夜景の見えるマンションから探す夏
西村さんの言うことは大袈裟ではなかった。
僕らを乗せたタクシーは駅前通りを抜けると迷わずに山の方へと走っていった。
すぐに結構な傾斜の坂道に差し掛かり、そこからはひたすら登っていく。この道を歩いて往き来するのは、確かに年配の方じゃなくても無謀だろう。
十分弱そんな坂を登ると閑静な住宅街に到着した。疑っていたわけではないが、タクシーは本当に月額契約をしているらしく、案内などなくても進んでいく。西村さんが陽花梨さんと雑談をしているうちに目的地へと辿り着いていた。
「ここよ」
「うわぁ、素敵なマンション」
タクシーから降りた陽花梨さんはマンションを見て、それから眼下に広がる景色に視線を移して感嘆の声を上げた。
見晴らしのいい高台に面した四階建てのマンションは、それほど大きい訳ではない煉瓦造りの趣のある建物だった。しかしオートロックのエントランスや大きくて綺麗なエレベーターなど設備は近代的な造りで、築年数はそれほど経っていないであろうことが伺える。
「うちは四階なの」と西村さんは言ったが、まさか四階ワンフロア全てが西村さんの家だとは思っていなかった。
ドアを開けるとドライフラワーとハーブの香りがする。
靴下を履き替えたくなるような艶やかな廊下を抜けると、大きなガラス張りの窓からは神戸近郊の夜景が掬えるほど間近に感じられた。
いちいち驚くのも疲れるくらいの、ハイソサイエティな空間だった。だからクッションの柔らかさや、調度品の数々の素晴らしさはもう気にしないこととした。
「せっかく来てもらったけど、もうこんな時間ね。ご飯も食べちゃったんだったら取り敢えずお風呂入ってきて下さる?」
「ありがとうございます! もう汗とか海水浴でベタベタだったんです」
毒を喰らわば皿までが座右の銘なのか、陽花梨さんはほとんど臆することもなくこの状況を楽しんでいた。
お風呂は先に譲ることにして、僕は西村さんが淹れてくれたアイスコーヒーのグラスを手に取る。
「なにのんびり座ってるの? 一緒にお風呂に行くんでしょ? 早く行こうよ」
「はあ!?」
コーヒーを口にふくむ前でよかった。焦る僕を見て満足したのか、陽花梨さんは歯を見せて笑いながら廊下へと消えていった。
「仲がいいのね」
「どこをどう見てそう判断したんですか?」
西村さんは口許に手を当ててころころと喉を鳴らして笑った。
「いつもあんな風にからかわれてばかりなんですよ」
「可愛い子ね、陽花梨ちゃんは」
「うーん」
話の流れ的に頷きがたくて腕を組む。
「あらあら。そんなに悩むと陽花梨ちゃんに怒られるわよ」
西村さんは愉快そうに笑った。どうも僕は相手が何歳であろうが女性にからかわれる相が出ているのだろう。
「妹さんは見つからなかったんですってね」
「はい。そうなんです」
西村さんは少し寂しそうな顔をして僕を見た。
「鳩羽君。陽花梨ちゃんを、助けてあげてね」
「それはもちろん」
「頼もしいわね」
「いえ、僕なんか、全然」
「そんなことないわ。少なくとも陽花梨ちゃんは鳩羽君をとても頼りにしてる」
「そうですか?」
意外半分、照れ臭さ半分で少し大きな声で語尾を上げてしまった。
「なんかいつも僕をからかってくるし、なに言っても怒らないと思われてるのか無茶苦茶言ってくるし。まあ、実際反抗しない僕も悪いんですけど。頼られてるというより遊ばれてるって感じがします」
陽花梨さんに対する愚痴をこぼしてしまうと、西村さんは今までとは違う類の、陽花梨さんにも似た含み笑いを浮かべる。
「え? なんですか?」
「陽花梨ちゃんが好きなのね、鳩羽君」
「今の話、聞いてました?」
真逆のことを言ったつもりだった。なんで僕が陽花梨さんを好きという話になるのか、驚いてしまった。冷房の効いた部屋なのに体が熱くなってきてしまう。
「でも陽花梨ちゃんに認めてもらうためには頑張らないとね」
「べ、別に、そういう意味で頑張るわけではないですけど……まあ、頑張ります」
「そうそう。女の子は自分のために頑張ってくれる男の子に恋しちゃうものなの」
相変わらず僕の意見など聞いていない様子で盛り上がってしまっていた。
そして恋の話というのはどんなサプリメントより若返り効果があるらしく、西村さんは自らの若かりし日の恋の話を始めた。
今は亡くなった旦那さんとの馴れ初めの話で、聞いていて擽ったくなったり、ときめいたりしてしまう初々しい恋慕の物語で、恋がしたくなるような気分になる。
何度も繰り返しはなしてきたのか、とても綺麗に、よく纏まったお話だった。
その話が終わったとき、ハーフパンツとTシャツに着替えた陽花梨さんが髪をタオルで乾かしながら戻ってきた。肌の露出面積でいえば水着の方が多いのに、なぜかそれ以上にドキッとさせられる恰好だ。
「ありがとうございました。すっごくさっぱりしました!」
化粧を落としたその素顔は、昼間よりも飾らないあどけなさがあった。
考えてみれば昨日はネットカフェで陽花梨さんがシャワーから帰ってくる前に寝てしまったから、湯上がりの化粧を落とした顔を見るのははじめてだった。
「ずいぶん楽しそうな笑い声が聞こえてましたけど、何の話してたんですか?」
陽花梨さんが僕の隣に座ると、清々しいソープの香りが鼻腔を擽ってくる。
「鳩羽君にこのおばあちゃんの恋の話を聞いてもらっていたの」
「えー!? 私も聞きたい聞きたい!」
自分がどれだけ魅力的なのか無自覚なのか、陽花梨さんは体が僕に当たるのを気にした様子もなく身を乗り出してはしゃぐ。
「じゃあ僕もお風呂を頂きます」
そう断ってその場を脱した。西村さんに煽られたから、僕も変に意識してしまっていた。
リビングから聞こえてくる陽花梨さんの笑い声を気にしながら服を脱いでいく。まさかさっきの僕の焦り具合を西村さんが話してはいないと思うけど、気になってしまう。
『陽花梨ちゃんが好きなのね、鳩羽君』
西村さんの言葉を思い出す。僕は陽花梨さんのことが好きなのだろうか。
自分のことなのに自分では分からない。
浴室を開けるとふわっと湯気が僕を包んでくれる。心の中のもやもやとしたものは、その心地よさで沈み消えていった。




