無理が祟って布団で寝込む夏
「私は今、あの施設でボランティアとして働かせてもらってるの」
杏花梨さんは宥めるように陽花梨さんの頭を撫でながらそう告げた。
「ボランティア?」
「そう。中学を卒業したら出ていかなきゃいけない決まりなんだけれどね。住み込みのボランティアとして今もあそこにいるんだ」
杏花梨さんは屈託なく笑っていた。
嘘も強がりもなく、本当に彼女は幸せに暮らしているんだということが伝わってくる。
「高校は?」
「行ってるよ。バスで一時間くらいかかっちゃう遠いところだけれど」
「そっかぁ。よかった」
二人は空白の時間を埋めるように、夢中で話し合っていた。もはや僕の割って入る余地はない。
たとえ凍えるほど寒かろうが、話を中断させたくなかったので我慢していた。傷口の痛みも、ボーッとしてくる意識も、グッと精神力だけで堪える。
「で? 杏花梨は彼氏出来たの?」
陽花梨さんの問い掛けに、杏花梨さんは得意気に「まあねー」と茶色い髪をふぁさっと払った。
「えー! いいなー」
「しかも超イケメン」
「マジで? 羨ましい!」
「写真見る?」
「見たい見たい!」
二人はきゃあきゃあと声を上げてスマホを囲んではしゃいでいる。その姿を半分呆れ、半分微笑ましく遠巻きで眺めていた。
今に思えば神戸の下町で出会った二人の幼馴染みの翔太は、一目で杏花梨さんと陽花梨さんが入れ替わっていることに気付いていたことになる。
恋の力なのか、幼馴染みの力なのか知らないが、大したものだ。
そんな彼には杏花梨さんに彼氏が出来たことは内緒にしておこう。
「うわー。爽やか-! 背も高い!」
「でしょー? でも性格がちょっとガキなんだよね。すぐにやきもち焼くし」
「いいじゃない。可愛くて!」
「いつもそうだと面倒臭いよ? そこ行くと陽花梨の彼氏は優しいし、真面目だし、見た目はまあ、うちの彼氏よりは劣るけど知的な感じだし」
杏花梨さんは僕の方を見ながら冷やかしてきた。
「はあ!? 鳩羽君は彼氏じゃないから」
「はくしゅんっはくしゅんっっ!!」
返事をするように大きなくしゃみが立て続けに出て止まらなかった。人に噂をされるとくしゃみが出るというが、このくしゃみは間違いなくそういう類のくしゃみではなく、風邪の前段階のそれだった。
激しい悪寒が走り、頭がふらふらとしてくる。
もはや立っているのもしんどい状況だった。
「ちょっ!? 鳩羽君、顔青ざめてる!」
「平気平気。大丈夫だよ」
陽花梨さんは僕に駆け寄り、手のひらを額に当てた。その手の冷たさに驚く。
「うわっ!? ものすごい熱!」
「うそ!? ヤバい!」
「なんでこんなになるまで黙ってたのよ!」
「だってせっかく二人が仲直りできたのに僕のせいで中断させたら申し訳ないし」
「馬鹿じゃないの! そんなことどうでもいいのに!」
僕は姉妹に肩を借りながら何とか丘を下る。「大丈夫?」とか「怪我は痛くない?」とか声を掛けてもらっていたが、答える気力すら残っていなかった。
死ぬ思いでようやく施設に着いたが、記憶にあるのはそこまでだった。建物の入口で倒れると、陽花梨さん達の悲鳴がやけに遠く聞こえた。
「ううっ……」
頭が割れそうな頭痛で目が醒める。視界には染みが多い木目の天井が映った。
その天井を隠すようにぬっと視界に陽花梨さんの顔が現れる。心配そうな表情を見て、自分が無様に玄関先で倒れたことを思い出した。
「起きたの?」
「あ、ごめん。寝ちゃってたんだ」
起き上がろうとすると布団の隙間から風が入り、汗でぐっしょり濡れた体をすわっと冷やした。
「ううっ……」
悪寒が走り、思わず怯むと「起きちゃ駄目」と陽花梨さんに布団を掛け直された。
「ごめん。せっかくの再会だったのに、僕がぶち壊しちゃって」
「まだそんなこと言ってるの? こんな時までそんな心配しなくていいよ」
陽花梨さんはやや呆れ顔で体温計を僕の鼻先に突き出してきた。どうやらこの部屋には僕と陽花梨さん以外は誰もいないようだ。体温計を受け取り、脇に挟もうとしてようやく僕は気付いた。
「あっ……」
当たり前のことだが、濡れた服は下着に至るまで全て着替えさせてもらっていた。
寝間着は見たことのないものだったので、この施設のものなんだろう。
「着替えさせて、くれたんだ」
ポツリと、なんでもないことのように訊いたつもりだったが、陽花梨さんは顔を赤くして首を縮めて肩を竦める。そのリアクションで誰が着替えさせてくれたのか分かり、冷や汗が滲み出た。
「しょ、しょうがないでしょ。非常事態だから超法規的処置だったのっ!」
「あ、ありがと……」
今熱を測ったら絶対に高めに測定されるだろう。でも後回しにさせてくれそうもないから脇に挟む。
「ここに着いたとき、39.2℃もあったんだからね。本気で焦ったんだから」
「そんなに!?」
「まったく頑張りすぎなんだよ、鳩羽君は」
気付けばおでこには子供用の熱冷ましが貼られていた。
体温計はジッとしていない子供用のものなのか、すぐにピピピピピッと電子音で検温完了を告げてきた。
示した温度は38.8℃。少し下がってはいるが、まだまだ高い。
これを見せるとまた陽花梨さんを心配させるのではないかと不安になった。
僕がこんなところで寝込んでいたらますます二人の感動の再会の妨げになってしまう。
「体温計って測定完了の音とか関係なく十分くらい挟んでおかないと正確な体温を測れないって知ってた? ピピピピピッて音で報せてくるのは予測式と言って──」
「いいから見せて」
僕のライオンとキリンのうんちくを楽しそうに聞いてくれ、それを褒めてくれた人とは思えないほど冷たくあしらわれた。体温計のうんちくは興味がないのかもしれない。
「うわっ!? 全然下がってないじゃない!」
「下がったよ! 0.4℃も下がったんだよ。測定したのが一時間前だとして、わずかその一時間で」
「いいから寝てなさい」
身を起こしかけた僕の肩を押して寝かされてしまう。
「なんで雨の中何時間も探すなんて無茶したの」
「それは、まあ。心配だったから。それに陽花梨さんを支えて守るって西村さんとも約束したし」
「そうだとしてもそれで自分の身体壊したら意味ないし」
「ごめん」
もっともなことを言われ、返す言葉もない僕はうつむく。
「でも、まあ……ありがとう。嬉しかったよ」
陽花梨さんは僕を布団の上から撫でる手つきを滑らせた。触られてる感覚はないのに、やけに擽ったく感じた。
「一人であの祠の下で蹲っているとき、遠くで鳩羽君が私を呼んでいる声が聞こえた気がしたの」
「あ、聞こえてたんだ?」
確かに丘の下のそこそこ近いところ辺りまで探しに行ったことはあった。
「まさか本当に鳩羽君が探して呼び掛けてくれているなんて思ってなかったから、幻聴なのかなって。物凄い雨だったし」
「探すに決まってるだろ」
「だって勝手に飛び出していなくなっちゃったんだよ。こんなところまで付き合ってくれて、せっかく杏花梨と会えたのに逃げ出しちゃったんだもん。絶対軽蔑して先に一人で帰っちゃったと思ってた」
責められたように口を尖らせ、意味もなくリンゴを手のひらで転がしていた。




