青い夏
亜希が水浴びから戻ってきた後に、僕も水浴びに行った。
辺りはすっかり暗くなり、足下も怪しいので予備のランタンを持って来ていたのは正解だった。水浴びを終え、足下を照らしながら僕は小屋へと向かっていた。
小屋が見えて来ると、窓から光が全く漏れていないことに気が付く。おかしいな、大きめのランタンがあるからいつもは灯りが見えるのに。
小屋に辿り着き、ドアを開けると「おかえり」と亜希の声がした。
「なんだよ、起きてるならランタンくらい点け――」
言い終える前に、急に目の前が眩しくなった。彼女がランタンを灯したのだ。何かのイタズラかと僕は彼女を叱りつけてやろうと思ったが、目の前の灯りに浮かび上がった彼女の姿を見て、僕は絶句した。
彼女は、亜希は上半身に何も身に付けておらず、全てを露わにしていたのだ。ただ膨らみかけた両の胸の中心は、自身の腕で必死に隠されていた。
しかし僕が絶句した理由はそこではない、彼女の体に無数にある紫色の痣や黄疸、右肩に集中した一センチほどの黒点の集合体。恥ずかしさもあるだろう、そして悔しさもあるのだろう。彼女の頬は赤らめてはいるが、同時に揺らめく玉水が、目尻に浮かんでいる。
彼女の家出の理由は、口で語るには残酷なものだと悟った。
彼女がどんな人生を歩み、何を感じ、世界を模索し、どこに辿り着いたのか。それらを理解するのに、コンマ一秒もいらなかった。彼女は家出など簡単なものではない。
亜希はここに、死にに来たのだ。
「あたし……」
彼女が口を開いた次の瞬間、僕は自分の持っていたタオルで彼女を包んで抱きしめた。無意識に、僕自身も気付かぬうちに。そうしなければ、彼女は消えてなくなってしまう、そんな気がして……
「何も、言わなくていい。亜希は確かにここにいる、いて良いんだ、この世界に」
「あ、あたし……こんななのに。誰のためにもならないのに――」
亜希の身体が、内側の感情を抑えきれず、嗚咽と共に肩を大きく上下する。大粒の涙が僕のシャツに染み込んでいく。僕は彼女の頭を優しく撫で下ろす。
「誰が見てなくても、僕はここでお前と偶然にでも出逢った。お互いがお互いに、足りないものを埋め合わせるために、気付かせてくれるために、神様が用意してくれた舞台だったんだよ。この山小屋は」
神様なんか信じてもいない。なのに何でそんなことを口にしたかは分からない。
おんおんと憚らず大声を上げて泣く亜希。僕は彼女の中に押し込められていた感情のすべてを受け止めるように、強く強く……彼女を抱きしめ続けた。
性格も性別も、境遇も正反対の二人。これからを生きる為に来た少年と、これまでを終えるために来た少女の不思議な出逢い。
最後の夜、泣き疲れて眠った亜希を優しく包むように、抱きしめながら眠りに落ちた。
***
午前十一時、僕たちはこの小屋を後にする。今日は土曜日、きっと両親と兄も家にいるはずだ。大層叱られることは容易に想像が付く。だけど僕の心の中はむしろ穏やかだった。自分の存在意義を見つけられた気がしたから。結局、僕は自分の人生を生きていなかったのではない。僕自身がその人生を選んでいたからだと気付いたから。
亜希と出逢って、彼女によって僕は生き方を学んだ。きっと彼女はそんなつもりは毛頭ないだろうけど、生きるか死ぬかも、自分で選べるということを。
「それじゃあ、お別れだね」
彼女が自転車のハンドルに手をかけ、スタンドを足で外す。出来ることなら付いていってやりたいが、彼女がそれを拒否した。彼女は新しい人生を歩むための一歩を踏み出すのだと、自分の力で、自分の判断で生きていくのだと豪語するもんだから。
「ああ、お別れだ」
「あたし、ソーイチくんにここで会えて良かった。本当は死ぬつもりだったのに、なんで誰かいるのよ! とか思ったりした。だけどソーイチくんと一緒にいたら何だか嬉しくって……ぶっきらぼうでも、それでも、信じられないくらい温かかった。何でも持ってるソーイチくんも、何もかもに見捨てられたあたしも……足りなかったのは生きる為の【行動力】なんだって、気付けたから」
「僕も、同じことに気付けたよ。本当は煩い女だ、なんて思ったけど……ありがとう」
「なんだか感謝されてる気がしないなぁ」
ケラケラ笑いながら彼女は自転車に跨がった。「あっ」と言いながら、僕に手招きをしてポケットからあのビー玉を取り出した。
「はい、これソーイチくんの。ひとつあげるね、あたしたちがここに確かに居たって証に」
彼女は自分のビー玉をひとつ、僕に手渡した。
青く透き通ったビー玉、今の僕たちの心を映し出したかのような、綺麗で何の曇りのないビー玉だった。
「ああ、分かった。ありがと――」
言いかけて、亜希が僕の頬にキスをする。
何が起きたのか、何をしてるのか、僕は理解するのにコンマ五秒以上かかった気がする。
「またね、聡一郎くん!」
美しく、僕にとって絶世の可愛さを表した笑顔を最後に、彼女は思いきりペダルを漕ぎ出す。砂利道をものともせず、彼女の自転車は軽快にスピードを上げていく。短いショートの髪からの香りを残しながら、彼女はみるみる小さくなっていく。
「あいつ、名前……」
しばらく呆然と立ち尽くし、手の平に残されたビー玉を力強く握りしめた。
家に着くと、両親からは案の定叱られたものの、意外にも謝られた。
僕の気持ちと両親の考えのピントは少しズレてはいたものの、僕と直接向き合ってこなかったことに反省している、と両親は口にした。僕は僕なりの気持ちを伝え、これからのことをしっかり話し合って決めていこうと約束した。さすがに中学三年生の夏、もう進学先は変えられないけど社会に出るまで時間はある。焦らなくても、自分の生きたい生き方が何なのかを見つけていこうと思う。
新学期が始まった頃。県内ニュースで隣町の児童虐待者が逮捕されたという一報が耳に入った。逮捕されたのは四之宮という名字の夫婦で、実の娘である十四歳の少女が無事に保護された。少女の身体には無数の痣があり、肩には煙草を何度も押しつけたと思われる跡が確認された、とのことであった。
胸の奥が痛む。それでも、僕は彼女が生きていることに安堵した。きっとこれから、あの天真爛漫な彼女を遠慮することなく発揮しながら生きていくのだな、と思うと自然と笑みが零れた。
青いビー玉を、夕焼けにかざす。
「青くて丸い……地球みたい、か。やっぱ良く分かんないな」
謂わば青春、と題するに相応しい、希有な出逢いを体験した中学最後の夏。
それは僕を一回り大人にさせた、青い夏だった。
~完~
お読みいただきましてありがとうございました。
次回作品以降は、エブリスタ公式イベントが終了次第順次掲載となります。
約2週間ごとの掲載となりますので、どうぞお楽しみに。