やはり僕は『誰も見たことのない夏』を探す
花柄のタイル張りのお風呂場も、部屋に負けじと広々として優雅な空間だった。手摺りとかが設けられているのは、西村さんの今後のことなどを見越してのことなんだろう。
お借りした石鹸は香りも泡の立ち方も僕の知っている石鹸とはまるで違うものだった。先ほど陽花梨さんから立ち籠めていたのはこの香りだろう。
昨日今日の疲れがあるから夏の暑い季節でもお風呂はありがたかった。澱のように溜まっていた疲労がお湯に滲み溶けるほど浸かってから上がる。
寝巻き用に購入したジャージと白いカットソーに着替えてリビングに戻ると、ソファーの上で陽花梨さんが眠っていた。
振り返って僕を見た西村さんは口許に人差し指を立てて「しーっ」と静寂を促す。
「ずいぶん疲れてたみたい」
低く抑えた声で西村さんが微笑む。
西村さんがかけてくれたのであろうタオルケットに包まり、陽花梨さんは寝息を立てていた。少し開いた口許が油断しきっている感じで可愛らしい。
「そんなに女の子の寝顔を見ちゃ駄目よ」
「え? あ、は、はい……」
西村さんは目声を出さずに笑い、僕もそれにつられて笑った。
「ううっ……ん……」
不意に陽花梨さんは魘され、眉を歪めて苦しげな顔になる。
「あか、り……ごめん……ごめんなさい……」
夢の中で謝る姿を目の当たりにし、胸が締め付けられた。
西村さんの家に来てから元気よくしていたが、やはり心は苦しいのだろう。
「鳩羽君。陽花梨ちゃんを助けてあげてね」
西村さんはタオルケットを掛け直し、顔にかかった髪を指で優しく払いながらそう言った。
「はい。必ず」
僕ごときに何が出来るわけでもない。でもこうして行きがかり上旅を共にする仲間になった。
王子様とは言わなくとも従者のように彼女を守っていくつもりだ。
「頼もしいわね。じゃあ取り敢えず陽花梨ちゃんをベッドに運んで」
「え?」
「え? じゃないわよ。このままソファーに寝かせる気? それともこんな老いぼれおばあちゃんに担がせるつもりなの?」
言われてみればその通りだった。このままここに陽花梨さんを寝かせて置くわけには行かない。でも陽花梨さんとしても僕なんかに抱えられるくらいなら、このままソファーで寝ていたいんじゃないだろうか。
タオルケットに包み、決して僕の体に肌が触れないようにしてから持ち上げる。こんなこと陽花梨さんには口が裂けても言えないけれど、案外見た目よりは重く感じた。
起きている様子はないけれど不安定な状態なのは本能的に分かるのか、陽花梨さんはきゅっと僕とシャツを掴んだ。
ベッドにそろりと下ろしてもその手は掴んだままだったので、指を解すように開いてもらってようやく解放してもらった。
ベッドに転がった陽花梨さんはモゾモゾとその上を転がり、やがて落ち着いたのか動きを止める。
タオルケットが少しはだけてしまい、白い脚がまろび出てしまっていた。
ちょっとお行儀の悪いお姫様を笑いながら、タオルケットを掛け直しておく。
その間に西村さんは僕の布団を敷いておいてくれた。
お礼を言ってから僕も休ませてもらう。
何の当てもないけれど、明日こそ妹さんが見付かればいいなと思いながら眠りについていった。
翌朝の目覚めは陽花梨さんと西村さんの笑い声だった。
二人は朝食を作っており、僕が起きたのを見てまた笑った。
「おはよう」
昨日の悲しみはもう微塵も見せず、陽花梨さんは朗らかに笑っている。朝日を受けたその顔は物理的にも輝いていた。
「おはよう。ごめん。寝坊した」
「ううん。私が早起きして西村さんにお料理教わっていただけだから」
柿色の生地にレトロな柄が散りばめられた渋いエプロンも、陽花梨さんが身に着けるとコントラストで初々しく映えていた。
布団を畳んで、朝の身支度を済ませると食卓には朝ご飯が並んでいた。
焼き鮭、卵焼き、大根おろしにお漬け物と味噌汁。洋風な部屋の造りに似合わないけれど、典型的な日本の朝を思わせる献立が嬉しかった。
「ごめんなさいね。もう少しあれこれ買っておけばよかったんだけど」
「いえいえ。これが一番です」
洗顔で前髪まで少し濡れてしまった顔を拭いながら席に着く。
「このお味噌汁、具材は私が切ったんだよ」
「へえ」
『それを一番に食せ』と視線が訴えていた。
頂きますと手を合わせてから、早速椀を啜ってみた。
昆布で出汁を取った優しい味は、まさに朝の毒消しといった心地よさで胃袋に落ちていく。
具材は人参、ゴボウ、大根と根っこ的なオールスターで、その旨味が味噌の風味を更に深いものにさせていた。散らしたネギも清々しいアクセントとして効いている。
隣では熱い視線で僕の感想を待つ陽花梨さんが固唾を飲んでいた。
「すごく美味しいよ。ありがとう」
「まぁねー」
誉めると調子に乗るタイプなのか、それとも照れ隠しなのか、陽花梨さんはお箸を持ったまま器用にピースサインを向けてくる。
「今日はどうする予定かしら?」
「まだ決めてないんですけど──」
「昔、陽花梨さんがいた施設に行くつもりです」
陽花梨さんの言葉を奪うように僕が答えた。
「え? 聞いてないけど?」
「いま決めたからね」
「勝手に?」
「うん。勝手に僕が決めた」
陽花梨さんは戸惑っていた。
妹さんに来るなと言われてて、行けば親御さんに行方がバレる可能性が高く、更には中学を卒業した杏花梨さんがいない可能性も高い。
リスクが高い上に無駄になる可能性もある施設に行くのは、当然躊躇われるのだろう。しかしそこに行かなくては話は進まない。僕はそう考えていた。
「あら、残念ね。予定がないならこの辺りを案内しようと思っていたのに」
大して残念そうでもなく、西村さんは笑った。僕の決意を汲んでくれているようで、激励する視線を向けてくれている。
朝食後、朝の涼しい時間帯に辺りの散歩をしてから、西村さんは僕たち二人を駅まで送ってくれた。
「また必ず来てね」
別れ際、名残惜しそうに西村さんは陽花梨さんの手を握ぎる。
「必ず来ます。ありがとうございました」
陽花梨さんも名残惜しそうにその手を握りかえしていた。
「鳩羽君。陽花梨ちゃんをよろしくね」
「はい。任せて下さい」
陽花梨さんは何度も振り返り、手を振りながら西村さんと別れた。
「いい人だったね」
「うん。私もあんなおばあちゃんになりたい」
陽花梨さんが少し溜まった涙を拭ったのは見て見ぬ振りをして、僕は頷いた。
平日だからホームにはスーツ姿のサラリーマンの姿が目立っていた。通勤時間帯は過ぎているからラッシュ時ほどの混雑はない。
軽やかな案内音がなり、アナウンスはよく知らない行き先の電車が到着することを告げていた。
「僕はやっぱり夏を探すよ」
「え?」
「陽花梨さんは『誰も見たことのない夏を探してない』って言ったけれど、僕はこの先も探す。この旅で、誰も見たことのない夏を探していく」
「そっか。ありがとう」
そのタイミングで電車が入線してくる。
「でも誰も見たことのない夏ってなに?」
自分で言いだしたくせに、その責任を僕に丸投げするように訊いてきた。もちろん口許は惚けたようニヤニヤ歪んでいる。
「さあ。でも見たらきっと分かるんじゃないかな? これは誰も見たことがない夏だ、って」
「へえ? 見付かるといいね」
開いたドアから沢山の人が降りてきた。朝の喧騒は西日本だろうが東日本だろうが似たようなものだ。
今日もまた一日が始まる。




