第2話 姉の威厳と複素数
3.生徒ファイル② 姉の威厳と複素数
「なあ、オレも帰る!姉ちゃんも授業がちょうどいま終わったところだし」
「ざんねーん、私は今から新藤先生に数学の居残り授業をしてもらうんだ~」
花谷祐樹は、そんな姉の言葉を聞いてがっくりしたのもつかの間、
中学英語を担当している水谷センセイに首ねっこをつかまれて、教室に連行されて行った。
「まったくあんたはドリルで30点しか取れなかったのに、居残りなしで帰られると思ってるの?!」
つまり、姉の真理と祐樹は、姉弟そろって居残り授業になったのだった。
高校1年の真理は美形というわけではないが愛嬌があって、性格もひとなつっこく、
多摩ゼミの職員室にもよく顔を出しては、
センセイたちとその日学校であったこととかを楽しく話しあったりしていた。
みんなからは「花姉」と呼ばれていたっけ。
弟の祐樹は中学2年で思春期まっさかり。
夏講習に茶髪で来たときには、センセイ以上に真理が
「もうやめてよー」といつものおっとり声ながらもあきれていた。
ただ、見た目は悪ぶっている祐樹もお姉ちゃんっ子であることは隠せないようで、
ちょくちょく真理の教室にちょっかいをかけに来ていた。
真理がちょこんと座っている個人指導ブースにオレが近づくと、
さっそく今日学校で返却されたテストを見せてきた。
21点・・・
「これは、30点満点なのか・・・?」
「ふふーん、センセイ冗談きついですよ~」
(さきは長そうだ・・・)
「で、明日の追試の範囲はどこなんだ?」
今日の居残り授業の目的は、
明日真理の学校で行われる追試で合格点を取れるようにすることだ。
「ふくそすう」
真理の口調はそのままオレの頭の中でひらがな変換されるほど、
内容を理解してなさそうだった。そのくせ、オレのとなりでニヤついている真理。
~30分後~
「で、この解き方を丸暗記すれば大丈夫だから。」
中身を教えている余裕はもうない。こういうときは、丸暗記が一番だ。
「ふ~、了解であります~」
何に満足しているのかわからないが、ご満悦な真理。
「そういえば、この前進路調査があったのね。
で、ふとこのままでいいのかなあ、って思っちゃった。まだ高校1年だけど、もう高校1年かあって。」
いつになく考え込む顔で教室の天井を仰いだ。
「・・・。」
真理の家はシングルマザーだった。
二人の子供を育て、しかも姉弟両方を塾に入れるというのは家庭的にも楽じゃないと思う。
だからこそ、真理は高校を卒業したら早く就職してお母さんを支えてあげたい、
と中学のころからずっと考えているのだ。
その一方で、真理には憧れの職業があった。それが小学校の先生だ。
愛嬌あるその性格は、小学校の先生にはピッタリだとオレも思う。
家庭を顧みる気持ちと夢とのはざまでの葛藤が、
女子高生になっていよいよ大きくなってきているのだ。
「・・・。今日花谷は『虚数って何?複素数平面って何?』って聞いたよな。
今は考えるな、ってオレは答えたけど。」
「うん」
オレは腕まくりをした。
背後からの視線を感じた。やっぱり水谷センセイだ(笑)
「数直線は書けるよな。ゼロから始まって右側に数字がどんどん大きくなっていく」
「バカにしないでよお(笑)。さすがの私もわかるわ。りんごが1個、2個って増えてく」
「中学生になったら、この数直線が左に伸びていったはずだ」
「うん、マイナスの数だね。りんごの数にはマイナスってないから、現実には見えないから最初は慣れなかったよぉ」
「数の世界はどんどん広がってく。
いま紙に描いた数直線は一本の線だけど、その線の上側と下側には『数』はないんだろうか?」
「ないんじゃないのぉ?」
「いや、ある。というか、あったらいいな、って昔の数学者は考えたんだ。
その名前が『想像上のうその数』つまり『虚数』だ。
数ができたんだから、数直線の上側と下側にも「点」が打てるようになった。『直線』から『平面』になったんだね。」
「おぉぉ。なるほど」
「人間が想像できることは、現実世界でそれが認識できるかどうかによらず、数の世界は広がっていくんだ。
真理という一人の人間は、数直線にとらわれることなく、平面を自由に泳いでいけばいいんだよ」
オレ達が席を立つと水谷センセイと祐樹も教室から出てきた。
この姉弟が今日の最後のお客さんだ。エレベータで玄関まで降りて、水谷センセイと2人を見送った。
「気を付けて帰るんだぞ~」
「うん・・・。センセイ、今後福山雅治のマネして。『小雪ぃ~数学の世界は広がるぅ~』ってね。」
(何言ってんだか・・・)
車のヘッドライトの光に2人の影が埋もれていくのを見ながら、
水谷センセイが何かをつぶやいた気がした。
「今日の人生講座よかったわよ」
(4.生徒ファイル③ みんなのセカイに続く)