騙す人と騙される人
翌朝起きるとパジャマは汗でぐっしょりと湿っていた。
喉に多少の痛みは感じたものの昨晩のような倦怠感はなく、戦いを終えた夜明けというやや大袈裟な安堵を感じる。
体温を測ると37.6℃とまだ微熱はあったものの、関東まで移動することは出来そうだった。
昨夜は早い時間から寝てしまっていたので、目覚めるのも早く、まだ朝の六時過ぎだ。僕は服を着替えて音を立てないように施設の外に出た。
夏の朝はまだ気温も上がっておらず、背伸びをしたくなる清々しさだった。
森で生まれたばかりの新鮮な空気が潮風に流され、朝日を浴びた草木を揺らす。昨日の雨が残していった露が、草や土の香りをより濃くさせていた。
「おはよう、鳩羽君」
深呼吸をしようとした瞬間に声を掛けられ、一瞬呼吸が乱れる。
声がした方を振り返ると陽花梨さんがジャージにTシャツという寝起きの恰好で、海が見下ろせる場所に座っていた。
「もう大丈夫なの?」
緩やかな風が彼女の髪をふわっと膨らませて、その柔らかさを伝えてくる。
こんなに美しい人が僕の彼女だなんて、信じられない。
でも確かに昨日、僕と陽花梨さんはお互いの気持ちが通じ合っていることを確認した。しかしあれは風邪で朦朧とした頭が見せた幻だったのではないだろうかとさえ思えてくる。
「隣、座ってもいい?」
「それ、彼氏がいちいち訊くこと?」
顔は海に向けたまま、視線だけ僕に向けてくる。口許は吹き出す寸前のように歪んでいた。
やはり昨日のあれは幻なんかではなかったようだ。
日本海側は当然太陽は山側から昇るから、陽の光は背中から浴びる恰好だ。鋭角な光を浴びた海は、波の形状を伝える反射をしていた。
「旅も今日で終わりだね」
「体調大丈夫? 帰れそう?」
「さすがにそろそろ帰らないと親も心配するだろうし」
本当は昨日帰ると連絡したかったけれど、案の定スマホは防水機能を上回る負荷をかけてしまったらしく壊れてしまっていた。
メモも取っていない僕は、恥ずかしながらスマホがなければ実家の電話番号もあやふやだ。
「そっか。ご両親怒ってるだろうね」
「もはや呆れてると思う」
「私が行って説明して謝る」
陽花梨さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「いいよ。大丈夫。それに親に怒られたい気分なんだ」
「なにその気分?」
「昨日陽花梨さんがお母さんに叩かれたのを見て、羨ましかったんだ」
「えー? 私の彼氏、まさかのドM?」
僕の言わんとしている意味を理解しているくせに、陽花梨さんは照れ隠しでチャラけた。
そんなところも可愛い。
地面に付いていた彼女の手に僕の手を重ねる。陽花梨さんは人間に見付かった川魚のようにビクッと身構えた。
でも陽花梨さんは逃げることなく、頭を僕の肩に預けてくれる。
「陽花梨さん」
顎に手を添えると陽花梨さんは伏し目がちになる。軽く持ち上げると顎を突き出して、そのまま目を閉じてくれた。
キスをする合図とそれを受け入れた合図。
そこまで来て、今さら緊張で固まってしまう。
僕は急に自分の鼻息が荒くないか気になってしまい、息を止めて顔を寄せた。
はじめて触れたその唇は、とても柔らかくてしっとりとしていた。
ほんの一秒足らずの接触だったのに、僕の唇にはしばらくその感触が残っていた。
「陽花梨さんと旅が出来て、本当によかった」
「そうだね。特急列車に先に乗ったあの時、もし鳩羽君が乗ってくれなかったらどうしようって本当は不安だった」
確かにあの時一歩を踏み出せたことが、今の全てに繋がっている。
たった一歩がなければ、僕は今も見慣れた景色の中ですることもない夏休みをもてあましていただけだろう。
「色んなことがあった旅だったよね」
「うん。動物園で出会った兄妹も元気かなぁ」
「なんかそんなに前じゃないのに凄く懐かしい」
陽花梨さんは自然と僕に擦り寄り、僕は不自然に腰に手を回す。
「海で遊んだサトちゃんとヨシト君もまた会いたいな」
「きっと会えるよ。東京にも遊びに行きたいって言ってたし」
「うん。昨日私たちも付き合い始めたって連絡したらビックリしてたよ。『そもそも付き合ってなかったの!?』って」
そりゃそうだろう。思わず笑ってしまった。
付き合って何ヶ月と訊かれ、答えをはぐらかしてそのままになっていたことを忘れていた。
ただのクラスメイトと関東から関西まで二人旅するなんて、普通あり得ない。きっとあの二人は昨夜その話題で盛り上がったことだろう。
僕たちはしばらくこの旅の想い出を振り返りながら海を眺めていた。
────
──
「またいつでも遊びに来てね」
駅の改札の前、施設の管理人の植村さんが陽花梨さんの手を握ってそう言ってくれた。
「はい。今度はちゃんと親に話してから遊びに来ます」
舌を出して戯ける姿は、お母さんにじゃれる安心しきった顔だった。
杏花梨さんはそれをやや俯き加減で聞いて微笑んでいた。
「杏花梨ちゃんも、陽花梨に会いに遊びに来てね」
おばさんの言葉に杏花梨さんは「ありがとうございます。いつか機会があれば是非!」と断り文句のようなお礼を述べる。
「うん。おばさん、待ってるからね! 絶対に来て」
おばさんは杏花梨さんに見せたい花の名前を並べる。近くの広大な敷地の公園で四季折々に咲く花の美しさをを、まるで出迎える歓迎の言葉のように告げていた。
「わあ、素敵ですね」
小さな丘一面、見渡す限りにネモフィラで埋め尽くされたその景色を聞いて、杏花梨さんはその地に立ったかのように目を細めて遠くを見る。
僕もいつか、彼女にその景色を見てもらいたかった。
陽花梨さんと杏花梨さん、二人が仲良く丘を登る姿を夢想する。
「さあ、そろそろ行かないと。本当にお世話になりました」
おじさんに急かされ、陽花梨さんも荷物を握り直す。
その瞬間、おばさんは杏花梨さんの前に立ち、深々と頭を下げる。そして次の瞬間──
「ありがとう、杏花梨ちゃん。あの子を私たちと引き合わせてくれて、本当にありがとう」
それは二人にしか聞こえないほどの、小さな声だった。
「えっ……」
でも近くにいた僕には聞こえてしまった。聞こえてしまったけど、素知らぬ顔を貫く。
杏花梨さんは顔色を見られないように慌てて俯いた。
おばさんは、知っていた。陽花梨さんと杏花梨さんが入れ替わったことなど、とっくに知っていた。恐らくそんなこと、はじめから見抜いていたのだろう。
「おーい、早くしろよー」
改札を抜けて僕たちを呼ぶおじさんも、恐らくずっと前から二人の入れ替わりを知っていたのだろう。
お父さんもお母さんも、知っていながら騙された振りをした。陽花梨さんと杏花梨さんが決めたことだからと、それに従った。
よく笑うしっかり者の姉の振りをした妹を、きっとすぐに見抜いたのだろう。
その瞬間から、三人は家族になったんだ。
電車到着のアナウンスが流れ、おばさんも慌てて改札を抜ける。
騙していると思っていた姉妹の方が、本当は騙されていた。
陽花梨さんは振り返って手を振り、そこでようやく杏花梨さんが泣いていることに気付いた。
「杏花梨! ありがとう!」
陽花梨さんの声に励まされたように、杏花梨さんも顔を上げて手を振る。
「私の方こそ、ありがとうね!」
電車が到着し、ドアが開く。何度も振り返りながら、陽花梨さんが最後に電車に乗った。
発車のチャイムがドア越しに優しく、物悲しく聞こえ、駅員さんの笛の音が響いた。
「杏花梨! また来るね!」
もう聞こえないであろうその声に、杏花梨さんが大きく頷く。
「今度は私が逢いに行くから」
もう聞こえない杏花梨さんの声が、僕の耳の奥で聞こえた。
電車は定刻通りに動き出して、車窓から見える杏花梨さんの姿も、小さな駅舎も小さくなり、電車がカーブするとその姿も消えてしまった。
僕たち二人の夏を探す旅は、こうしてまだ夏が始まったばかりの日に幕を閉じた。