水族館でびしょ濡れになりながら探す夏
姉妹で養子先が違うということは、実はそれほど珍しくもないらしい。
犬や猫じゃないのだからと憤りを覚えたが、それはぶつけるところのない怒りだった。
子供にとってなにが幸せなのか、それを決めるのはなぜか子供ではなく大人というのが世の常だ。
誰にも悪意はないのに、結果として陽花梨さんと杏花梨さんは引き離されてしまった。
「妹と引き離される前の夜のことはほとんど覚えてません。とにかく二人とも泣いていました。杏花梨に『姫川のお家に引き取られたら絶対に泣かないで。嫌われるから』と逆に励まされちゃって。あの言葉があったから、私は笑ってこられたのだと思います。それに迷惑はかけちゃ駄目だから着替えやらお風呂は一人して、洗濯物を畳むくらいのお手伝いはしないと駄目だって」
そう言いながら、陽花梨さんは笑った。笑いながら涙を流していた。笑顔に嘘はなさそうだったが、涙にも嘘はなさそうだった。
はじめて陽花梨さんの人となりに触れた気がした。
「私は、妹を守ってやれなかった。駄目な、姉なんです」
「駄目なんかじゃない」
これ以上自らの心の傷をいたぶって欲しくなくて、僕は陽花梨さんの言葉を遮った。
引き取られた『自分』と施設に残った『妹さん』。そんな二人の運命を暗示した内容だったから、昨日あの漫画を僕に勧めてきたのかもしれない。そんなことに考えが至った。
「きっと妹さんも、分かってくれている。どうしようもないことだって、世の中にはあるよ。そんなに自分を、責めるなよ」
「鳩羽くん……ありがとう」
「いい彼氏だねえ」
おばあさんは顔の皺を増やしながら小さく頷く。
「かっ、かかっ彼氏じゃありません。僕はただの同級生です」
「あら? 違うの? それは失礼」
おばあさんは物言いたげに笑う。そんなおばあさんに陽花梨さんはなにかヒソヒソっと耳打ちをした。
おばあさんは愉快そうに歯を見せて何度も頷く。何を話したのか分からないけれど、二人の表情を見る限りあまり僕を褒めたようには見えなかった。
本当に女というのは七歳だろうが、十五歳だろうが、八十二歳だろうがコソコソ話と恋の話が好きだ。
「別に今の父と母が嫌いというわけではないんです。ただ杏花梨に会いたいんです。施設を出てから一度も連絡すら取っていなかった妹に、会いたいんです」
「連絡も、してなかったんだ」
「うん。私たちがいつまでも連絡を取り合っていたら、姫川のお父さんお母さんが心配するし、いい気持ちにはならないからって、杏花梨に言われて」
そんなことはないと思ったが、小学三年生ならばそんな風に怖れるのも仕方ないのかもしれない。
きっと二人とも純真で、真面目で、そして強かったんだろう。せめて妹さんが幸せで暮らしていて欲しい。そう願わずにはいられなかった。
辛い思いでの話はそこで終わり、そこからは神戸についての話やおばあさんの若い頃の話で盛り上がった。
おばあさんのは名前は西村さんといい、神戸の隣の芦屋というところで暮らしているらしい。ご主人は三年前に先立ったとのことだった。今は息子らの世話にもならず、一人で悠々自適に暮らしているらしい。
戦争の後の混乱期に生まれ、激動の時代を生きてきた話を、きっと西村さんは何度もしてきたのだろう。
悲壮感溢れる感じではなく、朝の連続テレビ小説のようにユーモアと人情を軸にした奮闘記のように語ってくれた。
僕もいつか自分の人生を振り返り、こんな風に面白おかしく話せる日は来るのだろうか。その物語にはこの同級生の女の子との不思議な夏を探す旅は含まれる気がした。
慣れないネカフェで寝たせいか、名古屋を過ぎた辺りで激しい睡魔に襲われた。そして陽花梨さんに揺り起こされたときには新大阪を過ぎていた。
「陽花梨ちゃんたち、時間があったら是非うちにも寄ってちょうだい」
西村さんは住所と連絡先をメモした紙を渡してくれた。
「はい! 必ずお伺いします」
すっかり仲良くなった陽花梨さんは受け取りながら握手する。
トンネルに入ると、あとはそのまま外の景色を見ることもなく新神戸の駅に到着した。
タクシーで帰宅するという西村さんと別れ、また僕たち二人だけの旅が始まる。
「まずは行きたいところがあるんだよね」
「了解。もうこうなったらどこでも着いていくよ」
やけっぱちの振りをしてそう言ったが、本当は陽花梨さんが心配だった。新幹線を降りてから、陽花梨さんの様子がおかしい。ずっと肩に力が入っており、張り詰めた表情をしている。
こんな時に手を握ってあげれば、落ち着いてくれるのだろうか。
でも僕にはそんな資格はないから、代わりに大きな鞄を持つ。
「ありがと」
ちょっと驚いた顔をされたが、陽花梨さんは嬉しそうだった。
「旅の同行者として向いている理由その四。か弱い女の子の荷物を持ってくれる逞しいところ」
「僕は逞しくはないでしょ」
「ううん。荷物持ってくれてるから逞しいよ」
不安そうに沈んでいた陽花梨さんがほんの少しだけだけれど、元気になってくれた。それを思えば荷物なんて軽いものだった。物理的には重いけれど。
「さあ出発。誰も見たことのない夏はもうすぐそこだよ」
身軽になった陽花梨さんはややわざとらしい空元気を発揮しだして、二段飛ばし階段を下りていく。山の斜面にある新神戸はエレベーターもなく、ひたすらエスカレーターか階段で下りていかなければならない。身軽になった彼女は、子鹿の足取りで先を急ぐ。
暗く落ち込む陽花梨さんに比べれば、強引で自分勝手な陽花梨さんの方がまだマシだ。欲を言えばその中間辺りに落ち着いてくれるのが、一番ありがたいけれど。
地下鉄とJRを乗り継ぎ、到着したのは海沿いに立つ水族館だった。
「昨日動物園で今日は水族館なんだ」
「そう。生き物が好きな女子って可愛く見えるでしょ?」
「そういうあざとい打算は隠しておかないと台無しだよ?」
冗談を言えるまで元気になってくれてホッとする。意識されない程度にその横顔を見詰めた。
「ここはね、小さい頃に家族で来たことがあるんだ」
「へえ。想い出の場所なんだね」
「そう。嫌なことや辛いこと、怖いことが多かったけれど、ここの想い出は本当にいいものばかり。私も妹もすごく好きな場所だったの」
ようやく翳りのない笑顔で笑った。
そこから陽花梨さんはずっとはしゃぎっぱなしだった。入ってすぐにあるサメやエイが泳ぐ大水槽や、ペンギンが空を飛んでいるように見える水槽を見ては、昔と変わらないことを嬉しそうに僕に教えてくれる。
「あ、ヤバい。イルカライブ始まっちゃう!」
よほど慌てていたのか、陽花梨さんは反射的に僕の手を握って引いた。
はじめて握る彼女の手はびっくりするくらいに柔らかかった。
「あっ、うん」
陽花梨さんも思わず手を握ってしまったことに戸惑った様子だった。でもなんでもないことのように、その手を繋いだまま駈けていく。
平日の昼間だけれどもイルカライブショーはなかなかの盛況ぶりだった。
空席は少なかったが、最前列は水がかかってしまうので空席がある。まるで予約席のように空いたその席に、僕たちは迷わず腰掛けた。
「皆さんこんにちはー!」
司会のお姉さんの挨拶にみんなが「こんにちは!」と返事をする。一際大きな声は陽花梨さんだった。
イルカたちは水槽の中を颯爽と泳ぎ、観客たちに挨拶をしてくる。
陽花梨さんは黄色い声を上げながら手を振り、どのイルカが一番可愛いかとか僕に伝えてきてくれた。
イルカ二頭が高くジャンプしてわざと水面を叩きつけながら着水すると、最前列には予想以上の水飛沫が襲い掛かってきた。
「きゃー!」
イルカは狙いすましたかのように僕たちを狙って飛沫を立てていた。悲鳴をあげた次の瞬間、陽花梨さんはずぶ濡れになってしまっていた。
「ううー。びちょびちょだよ」
わざと変な顔をして嘆いてくる。きっと幼い頃の陽花梨さんも同じような顔をしていたんだろう。
濡れたところですぐ乾く。それが夏のいいところだ。
僕らは申しあわせたかのようにどちらの方が濡れることが出来るか、競うようにイルカの立てる飛沫をわざと浴びにいった。
夏を探す旅は、至って順調だ。