新幹線で探す夏
「悪いけど、それは無理だよ。行けない」
「えー? ここで私を独りにしちゃう?」
大袈裟に驚いた顔をする陽花梨さんを見て、僕はようやく気が付いた。
陽花梨さんはよく笑う。でもその半分近くは目が笑っていなかった。今もそうだ。
造ったように口許と声だけで笑っている。どこか芝居染みていて、空虚だった。
「何があるの、神戸に」
これ以上理由を聞かずに同行は出来ない。静かに問い質すと、陽花梨さんは口許からも笑みを消した。
「昔神戸に住んでいたの。ずっと昔」
「ずっと、昔?」
たかだか十五、六年しか生きていない僕たちに『ずっと昔』という言葉は不釣り合いな気がする。しかし陽花梨さんの口振りは確かに『遙か昔』を語るように憂いを帯びていた。
「そう。ずっと昔。まだ私が今のお父さん、お母さんと暮らす前の話。私たちは神戸で暮らしていた」
「えっ……」
苛立ちとか、不信感とか、そんなものが一瞬で吹き飛んだ。『今のお父さんお母さん』という言葉にはそれくらい破壊力があった。
「私たちは、捨てられた子なの」
それは想像もしていなかった事実だった。彼女の声には不幸をひけらかす人が見せる独特の開き直りもなく、淡々としていた。
「ごめん。引くよね。一応これは学校では先生すら知らない事実なんで内緒ね」
「もちろん言わないけれど。なんでそんなこと僕に言うんだよ」
「そりゃあ、旅の仲間だから?」
そう言ったときの笑顔は、目許まで笑っていた。
そこまで言われて、ここで帰るわけにはいかない。というほど僕は情熱的な人間ではない。
でもいま陽花梨さんを独りにしてはいけないということだけは分かった。
「神戸に行けば、誰も見たことのない夏があるの?」
「分からない。でもそうだったらいいなって思う」
「どうしても、行かないと駄目なの?」
ゆっくりと、ぐいっと言葉を押し込むように、慎重にもう一度訊ねた。
陽花梨さんは一秒ほど間を置いてから、静かに頷く。
「うん。絶対に行かないと駄目なの」
ここで旅から離脱することも出来る。ついさっきまで実際そうするつもりだった。
しかしギュッと握り締めた陽花梨さんの拳が震えているのを見て、気が変わった。その秘密を知る、数少ない一人に選ばれた責任と使命を感じたのかもしれない。
「そっか。じゃあ行こうよ」
「……いいの?」
「うん。だって人生で本当の夏は、一度だけだから」
母さんの言葉を口にしたが、当然通じるはずもなく陽花梨さんは首を傾げた。意味が分からないのだろう。無理もない。実の息子の僕も意味が分からないのだから。
神戸までは新幹線で行く。陽花梨さんの幸運を願って同じ名前の「ひかり号」で行きたかったけれど一時間に数本しかないので「のぞみ号」で我慢した。
電車は意外と混み合っており、二人席は空いていない。
「ここ、空いてますか?」
陽花梨さんが窓際に座る品の良さそうなお婆さんに声を掛けると、優しい笑顔で「どうぞ」と手で促してくれた。
僕たちを乗せた新幹線はゆっくりとホームを滑り出す。
新幹線の車窓から眺める東京の街並みは、在来線から見る景色よりどことなく遠い世界に感じられた。
「そういえばさっき私たちって言ったよね」
電車が品川を出てから陽花梨さんに問い掛ける。気になっていたけれど、それ以上の衝撃が強すぎて、つい聞きそびれていた。
「うん。言ったよ」
陽花梨さんは静かに頷いて僕を見た。複数形ということは、つまり陽花梨さん一人ではないということだ。
「私には、妹がいたの。双子の、妹」
「そうなんだ」
今朝は驚かされてばかりだ。でも『捨てられた子』という言葉のインパクトが強すぎて、双子であることは驚きが霞んでしまう。
「名前は『杏花梨。私の名前の『陽』が『杏』に変わっただけ。『ひかり』と『あかり』なんて、はじめから育てる気がなさそうな、適当な名前だよね。それに漢字三文字なんて面倒だから、小学生の頃はいつもひらがなで『ひかり』って書いてたよ。新幹線みたいでしょ? 妹が『のぞみ』なら言うことないんだけどね」
「そんなことないよ。少なくとも、僕は好きだよ。その名前」
「ありがと。やっぱり旅の仲間は優しい人に限るねー」
優しくフォローしたお礼なのか、陽花梨さんは手にしたサワークリーム味のポテトチップスの缶を僕に差し出してきた。
あまり根掘り葉掘り聞くのも失礼に思い、ポテトチップスを食べるのに手間取った振りをして会話を途切れさせようと試みた。
「私たちは生みの親に虐待されて、育児放棄をされた子供と見做され、小学校二年生の頃に施設に保護されたの」
陽花梨さんはもはや全て言ってしまおうと決意したらしく、話の続きを語り出す。
でも僕はこの話の続きを、聞きたくはなかった。なぜならば僕は陽花梨さんが今現在一人っ子だということを知っているからだ。
「父親が酷い人でね。よく暴力を振るった。私はお姉ちゃんだから妹を守らなくちゃって思ったんだけど、怖くてね。助けてあげられないことが多かった」
「お姉ちゃんって。双子なんだから姉も妹もないでしょ。同い年なんだから仕方ないよ」
「双子でもお姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」
よほど悔いが残っているのか、陽花梨さんは唇を噛んで苦い顔をした。
「あんな親でも、離れ離れになったときは本当に不安だった。私たち二人でどうやって生きていったらいいんだろうって」
それは僕には想像がつかない世界だった。
大きくなってその当時のことだけを聞けば、そんな親と離れて暮らせてよかったなどと美談でも聞いた顔で頷けるだろう。
しかしわずか七、八歳の子供にとって、親とはほぼ絶対的なものだ。その絶対的な存在と引き離されたのならば、不安で堪らなかっただろう。それに虐待を受けている子供はむしろ親への依存が高いという話も聞いたことがある。
「幸い保護された先の施設の人は優しい人ばかりで、半年もすれば大分落ち着いたけれど──」
その時すすり泣く声が聞こえた。陽花梨さんではない。
窓際に座るお婆さんが僕たちの方を見て、泣きながら笑いかけてきた。
「ごめんなさいね。聞こえちゃって」
「いえ。私こそ大きな声ですいません」
「若いのに苦労したのね」
おばあさんはなんの躊躇いもなく、陽花梨さんの頭を撫でた。
陽花梨さんは照れ臭そうに、でもとても嬉しそうに笑っていた。
「妹は、杏花梨は、なかなかショックから立ち直れなくて。あまり笑わない子になっちゃったんです。だから私はますます杏花梨を守る責任に駈られました」
おばあさんは痛みを堪える顔をして小さく頷いていた。
「そして一年後。今の両親が施設に来たんです。父と母は色々努力したけれど、子供が授かれなかった。それで養子を迎えるために」
衝撃的な話に胸の動悸が収まらなかった。でも僕は最後まで聞かなければいけない。
陽花梨さんに選ばれた人間として、この話を最後まで聞く義務がある。
「会いに来てくれた父と母は姉の、私のことをとても気に入ってくれたそうです。でも私と妹の二人を養子に出来るほど、経済的に余裕があるわけではありませんでした」
そこに責める口調はなかった。感情を殺そうとして、でも悲しみだけは残ってしまった声色だった。