じられる。

「そうか。でも、あいつはけっこう本気な感じだぞ。本気で許して欲しいって思ってる。」私がそう言っても、下を向いて黙っているだけだった。

「まあ、もう少し様子見て考えな。私がとやかく言う事じゃないしね。」梢の肩に手を置くと、ゆっくり頷いた。

「でも何かあったら直ぐに私の所に来るんだよ。いつだっていい。いいかい?」もう1度、今度はもっと深く頷いた。肩に置いた手を両手に変え、「大丈夫。私達皆付いてるんだから。なっ。」と耳元で小さく言うと、「はい。」と返した。そして立ち上がり、表情を正すと、「ありがとうございます。よく考えてみます。」とこちらを見てそう言った梢の表情は先程とは違い吹っ切った様な印象だ。そんなに時間が経った訳じゃないのに。強くなった。

「よし、その調子だ。」バシッと梢の腰を叩くと「はい。」と言って七海とアリの所へ走って行った。

色んな家族の形があるな。アリを囲んで話す梢と七海を見て、しみじみそう思う。どうしようもない夫。耐えてきた妻。無邪気な娘。この家族を簡単に言っちまうとそんなところか。

あいつらはどんな家族って表現したらいいんだろうね。罪を犯してしまった夫に、苦悩を背負った妻、苦しみながらもボクシングに全てを注ぐ息子。そんなところか。あいつらも辛かったんだろうな。これからどんな道を各々が選択して進んでいくんだろうね。まあ、私は口出ししながら見守ることしか出来ないけどね。

「明代さん。又ジュース飲みたくなっちゃった。」アリとじゃれ合いながら七海が大きな声で叫んだ。

「はいよ。ジュースあげるから中入んな。」

「うん。」今日も夏の日差しが容赦なく照らしてくる。

[34]

電車が止まると、一気に緊張感が増した。向かいの席では、カップルと思われる男女が楽しそうに話している。そんな風景を見ていると羨ましくなってくる。恋仲に嫉妬しているのではなく、その雰囲気だ。この緊張から早く抜け出したい。

電車のドアが開き、席を立ち、ゆっくりと重い歩を進める。駅からジムまでは近い。心を落ち着かせよう。そう思ってゆっくり深呼吸した。

「お母さん、大丈夫?」不安そうな顔で優一がそう聞いてきた。

「うん。大丈夫よ。ちょっと緊張するけどね。」そう言って笑顔で返したが、おそらく若干ひきつっているかもしれない。でも何だか変な感じだ。母親に会うだけなのに、その事を息子が心配している。事情が複雑だから仕方ないことなんだけど。

最初気付かれた電話の時、私の予定を確認して、今日顔を出すようにとしか言わなかった。お母さんは昔からそうだ。対面しての会話だとよく喋って感情を顕にするけど、電話では必要最低限の事をさらっと話すだけだ。電話で話すよりは面と向かって話したいのだろう。お母さんらしい。

優一は心配そうにこちらをチラチラ見てくる。本当に優しい子になったものだ。優しすぎて控えめで、将来大丈夫かとよく思っていた。そんな子が自分から行動してお母さんの所に行った時は驚いた。でも少し嬉しい気持ちもあった。我が子の成長というものが垣間見れた気がして。そして心のどこかで今日みたいな日がくるんじゃないかと思っていたのかもしれない。そこには期待感もあったと思う。嬉しい気持ちと不安な気持ち。どちらの感情も自分の中で感じながら、改札を通る。さあ、ジムまでは直ぐだ。この真っ直ぐな道を歩き、角を曲がればジムが見えてくる。もう1度ふぅーっと深呼吸して、心の中で気持ちを切り替えた。

「よし、行くか。」先程よりも良い姿勢にして、自分を奮い立たせる様に歩き出した。優一はもう何も言わずに横を歩いているだけだった。こちらから声を掛けてみた。

「ありがとうね。優一。」

「ん、何が?」と少し驚いた表情で返してきた。

「優一がおばあちゃんに会いに行ってくれたから、今日がある。ありがと。」私の言葉を聞いて、優一は下を向いた。照れなのか、今日母と祖母が対面することへの嬉しさなのか。又は別の気持ちか。私は優一の感情を把握することは出来ないけど、しっかり気持ちを伝えておきたかった。

「あのさ。今日おばあちゃんに許して貰えるか・・・、やっぱり駄目で縁を切られるか分かんないけど、どちらにしても、もう1度母親に会うことが出来ただけで私は満足。本当にありがとね。」下を向いたまま聞いていた優一は、足を止め、「大丈夫だよ。」と一言だけ言った。その言葉を聞いて、「うん。」とだけ答えた時、曲がり角まで来ていた。視界にはジムがあった。

ジムの前に立ち、もう1度ふぅーっと大きく深呼吸をした。その時だった。ガシャっとドアが開いた。出てきたのはお母さんだった。急な事に動揺してしまい、上手く言葉が出ない。

「あの・・・。」そう言って立ちすくんでいると、「なんだい、誰かと思ったら光と優一か。はい、入んな。」とあまり特別な事が起こってない感じで私と優一を強引に中に入れた。

久しぶりだ。何年か振りに見るジムの風景。瞬時に昔の光景が脳裏に蘇ってきた。忙しなく動く、若い選手達や、その他の人達。指導するお父さん、お母さん。いつも興味本位で見ていたな。

「おい、何ぼーっと突っ立ってんだい光。掃除の時間だよ。」そう言って手に掃除機を持っていた。

「優一。もうじき梢と七海来るんだから準備しな。ジュース切れちまってんだ。買ってきてくれ。はい、千円。釣りでお前も冷たい物でも買ってこい。はい、行った行った。」この感じも久しぶりだ。いつも動いて、元気なお母さん。

優一を送り出した後、掃除機を私に手渡すと、「おかえり。」と一言だけ小さな声で呟いて事務所に入って行った。赤くなった目を隠しながら、丁寧に、隅々まで、しっかり掃除機をかける。お母さん、今までごめん。そしてありがとう。

[35]

「コラー。アリ。待てー。」七海が楽しそうにアリを追いかけて遊んでいる。

「おーい、七海。車には気を付けるんだよ。」炭を起こしながら明代さんがそう言った。私は良恵さんと机や椅子を出していた。

「さ、梢。こんなもんでいいだろ。次は拭かなきゃね。大分長いことしまってあったからね。」そう言って手拭いで良恵さんは汗を吹いた。

「はい。」何だか準備の段階で楽しくなっているのは私だけだろうか。今日はみんなで集まってのバーベキューだ。私と七海。明代さんの娘の光さんと、優一君。龍二君とご両親。良恵さん。龍二君は試合までの減量が順調で、多少食べても大丈夫らしい。

「おーい。お待たせ。」そう言って帰って来た光さんと優一君の両手にはパンパンに膨れ上がったビニール袋があった。買い出し品を机の上に置き、「お母さん。こんなんでいい?」と明代さんに聞く。

「お前ね、置いて早々、直ぐに分かるわけないだろ。」と言って、袋の中を見て、「まあ、良いんじゃないか。」と明代さんらしく、簡潔に答えた。

「はーい。何か適当じゃない?」

「何言ってんだよ。しっかり見てるよ。」

何気ない親子の会話だ。久しぶりの再会から数日しか経ってないのに、とても何年も会っていなかった親子の会話とは思えない。明代さんの人柄が成せることなんだろうな。

龍二君の親子も黙々と準備に取り掛かっている。

「ちょっと光夫、こっち手伝ってよ。」そう言って椅子を運びながら春奈さんが光夫さんに大きな声で指示をしている。光夫さんは先程から七海の相手をしてくれていた。明代さんとの関係が今の様になって、本当に良かったと思う。私は当時のこととかよく分からないけど、ただ、光夫さんは本当に優しい人だと思うし、この3人は良い家族なんだろう。龍二君も、ジムの練習の時は恐い雰囲気だけど、終わったあとは以前にない、優しい笑顔が最近時々見れる。

「ごめん、ごめん。」そう言って七海の頭をポンポン撫でた後、光夫さんは小走りで春奈さんの元へと移動した。なんだか良い父親像そのものだ。

「あれ、龍二は?」明代さんがビニール袋の中の物を仕分けしながら言うと、「あ、今トイレ掃除をしてます。」春奈さんが答えると、「なんだよ。休んでりゃいいのに。もう試合近いんだしよ。」そう言って、ジムの中に目線を移した。「まあ、こんな時期にバーベキュー企画しちまう私がいけないんだけどね。」と言って笑った。

「全くだ。」良恵さんが返すと、「だってね、夏が終わっちまうだろ。夏はバーベキューだ。毎年の恒例行事なんだからさ。龍二も減量余裕あるし、多少は食べれるからいいだろ。」と言って、ビールを一口飲んだ。

「あー、明代お前もう飲んでやがる。」

「いいんだよ。あたしゃ会長だよ。」

「なんていい加減な会長だよ。なあ七海。」そんなやり取りを見ていると、「あ、明代さーん。」と、いつもジムに来ている小学生達が手を振ってきた。

「おう、お前ら何してんだ?」

「今から公園でサッカー。何してんの?」普段通りの会話だ。

「私達は今からバーベキューだよ。お前らも肉食ってくか?ジュースもあるぞ。」と言って小学生達を招き入れた。自然な感じで、もっと賑やかになった。いつもジムで見る光景とあまり変わらない。

もしも・・・あの時計画を実行してしまっていたら。明代さんに会わなければ・・・今頃。ふとそんなことを考えた。楽しい時を実感すると、時々考えてしまう。私の悪い心理的な癖になってしまっているのだろうか。

「おい、梢。」急に声を掛けられビクッとした。

「はい。」

「どうしたんだい?どこか具合でも悪いのか?」

「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事を。」そう言うと、私の腰をバシッと叩き、「何考え事してんだい。そういうもんは帰って1人になった時にゆっくりするもんだよ。今は楽しまなきゃ。な。悩みごとか?」明るい表情で話す明代さんは1番初めに会った時とは全く違う。

「いえ、悩みごとではないです。」私の返しに明代さんはニコッと笑い、「そうか。じゃあ後でしっかり考えるんだ。人間考えて動く事が大事だからよ。坂本龍馬みたいにな。」その時だった。

「あのー。」声がする方を見てドキッとした。そして気分が下がっていくのが分かった。姿を表したのは啓太だ。何をしに来たんだ。こんなに楽しい時に。苛つきと、動揺が私の心に生まれた。

「おう、来たか。」その言葉を聞いて、えっと思った。明代さんは承知の上という言い方を啓太に投げ掛けた。

「ちょっとこっち来な。」手招きして、私の元へ啓太を誘導した。

今日もこの人の顔をまともには見れない。いや、見ない。

「悪いね。梢。呼んじまったんだよ。ちょっと前にふらっと又ジムに来たからさ。許しを請いに。だから今日の事教えたんだよ。別に許してやれって言ってんじゃないよ。しっかり手伝ってもらうだけだ。それに七海も両親揃ってた方が嬉しいだろ。な、七海。」明代さんの言葉に七海は「うん。」と言って笑っている。

「分かりました。」なるべく嫌な顔はしないように、そう答えた。

私たちのやり取りが一段落付いた様にみんなとらえたんだろう。準備の続きに取り掛かった。あまり周りの雰囲気は壊したくない。笑ってこの人と接することは出来ないけど、少しなら普通に話しは出来る。

「ごめん、梢。迷惑だった?」申し訳なさそうに啓太は私にそう聞いた。

「別に。」小さな声で一言だけ返した。迷惑に決まっている。顔も見たくない。でも、明代さんが呼んだのなら仕方がない。私が我慢すればいいのだから。それに・・・。チラッと七海を見た。笑顔で啓太の方を見ている。七海は嬉しいだろう。両親が揃ったのだから。

小走りでこちらへ来た。

「お父さん。おはよう。」七海の言葉を聞くと、「あ、ああ。おはよう七海。」笑顔で頭を撫でているが、やや遠慮がちな様子だ。妻には今まで酷い行いをしてきたが、娘は知らず、良い父親と思われている。七海にとって私たちは、良い両親。ある意味仮面夫婦みたいなものだ。

「おい、お前さ。何してんだよ。早く買ってきたものを出して、準備するんだよ。まったく。七海、手伝ってあげな。」

「は、はい。すみません。」そう言って、手伝いを始めた。七海も嬉しそうに、横で一緒に手伝っている。2人の姿を見て、以前を思い出した。七海が産まれた時、2人で喜び合った。しばらくは、3人での生活が楽しかった。それが、啓太の仕事が上手くいかなくなって、酒を飲んで暴力が始まり、女をつくって家にいないことが増えた。仕事も辞めた。でも七海は全くそんな父親の姿を知らない。娘の前ではそんなところは見せなかった。娘のことは本当に好きなんだろう。確かに優しい人ではある。暴力を振るってきた時も、何か後悔している様な様子はあった。優しくて、悪い人ではない。それは知っている。最初からあんな酷いことはしなかった。・・・弱い。そう、弱い人なんだ。酒と女に逃げて、仕事家庭より、快楽を選んだ。

「お母さん、早く来てよー。」七海の声で、はっと我に返った。以前の事を考えすぎていた。

「ああ、ごめん、ごめん。」そう言って啓太と七海を手伝う。「どうやって準備していいか分かんない物もあるから、ちょっと教えてよ。」と、遠慮がちに啓太が聞いてきた。

「え、うん。」小さな声で返し、ふと明代さんの方を見ると、目が合った。慌てて明代さんは目を反らした。そして切り替える様に、「おーい、準備がだいたい出来た感じだな。そろそろ始めるか。」と、大きな声でみんなに言うと、周りから大きな声で返事が聞こえてきた。

「やったー。肉肉肉。」1番はしゃいでいるのは小学生達だ。

「うるさいんだよ。お前達。しっかり食えよ。沢山肉あるんだからな。」

「言われなくても食べますー。」

「なんだ、この生意気坊主どもが。」そんなやり取りを聞いて周りは大笑いしていた。私も自然と笑っていた。横に目をやると、啓太も笑っていた。この感じほ久しぶりだ。そして又明代さんと目が合った。

[36]

「ほいよ。どんどん肉焼けてきたよ。ガキども、どんどん食いな。」

「うるさいな。食べてるよ。」

「なんだいその口の聞き方は。もう肉あげないよ。」

「ウソ。ウソです。ごめんなさいー。」

「ハハハ。いいからどんどん食いな。大きくなれないよ。」

「はーい。」

昔からこうだった。お母さんは誰とでも打ち解けて、いつも楽しそうにしている。周りはいつも癒されて、明るい雰囲気になっている感じだ。私が出て行く前の家族の雰囲気もそうだった。笑いが絶えない明るい家族だった。私が勝手な行動で出て行ってからはどうだったのかな?夫婦2人きりの生活は。きっとお母さんのことだから、楽しく暮らしてたと思うけど。お父さんが亡くなってからはどうだったんだろう。きっと寂しかったはずだ。でも、そうやって明るく振る舞っていたんだろうな。明るくて、優しくて、強い人だ。久しぶりに再会して改めて思う。

「おい、何ボーっとしてんだい?光。肉取られちまうぞ。」

「ねえ、お母さん。」反射的に、しかし小さな声が私の口から発せられた。

「ん、なんだい?」自然に声が出たのは、周りから若干離れていたからかもしれない。

「あのさ、・・・怒ってないの?私、家勝手に飛び出して、何年も音信不通で、お父さんにも会わずにあんなことになっちゃって。」小さな声のまま聞いてみた。やっぱりはっきり聞いてみたかったことだ。2人だけの時にはなんだか聞きづらい。

「は、怒る?何で?」不思議そうにお母さんは返してきた。何でって・・・何て返したらいいんだろう。躊躇していると、「何で怒らなきゃいけないんだよ。お前が自分で決めて、判断したことだ。立派じゃないか。優一を立派に育てて、仕事もしっかりやって、苦労したんだろ?凄いことだ。怒んないよ。逆に感心してるくらいだ。それにお前のことだ。お父さんの墓に謝りに行ってんだろ?もう色々気にすんな。さあ、肉取られちまうぞ。早く食え。」

「う、うん。ありがとう。」何とか涙を堪えて、声を絞り出した。

「おい、明代。ビール貰うぞ。」

「おい、春夫てめー何本目だ?アホが更にアホになっちまうぞ。」春夫さんとのやり取りで周りが笑っている。そのすきに私は涙を拭いた。

[37]

タクシーの運転手さんは赤信号で止まる度に、「すみませんね。」と申し訳無さそうにこちらを見て頭を下げてくる。勿論赤信号になってしまうのは運転手さんのせいではない。

「いえ、大丈夫ですよ。」と、止まる度に私は返した。病院まで行ってくれと伝えたとき、私は何か焦っている様に見えたのだろうか。その様な感じの印象を与えてしまい、運転手さんを慌てさせてしまったのなら申し訳ない。確かに多少の焦りはあった。職場に電話がかかってきたのは昼休憩の時だった。啓太の同僚と名乗る人だった。引越し会社の従業員。電話の内容は啓太が引越しの作業中に階段から足を滑らせ、救急車で運ばれたということだった。いつからか仕事をしていたらしい。職場にその旨を報告し、早退した。上司からは早く行くようにと促された。我が家の家庭状況は知られていないから、そういう対応になったのだろう。

「ありがとうございました。」運転手さんと同じ言葉を発っし、タクシーを降りると、小走りで病院の中へと入った。啓太は2階の病室にいるとのことだった。階段を上がると、病室は目の前だった。入ろうとすると、ドアが開いていて、中から声が聞こえてきた。

「へー。娘さん可愛いじゃないか。いくつだい?」

「3歳なんですよ。もう可愛くてね。へへへへへ。」啓太の声だ。話し相手は看護師さんか、お掃除の仕事をされている方か。けっこう年輩の女性だろう。

「で、これが奥さん。」女性が尋ねた。

「そうですね。」

「あら、奥さんも可愛いじゃないの。幸せね。」そう言われた後、少しの間沈黙が出来た。

「ありがとうございます。いや、でも色々迷惑かけてるんですよ。」しんみりした口調でそう答えた。私がいない所でも反省の弁が出ている。本心なのだろうか。なんだか複雑な心境だ。

「まあ、夫婦ってのは元々他人だから、一緒にいると色々あるわね。」と、言った後、じゃあねと言って部屋を出ていこうとしている女性の声に慌てて病室に背を向けて少し離れた。部屋を出ていく女性の姿をチラッと見ると、やや年配の看護師さんだった。

少しの間外の風景を見ていた。直ぐに病室に入ると、今の話を聞いていたと思われてしまいそうだし。それと、ちょっと一呼吸入れたいという気持ちもあった。

雨は相変わらず降り続き、病院の中庭では一匹の猫が雨宿りをしていた。野良猫だろうか。まだ小さい子猫だ。よく見ると、中庭にもう一匹の子猫と、親猫と思われる猫がいた。親子の猫の家族なのだろう。少しすると、カッパを着た1人の小柄な男性がやってきた。丈箒を持っている。清掃員の人だろうか。中庭の落ち葉を掃き出した。不思議と猫達は落ち着いている様子だ。退こうとせずに、男性を涼しい顔で見ている。しばらくして、掃き掃除 が一段落付いたのだろうか。ベンチに腰掛け、水筒を取り出し、リラックスした様子で飲みだした。少しすると、男性は中庭の端に設置された倉庫の中から、2つの銀の容器と、透明のボックスを出した。そして猫達の近くへ持っていった。男性の周りに直ぐに猫達は集まった。ボックスの中はキャットフードだろう。容器一杯に盛り、その後、中庭の水道からもう1つの容器に水を汲み、猫達の元へ持っていった。猫達は少しの時間、餌と水を堪能している様子だ。腹ごしらえが済んだのか、猫達は順番を決めていたかの様に男性の足元へ集まり、じゃれている。廊下から、一組の親子が指を指して微笑んで見ていた。診察に来ているのだろうか。何か良い風景だなと自然と私も笑顔になっていた。病院ということもあり、しっかり衛生面を保って世話しているのだろうな。中庭はとても綺麗だ。それに広いから猫達も住みやすいのだろうな。あの猫達はどうやって飼われることになったのだろう。ここに迷い混んだから一時的に飼われているのだろうか。狭い路地が中庭の端にある。あそこから入ってきたのだろうか。それにしても優しそうな方と、理解ある病院の所に身を預けれて、幸せな猫達だな。はたして私の予想は当たっているのだろうか。などと勝手に想像していると後ろから声を掛けられた。

「梢?」ハッとして後ろを振り向くと、啓太が松葉杖をついて立っていた。少しドキッとしたがこの前のように久しぶりに合った時や、バーベキューのときの様な動揺はなかった。

「来てくれたんだ。」そう小声で遠慮がちに啓太は聞いてきた。

「うん。職場に連絡あったから。で、大丈夫なの?」

「あ、ああ。大丈夫。んー、大丈夫ではないか。引越しの荷物運んでいたらさ、階段で足踏み間違えて転倒して、荷物が足に落ちてきた。骨折みたい。どんな感じか色々説明あったけどよくわかんねえや。とりあえず3日間入院だって。全くドジだよな。はは。」そう言って頭を掻いた。若干気を使った話し方だ。

「引越しの仕事始めたんだね。」仕事のことは知っていたが、なんとなく聞いてみた。どういう考えで始めたか。ちょっと聞いてみたい気もあった。

「ああ。最近始めた。ちょっとしっかりしなきゃなって思って。梢と七海に久しぶりに会ってそう思ったんだよな。あと、あの恐い女会長な。仕事の1つでもしなきゃお前達に会わせてもらえないんじゃないかと思ってさ。」

「ふーん。なるほどね。」話出して、ちょっと気が緩んだのか、先程よりはちょっとリラックスした様子の啓太は、「あのさ、立ち話ちょっとこの足じゃしんどいから座らないか?」と、近くにある長椅子に目をやり、聞いてきた。

廊下に設置された緑色の座面の長椅子に腰掛けると、フーッとゆっくり啓太は息を吐いた。慣れない松葉杖の移動は疲れるのだろう。

「なのさ、ごめんな。」急にそう言葉を発した啓太に私は戸惑った。

「何、いきなり。」謝罪の言葉は初めてではないけど、今日は雰囲気が少し違った。何か、必死な感じではなく、吹っ切れたように淡々としている。

「いや、本当駄目な奴だなって最近痛感させられてさ。今働いている所、俺から見て立派な奴らばかりなんだよな。家族抱えて一生懸命働いてる人間が何人もいるんだけど、みんな奥さんのこと大事にしてて、子煩悩なんだよな。そういう環境で、まだ少ししか仕事してないけど色々考えさせられてな。本当俺は駄目人間だってつくづく思うよ。」黙って聞いていた私の顔を見ると、「あ、で何が言いたいかっていうのはさ。許してほしいって言ってきたけど、あれ撤回。」おもわず「えっ。」という言葉が出た。

「なんで?どういうこと?」私の言葉を聞くと、両腕を組み、少し下を見て、「んー。」と言った後、「何かさ、そんなに簡単に許してもらえることじゃないと思ってさ。すげー酷いことしてきたよな。仕事が上手くいかないくらいで。暴力、浮気、酒。アホだよ。俺。だからさ、許してもらって一緒に住むなんて烏滸がましいよ。梢も又どうなるか心配になっちゃうかもしれないし。」一通りそう話し、「ふー。」と息を吐いた。

「傍で見守るよ。今さ、近くに住んでいるんだ。でも勝手に家に行かないし、時間が合った時に2人が会ってくれればいい。金も入れる。いいかな?」先程よりも若干緊張した表情で啓太はそう聞いてきた。少し間をつくって考えた。でも、啓太が話している時に自分の中では決まっていた。

「いいよ。それで。」私の返答に、「そうか。あ、ありがと。」そう言って笑顔になり、気持ちが緩んだ様子で下を向いた。

間をつくったのは、私が返答に迷っていると思わせ、過去のことの重みを少しでも感じてほしかったから。今の啓太は十分感じていると思うけど、まだ久しぶりに会って間もない。この時点で改心したと完全には思えない。でも、確かに変わった。・・・変わったのかな。


病院を後にして、歩きながら考えた。啓太は変わったのか。違う。変わっていない。元々があんな感じの人だった。優しくて、明るくて、子供好き。でも、・・・弱い人。仕事が上手くいかなかっただけで、酒と女にという逃げ道をつくり、イライラと焦りを私にぶつけた。あまりの啓太の変わり様も、私をあの様な馬鹿な行動を起こそうとしてしまった要因の1つだ。

まだ、しとしとと小雨が降っている。予報通りだと夜には止むはずだ。

何だか変な気分だ。これからどうしていこう。ネガティブな考えではなかった。七海にとって、そして私達3人にとって、どういった選択が1番なのだろうか。私にとってはまだ以前の様にしていこうと素直に出来ないけど七海にとってはかけがえのない父親なのだ。そんなことを考え、色々な思いが心の中に沸いてくる。

少しして空を見上げた。

・・・止めた。考えたって仕方ない。とりあえず頑張って今を生きよう。その中で答えが見つかるはずだ。自分に言い聞かせる様に心の中でそう呟き、傘と共鳴する雨音を聞きながら歩を進めた。

[38]

「はいはい、お前らしっかり動けよ。」散歩から帰り、ジムに入ると何人かが体を動かしている。夕方に差し掛かり、徐々に人が増えてきた。

もうじき龍二が来る時間か。あと試合まで10日と迫った。まあまあのコンディションできている。あとは体調面さえ何もなければ良い結果を期待できそうだ。

事務所へ入った。

「しー。」

「うわっ。何だい、良恵。」急に目の前に良恵の顔が出現して若干驚いた。

「七海寝たところだよ。」ソファーに目をやると、七海がすやすやと寝ていた。

「あ、ああワリー、ワリー。」そう言って椅子に腰掛けた時、「こんにちは。」玄関から優一の声が聞こえた。事務所から出て優一を迎え入れた。

「おお、もう来たのか。今七海寝てるから静かにな。」

「あ、分かりました。」そう言ってジムへと上がった。ふと外を見ると、梢の姿があった。いつもより大分早い。どうしたんだろう。

「こんにちは。」いつもの様にジムへと入ってくる。

「おう、梢。お疲れ。何で今日はこんなに早いんだい?」

「ええ、ちょっと。あ、七海はどうしてますか?」ジムの中に七海の姿が無いことが気になったのだろう。

「ああ、事務所で寝てるよ。行ってみな。」そう促すと、「分かりました。」と言って静かに扉を開け入って行った。なんだろう。いつも通りだけど、何か変な感じだね。

「入るよ。」梢が入って行った後、少しして、コーヒーを持ってゆっくり事務所へ入った。

中へ入ると、椅子に腰掛け、梢は静かに七海を見ていた。

「ほい、コーヒー。」机の上にコーヒーを置くと、「ありがとうございます。」七海から視線を外し、ニコッとした笑顔を見せた。笑顔だが、やはりどことなくいつもと違う。何か考え込んでいる感じだ。

「どうした?何かあったのかい?」少しの沈黙の後、「ええ、ちょっと。仕事を早退して、病院へ行っていました。」

「病院?何でだ?梢、どこか悪いのかい?」いつもより早い理由はそういうことだったのか。梢の体はどこも悪い様子はないが。

「私じゃないんです。旦那です。怪我して病院に運ばれました。」

「アイツが?何で怪我したんだい?」表向きは夫婦だ。周りは事情を知らないから梢に連絡がいったんだろう。

「引越しの仕事をしてて、階段から転倒して、荷物が足に落ちたみたいです。」

「そうか。で、大事には至らなかったかの?」慌ててない様子だからそこまでではないのだろう。

「骨折です。右足の。とりあえず3日間入院するみたいです。しばらく仕事は休まなきゃと言っていました。」

「そういうことか。ドジだねー。で、なんか話してきたのか?」夫婦のことにあまり口出しはするもんじゃないが、少しぐらいは聞いてもいいだろう。それに、ここは普通の夫婦じゃあない。

「ええ、少し。」

「何か言ってたのか?一緒に暮らしてほしいとか?」必死こいて頼む姿があいつからは想像しやすい。

「いや、それが・・・。」そう言って下を向き、梢は言葉を濁した。

「ん、どうした?」

「何かそんな感じじゃないんです。」1つため息をはいてそう話した。でも、そのため息は失望とか、そういう類いではないように感じた。

「じゃあ、どういう感じなんだ?」

「んー、何て言うんでしょう。あの人はあの人なりに色々考えてるんだなあって。一緒に暮らせなくてもいいって言われました。ただ近くに居させてほしいって。仕事をしながら金銭面でも支えていくって言われました。」

「へー。あいつが。」そう返したが、何だか若干想像がつく。

「まあ、そこまで悪い奴じゃないような感じは受けるけどな。で、お前はどうしたいんだ。」そこが1番重要だ。

「あいつを許して、七海と3人で暮らすか?」即座に椅子から立ち上がり、梢は天井を見上げた。

「それは・・・、まだ出来ません。まだあの期間の記憶が残っていて、又あんな仕打ちを受けたらって考えると。」そこまで言ってから、こちらを見て、「でも、色々私達のことを考えてくれているのは確かです。明代さんが言ったみたいにそこまで悪い人ではないんです。ただ、弱いんです。何かあると、直ぐ色んなものに逃げてしまう。そうなるのがまだ恐い。そんな感じですね。」若干笑みをつくり、そう話した。

「そうか。いいんだ。色々考えてこれからどうするか決めれば。お前と七海にとってどうすることが1番なのか。でもね、以前の困難だった時と今、違うことがある。前はお前1人で悩んでたと思うけど、今は違う。私やみんながいる。何かあったら守ってやるよ。分かってるね。」そう言うと、梢は急に目に涙を浮かべた。

「ありがとうございます。明代さん。」そう言って下を向いて涙を拭った。

「なに泣いてんだい。ばか。」そう言って頭を強引に撫でると泣きながら笑みをつくった。

「それにね、お前は前よりも強くなってんだ。」そうだ。こいつは強くなったと思う。愛娘抱えてしっかり働いて。

だけど1人で頑張るには限界がある。私達が支えてあげないとね。そう思って自然と七海の寝顔に目をやっていた。

[39]

「待て、アリー。」よく見る光景だ。七海とアリがじゃれ合っている。アリも楽しそうだ。犬の深層心理なんてよく分かんないが何となくそう見える。

「ねえねえ明代さん。」アリとハグしたまま七海が何か聞いてきた。

「なんだい?七海。」

「何でアリって名前なの?」子供はよく疑問に思ったことを聞く。だから急激に成長する。大人が忘れちまってることの1つだ。

「何でだと思う?」逆に質問すると、うーんと言って腕を組んだ。子供なりに真剣に考えているんだろう。

「よく分かんない。」

「昔ね。アリっていう1人のボクサーがいたんだよ。モハメド・アリといってね。凄い人なんだよ。オリンピックで金メダルとって、世界チャンピオンにもなったんだ。その人の名前と同じにしたんだよ。」子供からしたらよく分からないであろうことでも七海は、へーと言って私の話を聞いている。

ジムの扉が開いた。

「こんにちは。」

「あ、お父さん。」嬉しそうに七海は走って行った。

「来たか。入んな。」近づいていった七海の頭を軽く撫でて、啓太は控えめに「失礼します。」と言って入ってきた。2人の姿は無邪気な子供と、優しい父親に見える。実際そうなのだろうけど。

「おう、ちょっとそこ座んな。」事務所へ通し、椅子に座らせた。

「あんた、コーヒーはブラックでいいかい?」にこやかに七海を見ていたが、私の問いに、焦ったような顔で「あ、はい。すみません。」と恐縮した様子で答えた。

「はいよ。」コーヒーを台の上に置くと、「ありがとうございます。」と、小さな声で礼を言った。

「で、何で今日ここに呼ばれたか、分かるかい?」そう聞くと、両腕を膝に置き、眉間に皺を寄せ、考え出した。少しの間沈黙が生まれた。

「んー、今までの梢のこととかの話でしょうか?」後ろめたい様子で、不正解を返してきた。

「ばーか。そんなもんはぐじぐじ言わないよ。自分で反省しろ。ガキじゃないんだ。」

「は、はい。すみません。」私達がふざけている様に見えたのか。七海は笑っている。

「そんなことじゃないんだよ。」目線を七海に移した。

「なあ、七海。お父さんともっと一緒にいたいか?」

「うん。」直ぐ七海は返してきた。

「そうか。よし。」再び目線を啓太へ移す。

「あのさ、あんたしばらくの間ここでボランティアやれ。」想像していなかったのだろう。反射的に「えっ。」という声が返ってきた。

「なんだよ。嫌なのか?」

「いや、そういうことではなくて、ええと、どういうことでしょうか?」 目線を再び七海に移し、そのまま喋った。

「どういうことって、そういうことだよ。怪我が直るまでここで働いてもらう。勿論ボランティアだ。その足じゃ大したこと出来ねえだろうし。七海、お父さんがここにいてくれた方がいいか?どうだ?」私が話し終わる前に既に笑顔だった七海は「うん。」と返した。

「そういうことだ。いいだろ?」私がそう言うと、啓太は七海に視線を移し、頭を撫でた後、ゆっくりこちらを見て立ち上がり、「ありがとうございます。」と、頭を下げた。

私だけ事務所を出て、練習風景をざっと見た後再び事務所へ目線を移す。そこには楽しそうに談笑している七海と父親がいた。こう見ると普通の娘思いの良い父親だ。何であそこまで梢を追い詰めたのかね。良い奴そうだけど。梢は弱さがあいつをそんな風にしちまったって言ってたけど、まあそうなのか。

練習の指導が一段落付き、事務所へ入ると、まだ楽しそうに話をしていた。

「おい、いつまで話し込んでんだ。七海。アリと遊んできな。おい啓太。さっそく仕事しな。事務所の掃除だ。机拭いて、床を掃除機かけた後拭く。そのくらい松葉杖つきながら出来るね。はい、開始。」早口で話すと、「あ、わかりました。」と啓太は言った。

「お父さん。頑張って。」

「おう。頑張るよ。」何だか嬉しそうだ。

「ええと、会長。掃除用具はどこでしょうか。」ジムをキョロキョロ見回しながら聞いてきた。

「あ?明代さんでいいよ。ジムで練習している奴ら以外は名前で呼んできてんだ。じゃあ場所教えるから付いてきな。」

「はい。」その時だった。ジムのドアが開いた。

「おう、梢、お帰り。」いつも通り梢が七海を迎えに来た。ドアを開けた瞬間、「えっ。」と動揺した様子で、啓太を見ている。そりゃそうか。

「梢、お帰り。ちょっと説明するから上がりな。」

「は、はい。」戸惑った様子で靴を脱ぎ、ジムへ入ろうとすると、いつもの様に「お母さん、お帰り。」と言って七海が笑顔で近寄った。

「お母さん。今日ね、お父さん来てるよ。」何も知らない様子の七海は嬉しそうに梢に報告した。

「そう。・・・そうか。」ぎこちない笑顔をつくり、七海の頭を撫でた。

「梢。お帰り。」啓太は梢に近付き、優しそうに声を掛けた。「た、ただいま。」まだ戸惑った様子ではあるが、若干の笑顔で梢は返した。少し前までは梢の悩みの原因だったその存在と娘を囲んで言葉を交わす。でも、初めて私と会った時とは事情が違ってきている。

「梢、事務所へ入んな。啓太も来い。七海、ちょっとアリと遊んどいで。」

「うん。」七海は嬉しそうにアリの所へ走って行った。やっぱり両親が揃っていた方が嬉しそうだ。

「2人とも座んな。」私に促され、どちらもゆっくりと椅子に腰掛けた。

「梢。啓太を呼んだのは私だ。こいつが勝手に来た訳じゃあない。何で呼んだと思う。」私の質問から数秒の沈黙が出来た。

「ええと、ちょっと分からないです。」そうだろうな。普通は予想出来ないことだと思う。

「こいつは暫くここでボランティアしてもらう。怪我が治って仕事に復帰するまで。私の提案だ。梢いいかい?」梢に尋ねた。ここでボランティアするってことは七海の面倒も見るってことだ。いくら父親だからって、今は別々に暮らしていて、梢が七海を育ててる。梢の了解が得られなければ勝手なことは出来ない。

「梢、俺の足が治るまでいいかな?」控えめに啓太はそう言った。梢に気を使っているところを見ると、何だかんだで反省はやはりしているのだなと思う。梢は即答はせず、アリと遊んでいる七海に目をやった。少し七海の様子を見ると、ゆっくりとした口調で、「分かりました。」とだけ言った。

「いいのかい?」私が確認すると、「はい。今の啓太はちゃんと七海の面倒見てくれると思うので。」梢の言葉を聞くと、大きな声で、「いいのか?ありがとう。」本当に嬉しそうにして梢の手を握った。

「でも、ここだけだからね。家にはまだ来ないで。それと、私が来たら速やかに七海を渡して。いい?」今までの話の流れから当然のことだが、梢は啓太に念押しをした。

「分かった。約束する。ありがとう。」梢の手を握ったまま啓太は、深々と頭を下げた。

「おい。」私の言葉に反射的に反応して啓太は、こちらを見た。

「ちゃんと仕事しなよ。ボランティアっていっても七海と遊んでばかりじゃなくて、掃除、洗濯、買い出し。杖付いてたって出来ることは沢山あるんだからね。」きつめに言ったが、啓太は笑顔で「分かりました。よろしくお願いします。」とこちらにも深々と頭を下げた。

事務所から出て、七海を見ると、相変わらずアリと楽しそうにしている。

「おい、七海。お話終わったよ。中へ入んな。お父さんとお母さんいるよ。」と、私が言うと、「うん。」と、嬉しそうな顔で走って事務所へ入って行った。

事務所の中には嬉しそうな七海と啓太。若干の笑顔の梢が話をしている。

振り返り、龍二をチラッと見た。相変わらず鋭い顔で練習に打ち込んでいる。

世の中には色んな家族の形があるね。

[40]

「お父さん。アリと一緒に外で遊ぼうよ。」七海が俺の手を取って外へ出ようとしている。

「ごめん、七海。お父さんまだ掃除が残ってるんだ。もう少しアリと遊んでて。」

「なーんだ。はーい。」そう言って事務所から出て、アリの所へ行き、いつもの様にじゃれている。事務所の机を雑巾で拭いた後は外を箒ではいて、その後は花壇の草取りと水やりだ。そのくらいならこの足でも出来る。

ここへ来て3日が過ぎた。大分掃除にも慣れてきた。

さて、掃除は大分スムーズに進んで、あとは花壇の手入れだ。花壇には同じ種類と思われる花が沢山植えられている。いつもしっかり手入れしているのだろう。草を排除しようにもしっかり見付けないと草そのものが確認出来ないほど綺麗にしている。ここへ来て、毎日手入れしているが、初日からこの花壇は綺麗だった。

「ねえ、あのさ。」急に声を掛けられ、後ろを振り向いた。見るといつも激しい練習をしている男性が立っていた。

「ああ、どうしたの?ええと、龍二君だっけ?」

「ああ、そうですけど。」いつもジムでの様子そのままに、クールに返してきた。

「どうしたの?練習は大丈夫?今日はいつもみたいに激しく動いてないけど。」何なんだろう。何の用事があって、わざわざ外まで出てきたんだ。

「もう試合まで4日だから軽めに動いて、体重の調整だけだよ。」

「あ、そうなんだ。で、何か用?」俺の問いに暫く黙った彼は、ゆっくり口を開いた。

「あんたの事は何となく知っている。ちょこっと耳にした。梢さんに最低な事してたんだってな。」鋭い眼光で、俺にとっては痛いことを急に言われて、ドキッとした。急に体内の鼓動が激しくなるのが分かる。スムーズに言葉が出てこない。続けざまに彼は言った。

「梢さんは良い人だ。七海ちゃんをしっかり育ててるし、いつもジムでは周りにしっかり気配りしてくれる。よくあんたそんな人に色々出来たな。それに、七海ちゃんの父親だろ?可哀想とか思わなかったの?」ゆっくりとした口調だが、威圧感のある言い方で最もなことを言われ立ちすくみそうになったが、こんなガキにこうも言われると、言い返さないと気が済まない。

「君に何が分かるの?知らないくせに知ったような事を言うのは止めてくれないかな。」冷静に返すと、彼の目は益々鋭さを増していった。

「確かにあまり詳しくは知らない。じゃあ聞くけど、暴力振るってたってのは本当?」再びドキッとさせられた。1番つかれたくない、つかれたら痛いところだ。しかし、これに関しては言い逃れは出来ない。

「まあ、色々あるんだよ。」俺の言葉にまたしても鋭い眼光を発した。

「色々?女性に暴力振るうのはな、どんな理由があっても駄目なことだろ。なあ?」またしても正論だ。どう返そうか、頭の中が若干パニック状態に陥っているのが分かる。情けないが、大分年下の人間に怯んでいる。

「・・・反省はしてるよ。」何とかそう言うと、彼からは何も返ってこない。続きがあると思っているのだろうか。何を言おう。少し考え、「何でそんなに梢と七海のことで君が苦言を言ってくるんだよ。」思わずそんな言葉が出た。すると先程までの彼の目の鋭さは心なしか若干下がり、ため息を1つ吐いてゆっくり言葉を発した。

「ここのジムが、俺を救ってくれていて、生かしてくれてるからだよ。」違った。彼の目には鋭さがまだあった。でも、先程までの怒りのこもった鋭さではない。もっと重い、何かその様な感情だ。彼は何か相当な思いをここのジムに抱いているのか。

続けて言葉を紡いだ。

「あの2人はもうジムの一員だ。七海ちゃんの父親だからってまた同じようなことがあったら俺はあんたを許さねえ。」強い口調でそう話すけど、俺は苛つきを覚えた。

「何なんだよ。関係ないだろ。」その瞬間、気が付くと俺は襟首を捕まれていた。

「関係あんだよ。このジムの、明代さんの周りにいる人間に何かしてみろ。ただじゃおかねえぞ。」再び怒りの感情を目に宿していた。恐い。なんなんだこいつは。

「分かった。」それしか言えなかった。彼は手を放した。

「あのさ、何か勘違いしているかもしれないけど、俺は家族やこのジムに何かしようとしている訳じゃないよ。」そう話すと、彼は少し落ち着いた感じになった。

「なあ、君は何なんだよ。何でそんなに怒りを現にしてジムのことを守ろうとするんだ?いつもはもっとクールな感じだけど。」彼は花壇の花に目線を移し、静かに話した。

「俺はこのジムのプロ選手だ。だだそれだけ。」少しクールダウンしたトーンに変わった彼の言葉は落ち着きの中にも何かを感じさせるものだった。

「あんたさ、このジムで色々出来て、楽しい?」思いもよらない質問が投げ掛けられてきた。

「ん、ああ、楽しいよ。娘と一緒にいられるし。」当たり前の返答をすると、相変わらず花に目をやったまま、「そうか。じゃあ、明代さんに色々世話して貰ったんだな。」急に女会長の名前が出てきて、少し考えた。確かにあの人が色々動いてくれたから今の生活になっている。楽しさも感じているのは確かだ。最初はうるさいババアだと思ったけど、あの人が全てお膳立てしてくれたからだ。そんなこと考えもしなかった。

「ああ、そうだな。」静かにそう返した。

「そうか。」そう言いながらこちらに目線を移した。

「じゃあ、感謝してるってことだ。」

「うん。感謝してる。」自然とそう返していた。少しの沈黙の後、ゆっくり彼は言葉を発した。

「俺も感謝している。相当な。あんたの何倍も。・・・感謝してもしきれない。」そう話すと、急に俺の襟首を掴んだ。え、どういうことだ。頭がこんがらかって、思考能力を失っていた。

「おい、裏切るなよ。感謝ってもんは返す為にあるんだからな。」そう言って掴んでいる両手にぐっと力を入れた後に、投げるように襟首から手を放した。

「ああ、分かってるよ。」相変わらず鋭い目と、言葉の威圧感からくる雰囲気にそう返すことしか出来なかった。

「俺は口下手だ。感謝の言葉なんて上手く伝えれない。だから行動で示す。あんたも行動で明代さんに感謝を伝えろよ。もう馬鹿みたいな行動でくれぐれも梢さんと七海ちゃんに辛い思いさせないようにな。じゃあな。」そう言ってジムの中へ入って行った。何だアイツは。大分年上の人間に対してけっこう上から言ってきたな。でも、なんか腹が立つという感情はなかった。・・・まあ当然のことを言われたからかな。ふぅーっと1つため息を吐いて、花壇の花たちに目をやった。

[41]

「七海、ただいま。」ジムの戸を開けて七海を呼ぶと、元気よく走ってきた。ジムの中は今日も活気に満ち溢れている。

チラッと啓太を見ると、絵本を片付けていた。七海に絵本を読んであげていたのだろうか。以前の啓太からは想像もつかない。

「おー、梢お帰り。」良恵さんは近所の小学生と相撲をとっていた。

「行ってきました。」

「お母さんお帰り。」七海はそう言って私の左足にしがみついてきた。

「ただいま。」しがみついたままの七海の頭を撫でると、早く早くと言って私を中へ連れていこうとしてくる。

「おう、梢。お帰り。」青汁を飲みながら事務所から明代さんが出てきた。

「行ってきました。」

「早く上がりな。」そう言って、残っている青汁を勢いよく飲み干し事務所へ戻って行く。事務所へ入る前に、「あ。」と言った後、「梢、ちょっと。」そう言って事務所の入り口で手招きをしている。

「はい。」直ぐに事務所へと向かう。

「あ、七海。もう少しお父さん絵本読んであげるよ。」そう優しく七海に話し掛ける。やっぱり以前の啓太からは想像つかない光景だ。七海は嬉しそうに返事をした。

「失礼します。」まだ事務所の入り口付近にいた明代さんは、「ちょっと座んな。」と言って椅子に座った。

「別に大した用事じゃないんだけどね、龍二の試合はお前と七海、行けそうかい?」少し前に、試合の応援の参加を誘われていた。

「もちろん行けます。休み取れました。」大事なジムの行事だ。喜んで休みを取った。龍二君のデビューの日だし、全力で応援したい。最近は、よく七海とも、家でその話題が出ていた。

「そうか。よし、ありがとな。龍二もこれで一段と頑張れるよ。」そう言って笑顔になった後、外の七海と啓太に目をやりった。少しの間七海と啓太を見た後、ゆっくりとした口調で、「なあ梢。」と、思い付いた様な表情で私に言った。

「啓太も連れて行ってもいいか?」思わず「えっ。」という言葉が口から出た。明代さんはこっちを見て、「あ、いや、お前が嫌ならいいんだ。別に強制する訳じゃあないかなね。」強制とは思わなかった。明代さんが強引に何かを要求するなんてことはない。ここに七海を預けることになったことに関しては強制だったかもしれないけど、それは別だ。それは私達のことを思ってのことだ。私が今自然と声が出てしまったのは少し驚いてしまったからだ。想像していなかった。啓太はジムの中だけの手伝いだと思っていた。一緒に試合に行くということはバスで何時間も一緒ということだ。七海は嬉しいと思うけど私は・・・。

確かに以前の啓太を見る目と今は違う。彼は変わった。いや、変わろうとしているのは分かる。でも、長時間一緒にいるということを承諾出来る心の余裕はまだ無いのかもしれない。

「なぁ梢。これからのことを考えるバロメーターにしてみたらどうだい?」明代さんは啓太と七海を見ながらそう呟く様に言った。

「バロメーター?」

「そう。時間をかけてこれからのアイツとの関係を考えていったらいいだろう。龍二の試合の事はその中の1つだ。ここ飯田から東京までの遠出の行事で長い時間一緒に居れば色んな所が見えてくるだろう。」私も啓太と七海の方を見て、少しの時間考えた。

「確かに。じっくり考えた方がいいですよね。」1つ小さく息を吐き、「分かりました。啓太も一緒に連れていってください。」


「明代さん、じゃあねー。」

「失礼します。」

「おう。気を付けて帰れよ。目の前だけどな。ハハハ。」

いつもの様にジムを後にする。目と鼻の先のアパートに入ろうとした時だった。

「梢。」啓太だ。ジムの扉を開けて、私を呼んだ。

「何?どうしたの?」私が返事をすると、扉を閉めて、こちらへゆっくり松葉杖を付きながらやって来た。

「お父さん。ヘヘヘ。」相変わらず七海は嬉しそうだ。啓太はそんな七海の頭をいつもの様に撫でながらこちらを見た。

「いや、特に用事ってもんじゃないんだけどさ。あ、もうじきだな。龍二君の試合。勝ってくれるといいな。」

「うん。そうだね。」ぎこちない様子で話しながら、少し時間をおいて、「なぁ。」とだけ呟いた。

「なんか楽しい。」

「・・・楽しい?」

「ああ。ここで色々手伝ったりするのがさ、楽しいんだよ。」啓太は笑顔になっていた。自然な笑顔なのだろう。無理やりつくった笑顔ではないのは分かった。

「そうなんだ。」

「うん。七海と長い時間一緒にいられるし、梢とも話が出来る。それに、明代さんや、周りの人達楽しいしな。ちょっと明代さん恐いけどさ。へへ。」そこまで話すと、若干慌てた様子で、「あ、引き留めちまったね。だから、えーと何が言いたいかってゆーと、んー・・・見ててくれ。俺を。変わったってところを見て欲しい。それだけ。」それだけ言うと、「じゃあなー。七海、おやすみ。」と言ってジムへ戻って行った。これから色々後片付けや、掃除がまだあるのだろう。

「お父さん、忙しそうだね。」七海が笑いながら言った。

「そうだね。」変わったところを見て欲しいか。私から言わせれば、戻ったところをみたいんだけどね。そう思うと私も自然と笑っていた。

[42]

もうじき花を咲かせそうだね。夏場は草どもが直ぐに生えてきやがる。毎年毎年この時期は草取りに追われるな。あの人が天国いっちまう前からだからもう何年ハマギク達を育ててんだろうね。

いよいよ明日か。ハマギクを見ていた視線を空へと移す。あの人は明日一緒に後楽園ホールまで来てくれるのかね。あんた、見守っていてくれよ。

ジムのドアを開ける。いつもの風景だ。

「梢。ちょっと。」手招きをして梢を呼ぶ。仕事が終わり、七海を迎えに来ていた梢は良恵と何やら談笑していた。

「あ、はい。」抱っこしていた七海を良恵に預け、外に直ぐに出てきた。

「どうしました?」

「ん、ああ、特に用事ってものでもないんだけどさ。」無言で私の横に立ち、「もうじき花を咲かせそうですね。」と膨らんだ蕾のハマギクを見ながら呟く様に言った。

「ああ、そうだな。なあ梢、今楽しいか?」そう聞くと、意外そうな顔になった後で笑みをつくり、「当たり前じゃないですか。」と、少し大きな声で言葉を返した。

「だって、恵まれた環境で七海を見てもらってるし、ジムの皆さんは良い人ばかりです。仕事も充実してるし、何も心配せずに家で七海と過ごせてます。楽しいですよ。」

「そうか。じゃあ良かった。」その後1つため息をついて、「まあ、啓太に関してはどうしていけば良いのか頭の痛いところですけどね。」そんな言葉とは裏腹に、表情はそれほど曇ってはいなかった。

「まあ、アイツはこれからの態度次第だな。」

「そうですね。色々迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします。」

「ああ、分かってるよ。大丈夫だ。」そんな言葉のやり取りの後、少し沈黙の時間が流れた。

「お前と七海がここに来て、けっこう経ったな。」私から再び話し出した。何だか梢と語り合いたい心境だった。ゆっくり語り合って心を落ち着かせたい気持ちがあるのかもしれない。明日に向けて、心の何処かで高ぶり過ぎているところが存在するのか。でも、梢と語り合いたい気持ちはそれだけじゃないのだろう。

「あっという間に時間が過ぎていきましたね。それだけ楽しいってことですよ。」良い子ちゃんな言葉だ。でも、本心なのだろう。そうだ。こいつは真っ直ぐな奴だ。私は梢から教わることが多々ある。

「まあな。私も楽しいよ。」そう私が言うとやっぱりさっきよりも笑顔になり、「そうですか。良かった。」と 安心したように言った。

私はハマギクを見ながら梢に尋ねた。

「お前、色々苦労してきたね。今も苦労はあるだろう?」

「いえ、今はないですよ。皆さんに助けられてますから。」右手を振り、否定する仕草を見せた。

「何言ってんだい。色々辛いこともあるんだろう。私達に見せずに背負子んでる事はあるはずだ。お前は中々気遣いなところもあるからね。」図星だったのか、目線を外し、「どうなんでしょう。」と小さく呟いた。

「いいんだ。辛いことがあったって。壁にぶつかっても良いだろう。人間なんて生きてりゃそんな事何度だってある。様は立ち上がれば良いのよ。そうすりゃそれまでよりももっと強く成れる。」私はハマギクを指差した。

「なあ、何で私がこの花壇でハマギクを大事に育ててるか分かるか?」梢は少しの間黙った。考えているのだろう。

「えーと、好きだからですか?」

「んー、それもある。でも、それだけじゃない。亡くなった旦那が教えてくれたんだよ。」

「何をですか?」そんな言葉のやり取りをしていると、脳裏に昔の記憶が甦ってきた。

ここだ。ここであの人から教えてもらっとんだ。あの人はその言葉をよく言っていたな。辛くなる度にコイツらを見て力を貰った。コイツら見ながら、あの人に教えて貰った言葉をいつも、心で、言葉で何度も呟いてきた。ありがとう。あんた。

「逆境に立ち向かう。」

「えっ?」

「花言葉だよ。花言葉。ハマギクの花言葉だ。お前も胸に刻んどきな。梢。この言葉は深いぞ。私の座右の銘だ。辛い時、苦しい時、いつもその言葉で自分を奮い立たせてきた。逆境に立ち向かう。立ち向かえよ。逆境なんてごめんだなんて思うなよ。上等じゃねえか。逆境なんて。お前もこれから七海育てていく中で沢山出てくるぞ。逆境が、壁が。今までだってあっただろ?その度に強くなれたはずだ。」

「そんな意味があったんですね。胸にしみます。」梢の言葉を聞いて若干照れ臭くなった。

「ちょっと熱く語っちまったな。」

「いえいえ。有難い言葉を頂きました。確かにそうですよね。ありがとうございます。」少し強めの風が吹き、ハマギク達が揺れた。もう少ししたら、沢山の花たちになり風が吹けば一斉に揺れる様が見れる。私はゆっくり立ち上がった。

「今日の朝、龍二は東京へ向かった。前日計量だからね。」

朝のことが頭に浮かんだ。ここでのことだ。

「あいつ、ここ出る前に、私に礼を言いやがった。急に。なんか改めてさ。照れながら。」

「そうなんですか。龍二君、クールですからね。」

「そうだな。ありがとうございますだけ言って出ていきやがった。何がありがとうだよ。礼を言いたいのはこっちなんだけどな。」昔のことを少し思い出した。あいつがここに初めて光夫と来たときのことや、旦那と一生懸命練習している姿。

立派に成ったもんだよ。今の姿見たらあの人は喜ぶだろうね。

「さて、明日は逆境に立ち向かっていた若いのの晴れ舞台だ。どうなるかねぇ。」

「大丈夫ですよ。あ、ボクシング全然知らないのに断言しちゃいましたね。でも、大丈夫。何だかそんな気がします。」

「ハハハ。でもよ、そういう直感的なのって結構当たるんだぞ。よし、いよいよだな。」

[43]

外からは蝉の声が聞こえる。朝からうるさい奴らだ。温暖化が進んでるからまだまだコイツらの声を聞かなきゃいけない日は続くんだろうな。嫌になっちまうよ。

ガタッと音がした。見ると、アリだった。寝返りをうった音だ。いつものお気に入りの場所で寝ている。もう日の入りしてるのに今日はまだ寝ている。たまにこういう日がある。夜寝れなかったのか。昨夜は熱帯夜だった。仕方ないか。

「おい。アリ。ちょっと1日お留守番だ。ジムを頼むよ。」

私は試合の荷物等の確認をした。どのくらい時間が経ったのだろうか。時計を見ると、出発予定まで、1時間を切っていた。

「おはようございます。」

「おはよー。」いつもの声だ。梢と七海が元気よくジムに入ってきた。

「おーう。おはよー。七海。元気か?朝ごはんしっかり食べたか?」

「うん。沢山食べてきた。」この笑顔だ。この笑顔が龍二を勇気付けてくれる。

「おはよー。」

「おはようございます。」次に入ってきたのは優一と光だった。

「おう。おはよう。お前らもっと早く来て準備手伝わんかい。」そう言うと慌てた様子で優一は、「すみません。寝坊です。」と頭を掻いた。

「寝坊か。お前にしては珍しいね。」と、すかさず光が、「お母さん。昨日深夜までこの子垂れ幕作ってたみたい。あ、これなんだけど。」と、優一の右手から大きな袋を取った。

「へえ、ちょっと見せてごらんよ。」

「あ、はい。」と、ちょっと照れた様子で中から垂れ幕を出した。中から出てきた垂れ幕は、完成度がなかなかの物だった。必勝龍二と、力強く書かれたその文字はお世辞抜きで上手い。私の孫のくせに器用さがにじみ出てやがる。

「これ、お前1人で書いたのかい?大したもんだね。」私が感心していると、「優一くんすごーい。」七海が大きな声で言った。子供はお世辞なんてあまり言わないだろうから優一も嬉しいだろう。

優一は「そう?ありがと。」と一言だけ笑顔で答え、照れを隠すように荷物を入り口の方へ運び出した。

私も荷物を運んでいると、入り口の扉が開いた。

「おはようございます。」2人とも静かな感じで入ってきた。これから息子が晴れ舞台に立つっていうのにテンションが低すぎる。

「なんだいなんだい。お前達は。これから息子が華々しくデビューするんだからもっと気合い入れて元気に入ってきなさいよ。」

「あ、そうですね。」春奈がそう答えた背後にいた光夫は、深々と頭を下げた。

「はーい。おはよー。」後ろから良恵が大きな声で入ってきた。

「これだよ、これ。この声出すんだよ。アイツ元気だろ。試合行かねえのにこんなに元気なんだから。あ、いつもこんな感じか。ハハ。」腰痛持ちで長距離のバス移動は辛いから、良恵には留守番でアリの面倒を頼んでいた。

「なんだい。五月蝿いね。元気が1番なんだよ。あのね。私だって試合行きたかったんだよ。ちょっとは気を遣いなさいよ。」ぐちぐち文句を言いながら入ってくる良恵の後ろに啓太の姿があった。

「おいおい、お前遅いよ。もっと早く来て色々手伝うんだよ。」そう言うと、少し慌てた様子で「あ、すみません。」と頭を下げた。

「またお父さん、明代さんに怒られてる。」すかさず七海が笑って、そう言った。

私達のやり取りでジムに笑いが起こった。

「さあ、これでみんな揃ったね。じゃあ、バスに乗るよ。」そう言ってジムのドアを開けると、何やら外が賑やかになっていた。

「明代さーん。」

「ファイトー。」

「明代おばちゃーん。」

ジムの前に止まっているバスの少し後ろには沢山の人集りが出来ていた。コイツら、朝も早くから来てくれたのか。近所の慣れ親しんだ顔ぶれが沢山いた。いつもジムに屯しているガキどもも、来てやがった。

「明代。」道子と準子が駆け寄ってきた。

「みんな来てくれたんだ。別に話し合ってないんだけどね。さすが明代だ。人気者だけあるね。」そう言って私の肩をバシッと叩いた。

「そうか。そりゃ有難いね。」私は前に出た。

「みんな、早くからありがとね。今日は久しぶりの試合だ。頑張ってくるよ。龍二が勝てるように祈ってやってくれ。ここは地域のみんなに支えられてるジムでもある。今日は良い結果が絶対報告出来るはずだ。行ってくるよ。ありがとう。」そう言って頭を下げると、歓声が上がった。

「よっ、明代。日本一。」やっぱ居やがったか。

「春夫。お前はうるさいんだよ。」

「そうだ、そうだ。春夫さん、うるさいぞー。」

「うるせー。ガキども。」私と春夫とガキ達の会話で、歓声が笑いに代わる中で、私達はバスに乗り込み出した。

「七海ちゃーん。」

「七海ー。」七海は名前を呼ばれると、嬉しそうに手を振っていた。もうすっかり七海はジムの人気者だ。

「明代さん。龍二は沢山の人に応援されてるんですね。」光席に座った夫が小さな声で呟いた。少し微笑みながら。

「ああ。人間ってもんは温かい。」私はそう返し、沿道のみんなに手を振った。

「さあ、みんな。出発だよ。」

バスが走り出した。ジムに目をやると、ハマギク達が揺れていた。手を振って応援している様に。



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