【青森ねぶた】おもえば、とおくへ
臆すまじ、逃すまじ、この夏を。
夜空に眩しく、色鮮やかな武者の姿が浮かび上がる。今年の最高賞を示すプレートを掲げた鬼女の青い肌が、テレビ画面に踊る。
「やっぱり迫力満点だねぇ」
ビール片手に中継を見ていた夫が、隣の座面を叩いて招く。洗い物を終えた私は、遠慮なく身を寄せた。
今日の夫は、機嫌が悪い。高校生の娘がウキウキと花火大会に出かけていったのが原因だ。
『友達とだってばー』と言いつつ、はにかんで浴衣姿を確認する娘――男親として、不穏な気配を感じたのは当然だろう。ま、仕方ない。
画面いっぱいの、巨大な灯籠人形。太鼓の響きと澄んだ笛の音、手振り鉦の金属音が、郷愁を呼び起こす。魂に刻まれた高揚感。
私の故郷の祭り。
遠く離れていても、このお囃子と掛け声を耳にすれば、いつでも感動が蘇る。
「な、倫子。お前と見た、あの志功さんのねぶた……」
「どんなのだっけ?」
「…………」
……夫がさらに不機嫌になってしまった。ごめん、嘘だよ。
私はそっぽを向く夫の肩に、コテンと頭を乗せた。
テレビから聞こえる『ラッセラー』の掛け声が、あの日の記憶を呼び起こしていった。
* * *
夫とは『お互いの知り合いを集めてBBQ大会』という集まりで出会った仲だ。同僚に誘われ参加した私は、そこで運命的な出会いを果たした。
その日から携帯メールが日に何度も行き来し、休日の予定をお互いに確認し合い――二ヶ月目のデートの帰り道、駅ホームでの『付き合って下さい』『喜んで』というセレモニーを経て、恋人同士となった。
順調に一年ほど過ごせば、嫌でも「その先」のことを考える。私の会社は保守的だったし、私も単なる一般職。『売れ残りのクリスマスケーキ』となる前に寿退職してゆく同僚を脇目に、3年目の私に焦りがなかった訳じゃない。
それでも、彼に「先」を求める自信が私にはなかった。
後で聞けば、彼も何を求めない私に自信を無くしかけていたと言うのだから、似た者同士としか言いようがない。
そんなもだもだした関係を吹き飛ばした、あの夏の祭り。
威勢の良い掛け声と手振り鉦、色鮮やかな灯籠人形とハネト衣装が、出番を待ってひしめき合う、新町通り。
原因すら思い出せない些細なケンカとなった後、私は彼に無断で夏休みを入れて帰省した。
両親は突然帰省してきた娘を不審がりながらも、何も言わずハネト衣装を出してくれた。朱のタスキを背で結び、『けっぱってこ』と、懐かしい言葉で送り出してくれた。
ハネトの動きは激しい。普段は小銭だけの福財布だが、私は未練がましく二つ折りの携帯電話を仕舞う。
十日ほど声も聴かせていない。
意地を張った700kmは、遠い。
こんなに遠くでは、彼に触れられない。
囃子よりも、やっぱり彼の声が聞きたい。
身に着けた鈴が、歩みに合わせてリンと鳴る。
ハネトから落ちた鈴は、幸せを呼ぶのだという。
だから皆たくさん着けては激しく踊り、皆に幸せを分け与えるのだ。
私にも、幸せ、落ちてこい。
囃子が“ころばし”に変わり、手振り鉦がシャンシャンと鼓舞し始める。開始を待つ私の胸元で、福財布が震えた。慌てて取り出し開いた画面には「着信 タマキ」の文字。
「もしも――?」
「――倫子っ! 今、どこ!」
焦った彼の声。囃子と喧噪で、声が聞き取りにくい。
「え、今、実家で……」
「いやっ、そうじゃなくっ、どこのっ、ねぶた?!」
そこで私も気がついた。彼の電話の向こうからも、同じく響く囃子の音。
「え、玉樹? もしかして、今、ここに?」
「そうだよ!」
怒ったような、彼の声。
焦って人混みから外れ、携帯電話を耳に押しつける。なんとか合流できた時には、既に囃子は“運行”に変わり、私はハネトの正装のまま通りに立つことになった。
「なしてさ、こっちゃに……」
「なんでって……お前がっ実家に戻ったってっ! なあ、何でだよ? 何で俺を捨ててくんだよ!!」
肩を掴み私を揺さぶる彼。腰に下げた鈴が煩いほどに鳴る。
乱暴な手付き、激しい口調。
震える手、脅える声。
彼の動揺が、周囲を包む太鼓の音のように、私の心に響く。
ギュッと引き寄せられ、汗ばむシャツに頬が押しつけられる。
熱い熱、激しい鼓動。
囃子の音が遠くに消え、彼の声だけが耳を打つ。
「……なあ、俺じゃダメなのかよっ なんで求めてくれねえんだよ……」
肩口に押しつけられる、泣きそうに震える声。
頭を私の肩に預け、私の腰に手を回しすがりつく腕。
その拍子に下げた鈴が落ちて、鳴る。
ああ。私に、幸せ、落ちてきた。
「……玉樹、ごめんちゃ」
同じように手を回し、抱きつく。
遠くに響く合図の花火。“運行”のねぶた囃子の中、灯籠人形が次々に動き出す。
「大好きだ。ずっと一緒に居てけろ」
「だったら! 俺の所に帰って来いよ!!」
少し詰まった玉樹の台詞に、私は嬉しさの余り忘れそうになっていた事を問いただす。
「んだば、なしてさ、こっちゃ?」
「え? あ? だって、お前が実家に戻ったって聞かされて……『見合いでもすんじゃないの?』ってアイツも言うし、俺、とうとう捨てられんのかと焦って、そしたらヤツが切符くれて……」
「……私、夏休みなだけなし……?」
彼の台詞に出てくる「アイツ」と「ヤツ」……見知った彼らの“したり顔”が脳裏に浮かび上がる。
「……あいつら……」
「ダブル和泉に、うまく乗せられっきゃ」
苦虫を百匹は噛みつぶした表情で、彼は天を仰ぐ。
彼の高校時代からの親友たちの「お節介」。
「羨ましい友情だっちゃ」
「……お前、さっきから、それ反則っ」
「ん?」
「方言! 可愛すぎんだろ!!」
思わず口を押さえて赤面する。そんな私を愛おしく見つめる瞳。
「椎名倫子さん。一緒に居たいです。俺と結婚して下さい」
「安宿玉樹さん。喜んで」
なんて素敵な祭りの夜。
囃子の音に包まれてのプロポーズ。
あふれる涙を、彼の唇がすくい取る。滲んだ視界に、私が参加するはずだったねぶたが、威勢の良いハネトに送られ通り過ぎてゆく。
「……あれ、参加するはずだった『花矢の柵』」
「何か意味あんの?」
「元画がね、棟方志功さんの『心の矢で、美しい花を射止める図』でね。『矢を北から南へ吹き返す』の。私の矢で、あなたを射止めてやろうって――」
最後まで言えなかった。だって、唇が覆われて。
幸せは、あなたから落ちてきた。
今年は、鈴を拾わなくてもいい。
私の鈴は、皆にばらまいてやる。
結局踊らないまま、祭りが終わる。合図の花火と共に囃子が静かに退き、解散する人々の波。流されぬよう互いの手を握りしめる。
「んだば、玉樹。今晩、どうするっちゃ?」
「……なんも考えてない。和泉は切符しかくれなかったし……どっかホテルとか探して……」
「あんねえ、祭り期間中に宿の空きなんて無いきゃ」
私は彼を見据えて、下腹に力を入れる。ここが勝負所!
「うち、来てくれっちゃ。おどに、挨拶してけろ」
一瞬遅れて意味を把握し、真っ赤になって視線が泳ぐ彼が可愛い。
だが次の瞬間、彼も覚悟を決めた凜々しい瞳で私を見つめ返す。
「……だから、方言は反則だって」
「んだば、おど達の通訳してあげっから。けっぱってけろ?」
私はわざとおどけて言葉をつなぐ。
北の大地の言葉は、心の矢となって。
明日はきっと、二人で幸せの鈴をまき散らすのだ。
思えば遠くに来たけれど、心の矢はどこにでも届く。
忘れない、この夏の祭りを。
思えば遠く来たもんだ
此の先 まだまだ何時までか
生きてゆくのであろうけど
「頑是無い歌」(中原中也 『在りし日の歌』より)
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【注1】作中の津軽弁は、作者の記憶頼みであるため間違いがあるかも知れません。
【注2】作中キャラ「玉樹」君は、前話の「玉木」君とは別人です。