5.フィルター
十分ぐらい、キーファたちの後について歩いていただろうか。
石造りの廊下が急に広がる、だだっぴろい場所に出た。
はじめにわたしたちが召喚された、体育館サイズの建物よりも広かった。
そこの天井は、まあ教室の天井ぐらいには高く、広さは学校のグラウンドほどはありそうだった。
そこにたくさんの、赤いとんがり帽子をかぶった子どもたちがいて、様々な活動をしていた。
樹木と布で作った、運動会で使うような日よけのテントのようなものがたくさん立っている。
どのテントも背は低く、せいぜいわたしの目線の高さぐらいしかない。
そのテントの下には店員らしき子どもがおり、安いよ安いよ、なんて声をあげている。
どうやらそれは屋台だった。
「ここが、ぼくらの世界での市場の一つです。物珍しいといえば、物珍しいでしょう」
「そうだな。どう、下妻」
ヨーロッパの市場をイメージさせる、そんな雰囲気と活気があった。
わたしはこういう場所が、嫌いではない。
「買い物とか出来るの?」
「ええ。お金が必要なら、どうぞ」
キーファはそう言って、ポケットから紙幣をとりだした。
彼の手に握られているお金を受け取りかけて、わたしは固まった。
「本橋くん、これ……一万円札じゃない」
キーファの手の中のお札は、わたしのよく見慣れているものだった。
福沢諭吉の、なんともいえない表情がデザインされている、あの一万円札だ。
「そうだな」と本橋くんがお札を受け取りながら言った。透かしを確認しようとしてみながら、キーファにたずねる。「何で日本の一万円札が、異世界で流通してるんだ?」
キーファとモーファは目を見合わせた。
わたしは周囲にも目を向けた。
よく考えれば、いろいろとおかしい。
まずこの世界には空がない。
すべて石造りの、どこか古風な空間だ。
にも関わらず、周囲は明るい。
日光が降り注ぐ、というほどではないものの、曇りの日程度には、周囲ははっきりと見えている。
なのに、窓や、たいまつなんかはどこにもない。
そういえば、今までいたすべての空間もそうだった。
わたしたちの部屋も、特に電気をつけた記憶はない。
いったいなぜ明るいのかがわからない。
そうして、テントがあるのもおかしい。
太陽がないのだから、日光を避ける必要はない。
改めて考えれば、あらゆることが奇妙だ。
「それはですね、フィルターがかかっているのです」
キーファが言った。
「フィルター? ってなんだ?」
「うーん、大まかにいえば、認識変換措置、とでもいいましょうか。なんだか全然大まかじゃないかもですが」
「要するに、この世界は根本的に、あなたたちには理解不可能なのです」とモーファが後を継いだ。「それを理解可能な形に変換している。それがフィルター。この世界に召喚されたときに、すでにあなたたちの感覚には、その処理がなされているのです」
「なるほどな」と本橋くん。
納得顔の本橋くんに対し、わたしはさっぱり理解ができない。
「わたし、全然わからないんだけど」
「いや俺だって全然だよ」
必死に理解して、たずねる。
「……この一万円札は、実は一万円の価値があるあなたたちの世界の通貨だけど、わたしには一万円に見えているってこと?」
キーファがうなずいた。
「まあそういうことです。本当は紙幣ですらないんです。だけどあなたたちに理解可能な形にすると、そうなる、というわけで」
「じゃあさ、竜だって、本当は竜じゃないってこと?」
わたしのその質問に、キーファは驚いたらしい。
「そう、その通り。あなたたちには竜に見える、本当はあなたたちの世界における竜ぐらい、とんでもないものなのです」
「原子爆弾だって効かない竜か」と本橋くん。「ゴジラみたいなもんか」
わたしはゴジラに立ち向かう自分を想像した。
倒せっこないぞ。
「とまあ、いろいろ奇妙なことがあっても、それはフィルターによるものなので、まあ気にしないでください」
キーファはそう話をまとめようとする。
いや、やっぱり気になる。
理解不可能な異世界、って、どんなものなのだろう。
「あのさ、そのフィルターって、解除することも出来るの?」
いぶかしげな顔をして、モーファが答える。
「出来ますが……やめた方がいいですよ」
「どうして?」
「もしわたしたちが、あなたたちの感覚では、禍々しい、生理的に受け付けない姿だったらどうします? 例えば……黒光りして、カサカサ素早く動く、六本足の生物かもしれませんよ」
「それは嫌だな」と本橋くん。
「でも気になる」とわたし。「ちょっとフィルター、外してみて」
キーファとモーファは、また、二人して目を見合わせた。
それから肩をすくめて、キーファが言った。
「本橋さんも、外します?」
「俺はいい」と本橋くん。「ゴキブリ、嫌いだし」
「じゃあ、下妻さんだけ。では、どうぞ」
そういうと、キーファは突然、手を叩いた。
パン、という音と共に、わたしには何も見えなくなった。
何も聞こえすらしない。
真の闇の中にわたしはいた。
「下妻? この世界は、どうなってるんだ?」
本橋くんの声だけがする。ほかは、あれだけ騒がしかった市場の音も、一切しない。
「何も見えない。聞こえない。どうなってるの、これ」
パニックになりかけていたわたしのすぐそばで、本橋くんが言った。
「キーファ、下妻のフィルター戻して」
パン、と再び音がして、わたしの視覚と聴覚が回復した。
「どうだった、下妻?」
そう聞く本橋くんに、わたしはすぐには何も言えなかった。
本橋くんの肩のあたりをつかんで、深呼吸をし、心を落ち着けた。
それから、わたしはいまの自分の体験を三人に話した。
キーファが言った。
「たぶん、可聴域や、可視光線の波長自体が違うんですね。ほかにもいろいろ、フィルターがあることで得られている感覚だってあるのかもしれない」
「フィルター、外さない方がいいですよ、下妻さん」
モーファがそう言い、わたしは素直にうなずいてみせた。