第6話 水谷センセイの場合
7.生徒ファイル⑤ 水谷センセイの場合
真夏の早朝ジョギングは、私は好きだ。
運動オンチな私は、体力だけは自慢できるようにしようと、大学に入ってから始めた趣味のひとつ。
いまとなっては、立ちっぱなしの塾講師を耐えるための重要なトレーニングになっちゃってる。
ナケナシのバイト代を、ちょっと高めのシューズやGPS時計、ランニングスパッツにつぎ込んじゃう入れ込みようだ。
自宅のアパートから多摩川沿いの土手のジョギングコース4キロを毎朝30分、ゆっくり流す。
いつもは静かなこのランニングコースも、
学校の夏休み期間中は6時くらいなのに結構にぎやかになる。
ラジオ体操の時間が待ちきれずに友だちと駆け出す小学生、
部活の朝練に寝ぼけまなこで向かう中学生。
ジョギングの折り返し地点に設定している、
立川市と日野市と境に架かる橋の真ん中で大きく背伸びをして、
東京都心のほうから昇ってくる朝日を遠くに仰ぎつつ、
いつものように自分の頬を2度、ピシャッとたたいた。
「よし、夏期講習前半もあと2日。。がんばるぞっ!」
額の汗が朝の露となって水谷由香の頬を滴り落ちたとき、
一斉にセミが鳴き始めた。
(今日も暑くなりそうだわ・・・)
「じゃあ、中学3年の英語は辻田さんお願いできますか?」
今日の多摩ゼミはいつもにも増してあわただしい。
中等部のセンセイがひとり夏バテしてしまって、そのやりくりが大変なのだ。
私のメインは中学英語なのだけど、
最近は、センセイが少ない高等部のヘルプによく駆け付ける。
教室のあわただしさがピークに達する15:30~16:45のコマは、今日に限って
高等部の個人指導のセイセイは、いつもは同時に2人の生徒を見るところ、
今日は3人の生徒を見ることになった(高校生2人+中学生1人という感じ)。
そんなに広くはない個別指導教室では、
6人のセンセイが立ち上がって、18人の生徒を教えている。
いつもはセンセイが座る3人席の真ん中には代講の生徒が座っているので、
センセイは立つしかない。
「だーかーら、ベクトルどうしの割り算はできない、って言ってるだろう??」
ふと、背中がほかのセンセイと触れ合った。
(あっ、すみません・・・)
ヒートアップしていた新藤センセイが頬を赤らめて私に会釈をした。
(かわいい後輩だ笑)と笑みを返してみせると、安心したようでまた熱く語り始めた。
「ベクトルというのは、量だけを持つスカラーとは違って方向を持つから掛け算も割り算もできないの!」
新藤ハルキくんは、私と同じ大学に通う2コ下の後輩。
最初は垢ぬけない田舎青年だったが、さすがに東京生活も4カ月ともなれば
スーツ姿も色気づいてきた気がする(笑)
高等部の理系科目は、
それまで町村センセイが一杯一杯になりながら一人で担当していた。
町村くんは小柄で根が優しいいいヤツなのだが、さすがに一人はきつそうだった。
特に物理と化学を含めると3教科も1人で見なきゃだったんだし。
彼も私と同じ大学3年だし、そろそろ就職活動もあるだろうから、
新藤くんが入ってきたときの町村くんの喜びようとはなかった。
いまとなっては、
高等部の理系科目の屋台骨は新藤くんにとって代わっている。
彼の教え方は「本当に数学が好きなんだろうなあ」という気持ちがにじんでくる。
なんで2の0乗は1なのか、なぜ0で割ってはいけないのか、無理数とは何なのか、
たぶんフツーの高校生からするとどうでもいいことなんだけど、
それを嬉しそうに語る彼の子供っぽい笑顔と目の輝きに
生徒も見入ってしまうのだ、圧倒されてしまうのだ、
ときに私もね・・・(笑)
「怒涛の一日がおわったぁぁ」
すべてのコマが終わった職員室に安堵の空気が流れていた。
室長の池垣センセイは、講師全員の前に栄養ドリンクを置いていっていった。
「明日が前半ラストだ。センセイ一人ぬけてしまったのは本当に申し訳ないが、あと1日乗り切ろう」
「あ、明日の業後いつものように、前期の打ち上げしますんで。全員参加にしときますね(笑)」
職員室のムードメイカー、小学算数を担当している山脇センセイがさっそく飲み屋に電話をかけ始めた。
とはいっても、この教室の1階なんだけどね。
居残りの生徒を見送った新藤くんは、そそくさと教室を出ようと肩掛けカバンに手をかけた。
「新藤くんも明日行くんだよね?なんてったって高等部代表としてね♪」
私がそう聞くと、ちょっとだけ困ったように顔をくしゃっとして言った。
「えっ、ええ、、行けると思います・・・。お疲れさまでした~。」
そう言うと立ち上がって出ていった。
なんとなくそこに取り残された感じがした私の目は、
エレベーターに乗り込む新藤くんの横顔とその残像に焦点を結んでいた。
(あれっ、これってウチの大学は私とあなたの二人だけだから同胞意識ってやつかな。。。)
いつものようにオレは駅の反対側のファミレスに急いで向かった。
「お~、来た来た。」
「あ、おかえりなさーい。」
大村と中谷が、父親の帰りを待っていた子供のようにはしゃいだ。
「はあぁぁ・・・、これいつまで続くんだ?」
これで、初日から4日連続の課外授業だ。
「そりゃあ、私たちが数学のセカイにどっぷりと浸かって、センセイから免許皆伝を言い渡されるまでだよ」
(まじか・・・、それってこいつらが学校卒業しても無料ゲームじゃねーか)
テーブルのスポットライトがキラキラと照らす大村の目を眺めながら、
(あしたは、同僚に何が何でも打ち上げに呼ばれるからそれをどう切り出すかなあ)
と考えていた。
ふと、真夜中に鳴く、寝ぼけた一匹の蝉の音が耳に聞こえたような気がした。
(8.生徒ファイル⑥ 先輩と生徒と夜の街に続く)