第5話 高校生のオレと事象の地平面
6.高校生のオレと事象の地平面
いまここにいる自分のルーツは?
といえば、やっぱり、ふるさとで過ごした高校生活だ。
オレは瀬戸内海に面した港町で生まれて、そこで潮風を受けながら育った。
そこまでの田舎でもないが、都会でもない。
こころの成長を受け止めるには体が窮屈だった中学生活が終わって
高校に入学すると、自分も友だちも本当の意味での「オトナ」の階段を上り始める。
友だちとも背伸びすることなくお互いを認め合うし、
そして何より、家族以外に大切なひとの存在を意識するようになるのだ。
そんなオレに人生初めての彼女ができたのは高校2年の文化祭の前。
桐山ヒトミは構内でも指折りの美少女で、しかも生徒会長だった(いま思い出すと自慢になっちまうな)。
でも、オレからすると、まったくの高嶺の花だったわけで。。
ヒトミと付き合っている期間は本当に短かったが、
夕暮れどきに文芸部の部室で告白されたときのこと(え?おれでいいの?ってな)、
手をつないで隣町の植物園にデートに行ったこと、部室での他愛もない会話、
それらすべては、いまなお自分を形作る大きな結晶の一部分となっている。
「ねえ先輩。この証明問題なんだけど、ミニテストで×になっちゃった。
私、どこが間違いなのかわからないんだけど・・・」
放課後の文芸部室で、ヒトミがオレに問題集を見せてきた。
我が文芸部室は、グラウンドに面した本館の最上階の一番角部屋にあって、西日がさんさんと降り注ぐ。
滑らかな夏の風が、ヒトミとオレの間に一筋の青春のきらめきを演出していた。
当時のオレはたしかに数学は得意だったが、教えることに自信があったわけじゃない。
(どれどれ。あーなるほど、変数で両辺を割り算しちゃってるよ・・・)
「この証明ではルールを一つ破ってる。変数aで割ってはダメ。
『ab=2a』だからって、aで割って『b=2』にはならないんだよ。」
「あー、そうだったかも。でもなんでなんだろう・・・」
「・・・そりゃあ、aがゼロである可能性もあるからさ」
きっかけっていうのは案外小さいことが多いものだ。
ヒトミが本質的な質問をオレに投げかけたその瞬間、
いつもは眠っているオレの神経回路のある部分が呼び覚まされたのだった。
「ルールなのはわかるけど、どうしてゼロで割ってはいけないのかしらね・・・」
オレは学生服をパイプ椅子の背もたれに引っ掛けると、
カッターシャツを腕まくりして、机の上にあったスケッチブックにマジックで解説を始めた。
「そもそも『割る』っていうのはどういうふうにヒトミなら定義する?」
「リンゴを友だちと分け合うときの1人あたりの個数、、かなあ」
「ビンゴ!ベダだけどね(笑)
たとえば、6÷3だと、6個のリンゴを3人で分けると1人分は2個ってことになるね」
「じゃあ、1より小さい数字、たとえば0.1とかで割るっていうのはどういうふうに説明できる?」
「う~ん、0.1人で分けるっていうのは意味不明ですねぇ。」
「ヒトミの定義はこの場合も正しいし、使えるよ。
こう考えるとどう?
たとえば2÷0.1の意味は、『2個のリンゴだと0.1人分にしかならない。1人分は何個必要?』って感じ」
「お~なるほど。だから、1人分は20個ってことかあ」
「あ、そうそう。『割る』の定義の仕方って1つじゃないから、『掛ける』の反対、って定義もできるよね。
さっきの6÷3=2は6=2×3、つまり『1人分を2個とするとき3人分は全部で6個必要』ってね」
「まあ、そうとも言えますねぇ・・・」
「じゃあ、3÷0ってヒトミの定義ならどうなる?」
「『3個のリンゴだと0人分にしかならない。1人分は何個必要?』ってことですか?
でもそんなの、そもそもみんなはリンゴはいらなくて、別の果物がほしいってことかもしれない・・・」
「じゃあ答えは、『1人分として必要なリンゴはゼロ個』が正しいってことかな・・・。
・・・でも、オレの定義でそれを試してみると奇妙なことになるんだ。」
「3÷0=0が正しいとすれば、それを掛け算にしたら3=0×0。
これってつまり、『1人分を0個としたとき、0人分は全部で3個必要』ってことになる」
「あれ?それはおかしいです!
っていうか、ゼロに何をかけてもゼロだから、3÷0の答えはどうやったって答えがないんじゃ?」
「そうなんだ。3÷0の答えは『ない』。というか、『その計算に意味がない』というのが正しいかな。」
ぽかんとしているヒトミは、徐々に笑みをにじませた。
「ふーん、そういうこと。意味がないから答えもない、ですかぁ。本当に先輩はこういう話、ウマイですね(笑)」
オレもニヤリと笑みを浮かべた。
「でも、この式が成立する瞬間がただ一つある。
それは、オレたちがこの時空を超えて、違う次元に行ったとき。この式に意味がないのは、このセカイだけでの話だね。」
「へえ~、おもしろいですね、、
たしかに、このセカイが平面だけしかなかったら、立体は想像すらできないですもん。」
「そして、セカイとセカイをつなぐのが『特異点』あるいは『事象の地平面』って言うところなんだ。
オレたちも、自分の未来は想像すらつかない事象の地平面の向こう。
人によっては、宇宙ができるまえとかブラックホールの中にあるっていう人もいる。」
オレは続ける。
「いまは意味がないと思っていること、わからないと思っていることも、
おとなになると意味を持ち始めるんだろうね・・・」
青々としているグランドの向こうの水田の稲を夕日がオレンジに染めているのを遠くに見ながら
オレとヒトミは、自分がオトナになるってことはどういうことなのか、ふと考え始めていた。
「私と先輩は、オトナになっても一緒にいるかどうかわからない。
けど、今この一瞬一瞬に意味があることは、私は今もわかっているわ・・・」
これが、オレの生徒の第一号になってくれた、高校時代のある後輩の話。
(7.生徒ファイル⑤ 水谷センセイの場合に続く)