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幕間その一

「トンネルが怖いんです、僕」

「え、どうしたの葉太郎くん、藪から棒に」


 藍子さんが担々麺にたっぷりの唐辛子をかけながら言った。その手捌きはとても鮮やかで、まるで某俳優が料理番組でオリーブオイルを振りかけるあの手つきのよう。綺麗ではあるけれど、ちょっと大袈裟にも思えた。

 深い朱色のスープに点々と浮かぶ真紅のラー油。そのただでさえ辛そうな担々麺に、藍子さんはこれでもかと唐辛子を振りかける。砂糖顔という表現が適切かどうかはわからないけれど、藍子さんはスイーツが好きそうな、そして似合いそうな顔立ちなのに、顔の割にずいぶん辛党なんだな、と僕は思った。

 藍子さんは僕の家庭教師。勉強が終わった後、よくご飯を奢ってくれるのだけれど、ラーメン屋に連れてこられたのはこれが初めてだった。


「いえ、この間、同じクラスの女の子に、川端康成の『雪国』を借りて読んだんですよ。それで、なんとなく、そう思っただけで」

「ふうん、そう……え、でも、あれってそんな怖い話だったっけ?」

「ああ、その、それとこれとは別で、『雪国』を読んだから怖くなったわけじゃなくて、元々トンネルが苦手だから、いきなりトンネルの話が出てきて面食らっちゃったって話です」

「へえ……で、どうしてトンネルが苦手なの?」

「怖くないですか? なんとなく。だって、逃げ場がないじゃないですか。山を無理矢理くり抜いてトンネル通してるんですよ。何年か前に崩落事故もあったし。ニュースで毎日のように報道してたじゃないですか」

「ん~、まあ、たしかにあったけど……」

「もし対向車が突然こちら側に飛び出して来たりしても、避けるわけにもいかなくて、そのままぶつかるしかないんですよ」

「そんなこと言いだしたら、車なんて乗れないよ。いつどこで変なドライバーに当たるか……」


 藍子さんはそう言いかけて口を噤んだ。僕の両親が、居眠り運転のトラックに追突されて死んだことを思い出したのかもしれない。僕は僕で、彼女にそんな気を使わせてしまったことが申し訳なくて、言うべき言葉がなかなか見つからなかった。

 おもむろに箸を手に取った藍子さんは、赤いスープの海から太く縮れた麺をすくい上げ、ずるずると口に運んだ。後から大量に追加された唐辛子の粉末が、これでもかとばかりに麺に絡み付いている。太縮れ麺だから、普通の麺以上にスープや唐辛子が絡みやすいのだ。波打つ麺の形が、藍子さんのゆるふわパーマに少し似ているな、と僕は思った。

 僕が注文したのは普通のとんこつラーメンで、麺は細く、ほんの少し堅めだった。口の中に、まろやかでこってりした豚骨の風味が広がる。


「でもさ」


 血の池地獄のような担々麺を見つめながら、藍子さんが再び話し始める。さっき麺を啜ったばかりのはずなのに、もう全て飲みこんでいるようだ。彼女は僕に比べて咀嚼の回数が極めて少ない。僕自身も人より噛む回数がかなり多いらしいけれど、それ以上に、藍子さんが相当の早食いなのだ。


「変な比喩かもしれないけど、人間って誰しも、生まれてくる時にトンネルを通って出てくるわけじゃない? お母さんのお腹の中から」


 藍子さんの方からこんな話題を振ってきたことに、僕は少なからず驚くと同時に、若干の気恥ずかしさを覚えた。それは、『生まれてくるときに通るトンネル』という比喩が指し示す場所のことを想像してしまったからに他ならない。僕はなるべく表情からそれを悟られないように注意し、麺を咀嚼しながら答えた。


「ほうでふね」

「もしかしたら、葉太郎くんは難産だったとか?」

「……どうなんでしょう。そんな話は、聞いたことがありませんけど……」


 藍子さんにはまだ話したことがなかったが、今川家はなかなか男が生まれない家系で、それには大昔のある呪いが関連しているらしい。だから、出産の際、その呪いの影響で何らかのトラブルがあった可能性は否定できない。


「私が思ったのはね、特に理由もなくトンネルが怖い、っていうんだったら、記憶に残っていないぐらい小さい頃の記憶が関係しているんじゃないか、ってこと。たとえば、葉太郎くんを産んだ時にお母さんがひどい難産で、お母さんが苦しんでいるのを葉太郎くんはお腹の中でしっかり感じていた。もちろん今は当時の記憶なんて残っていないと思うけど、無意識の深層心理の中に、怖い、痛い、苦しい、ごめんなさい、生まれてごめんなさい、っていう感情が残っていて、トンネルはその遠い記憶を刺激してしまう。だから怖いのかなって、ちょっと考えた。全然、根拠のない想像だけどね」

「なるほど……」


 根拠のない想像、と謙遜しているけれど、藍子さんの仮説には、確かにそれなりの説得力があるように思えた。まだ胎児だった頃の僕が、僕のために苦しんでいる母親の苦痛を感じてしまったら、僕はそれでも喜んで生まれてきたいと思っただろうか。それは、自分がそこまでして生まれてくる価値のある人間だと思えるかどうか、という自己評価に繋がってくるかもしれない。そして、僕はあまり自己評価の高い人間だとは言えない。

 子供が生まれるときの母親の苦痛は、鼻からスイカが出てくるような感覚だと言われる。普通の出産でもそうなのだから、それが難産だったりしたら、その苦しみはどれほどのものか、僕には想像もつかない。

 そんな母親の苦しみを感じ取ってしまったら、僕はきっと、母親に対する自責の念でいっぱいになってしまうだろう。そして、産まれてすぐ、声を上げて泣きながら許しを請うのだ。


『産まれてきてごめんなさい』


 と。


 でもね、と藍子さんは続ける。


「葉太郎くんは現にこうして産まれてきたんだから、それでいいんだよ。お母さんは辛い痛みに耐えて君をこの世に産み落とした。そして、そのお母さんはもうこの世にいない。だから、君はお母さんの代わりに頑張って生きなくちゃ。そのためにお母さんは頑張ったんだから」

「……ありがとうございます」

「よし、この話は終わり!」


 藍子さんはそう言うと、天使のように甘く微笑んで、僕の頭をわしわしと強く撫でるのだった。

本稿は、即興小説トレーニングで葉太郎と藍子を使って書いた小編を改稿したものです。

お題は「灰色の洞窟」、必須要素は「オリーブオイル」でした。

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