プロローグ
―――嘗て、人々は魔術を用いて生活をしていた。
杖を振れば炎を生み出し、祈りを捧げれば雨を降らせ、石があればダイヤに変えることも出来たとされる。そして魔術による暮らしは数百年続き、人々は隣人と手を取り合い、争いもなく平和な時代を築き上げた。
しかし、そんな時代も突如として終わりを告げる。
『科学』。
いつしか登場したこの学問は魔術一派との対立を避けることが出来ず、やがて魔術と科学による争いへと発展してしまう。何十年にも渡り繰り広げられた争いは多くの犠牲者を出し、美しかった大地は割れ、川は夥しい血で真っ赤に染まった。
だが永遠に続くと思われた争いは、やがてたった一人の青年によって鎮静したのだ。
青年はそれぞれの重鎮を招集すると何日間にも及ぶ談義の末、たった一日で世界を二分する巨大な壁を作りあげた。
それから百年後、互いに手を取り合って生きる道を選んだ二つの派閥は、巨大な壁を破壊することで融合を図る。しかし二百年の間に魔術はすっかり衰えており、壁を破壊した後、世界は科学へと大きく傾いてしまった。
壁の崩壊から更に二百年。今や科学の進歩は目まぐるしく、魔術を扱える者はほんの一握りに限られてしまった。しかし嘗ての魔術師の家系の多くは先代のようにならんと望む者も多く、現存する魔術師が立ち上がり魔術師育成を目的とした世界でたった一つの学院を設立したのだ。
『聖魔術学院』。
今もなお建造を続けるこの学院こそ、現代魔術の希望の架け橋であり、魔術師の総本山である。
□■□
「それでは簡単な強化魔術をお見せしよう。この魔術は基本中の基本であり、魔術を学ぶ上では欠かせないことだ」
静まり返った講堂に男の低い声が響く。聖魔術学院で講師を勤めるアニマ・フェリスは漆黒の髪に切れ長い金色の瞳をした、彫りが深く頬のこけた壮年の男である。アニマは淡々とした姿勢を崩さず、どこか近寄りがたい硬い表情のまま、蝙蝠色のトンビコートを翻すと曇り一つない水晶玉を演台に置く。直径二十センチ余りのそれはどこにでもあるなんの面白みもない水晶で、講堂のライトを受けてキラリと輝いた。
「知っての通り水晶玉は非常に傷つきやすい。万が一強い衝撃を与えた場合は簡単にヒビが入り、粉々に割れてしまう恐れもある」
たとえばこのように、と演台の下からトンカチを取り出し勢いよく振り下ろす。女生徒の短い悲鳴と同時に破片を飛ばしながら歪な形で割れてしまった水晶に、講堂にどよめきが起こる。しかしアニマは別段気にした様子もなく、トンカチを置くと割れた水晶を掲げた。
「このように割れた水晶は修復することも可能だがそれはまた別な機会で行うとする。ではいよいよ本題だ」
言いながら再びコートを翻すと二つ目の水晶玉を取り出す。割れる前と寸分違わない水晶はやはり曇り一つなく輝いており、粉々になったそれがより痛々しく見えた。
「強化魔術の詠唱は至ってシンプルである、それでは」
こほん、と咳払いをして今度は割れていない水晶を掲げる。静まり返った講堂に視線を彷徨わせて、そっと薄い口を開く。
ぽうっ青い光が水晶を握る手から放たれ、そこから吹く微量の風がアニマの髪を揺らした。
「『聴け、其方は刃、其方は楯、更なる力を此処に宿せ―――強化魔術』」
次の瞬間、光は一層強くなりそして瞬きの間に何事もなかったかのように消える。水晶はなんの変化も見られず、相変わらずライトを受けて輝いていた。しかしアニマは何事もなかったように割れた水晶と共に教卓に置くとトンカチを掴み上げ、とんっ、と掌を軽く叩く。
「それではもう一度このトンカチを振り下ろしてみよう」
直後、素早く振りあげられたトンカチに先程の惨状を思い出してか空気が張り詰める。だが勢いよく振り下ろされたそれはまるで鉄でも打ったような鈍い音を立て、鼓膜を痺らせるようにして講堂中に反響した。トンカチをどけるとそこにはヒビ一つ入っておらず講堂のいたるところから感嘆の吐息が漏れる。するとアニマは再び水晶を掲げて傷のないことを証明すると、まるで手品のようなそれに何人かの生徒は思わず手を叩いた。
「これが強化魔術だ。慣れれば物質強化以外にも肉体強化も可能になり、詠唱破棄だって簡単に出来る」
こんな風に、と再び青い光が水晶を照らし瞬く間に消える。しかし周囲の反応を伺うと息を吐き、これまでよりも強い光がアニマの全身を包んだ。
「こうして一層硬質になった水晶だが、しかし強化魔術にも限度がある。魔術をかけ続けるほどそれだけ対象に負担がかかり、やがて破滅してしまう。魔術による無限の奇跡は起こりえない、限度を弁えない魔術師はいつか破綻し最悪の結末を迎えることになるだろう。そう心に留めておきたまえ」
パリン。
音を立てて砕け散った水晶へ一様に息をのむ。だがアニマは破片を見下ろすと肩をすくめ、苦笑を漏らしながら口を開いた。
「まったく、後片付けが大変だな」
□■□
『現存する魔術師で最も優秀』。
そう謳われていながらその肩書を鼻にかけず、質素な生活を好み、講師の傍ら魔術の修行や研究に精を出す。真面目な性格で基本的に無表情のまま固まっている顔は近寄り難いが、その実ジョークを口にしては場を和ませる。面倒見もよく生徒たちからは慕われ、厳しく指導する反面決して見捨てることはなく、不器用ながらも褒めるときは褒めて伸ばす。
アニマ・フェリスとは、そんな男である。
喧騒に包まれた昼時の食堂。ワンコインのランチから、新鮮な野菜が採れるサラダバー、そして食後にピッタリなデザートまで、美食家たちをも唸らせる味は様々な世代や国籍の集う学院でも愛されており、なかでも看板メニューのパエリアは開店と同時に並んでも食べることが困難と称されるほどの人気であった。
「はいよ、グリーンカレーお待ち」
ツン、とした香辛料の香りが鼻を擽る。贅沢に入った色とりどりの野菜と一口大の鳥肉は見ているだけでも空腹感を刺激し、咥内で唾液が過剰に分泌された。最も、アニマ仕様に極限まで辛くされたそれはすれ違った瞬間に顔を顰めるほど強烈なスパイスの香りがするのだから、彼以外は食欲を削がれてしまうのだが。
アニマは釣銭なくレジにお金を出すと、定位置と化している食堂の一番奥の席へ腰をかける。広い食堂のなかで一番扉から離れているそこは窓から射しこむ明りも当りにくく、食堂で最もじめじめとした場所だった。しかしアニマはその場所を大層気に入っており、本来講師たち専用に用意されている豪華な長テーブルをそっちのけで座っているのだから、端から見れば理解し難い光景である。
「こんにちは、先生」
スプーンを持ちグリーンカレーを掬おうとした途端、頭上から掛けられた声に動きを止めた。透き通るようなソプラノ声は耳触りが良く、訛りのない上品な言葉遣いは顔を上げずとも誰であるか想像に容易い。
「藤波か」
藤波、とは藤波嘉弥のことで、アニマ受け持つ生徒の一人である。陶器のように白い肌は長い睫毛に縁取られたルビーのような紅い瞳を強調しており、ミルクチョコを思わせる二本に結われた髪が頭上で揺れていた。ツヤのある桜色の唇を緩めるとその整った顔は一層愛らしくなり、例え数百の薔薇が咲き誇る庭園に居たとしても薔薇が霞んで見えるほどに眩い。
「ご一緒しても?」
「構わんよ。君がこの香辛料の香りが嫌ではないのならね」
「ふふっ、それでは失礼します」
トレーを長テーブルに置き椅子を引く。無駄のない動きは育ちの良さを知るには充分で、周囲を見渡すと大勢の生徒や講師がチラチラと視線を送っては時折耳打ちをしていた。しかしその光景にも最早慣れたもので、アニマが正面を向きなおすと嘉弥は柔らかく微笑んだ。
トレーの上にはパンケーキがあり、半熟の目玉焼きが乗せられたそれはベーコン、トマト、レタス、クルミなどが添えられており、かわいらしい見た目が嘉弥にピッタリだった。
二人して手を合わせ、嘉弥がフォークを突き立てるとパンケーキは簡単に形を歪め、ナイフで一口大に切ったそれを付け合わせと一緒に頬張る。途端に咥内へ広がるクリームチーズとマーガリンの濃厚さに目尻をほんのり紅くした。
一方のアニマもスプーンでライスとルーを均等に掬い、香辛料の芳ばしい香りを楽しむように軽く嗅ぐと、思いの外大きな口で咥内へ運んだ。その直後、火照り出した身体に息を吐くと随分熱っぽく、スパイシーなその味に満足気に目を細めた。常人であれば一口食べただけで卒倒しそうなそれを、再びなんの躊躇いもなく掬うと、いたって涼しい顔で二口目も平らげる。
こうして食べ進めていくうちに周囲も観察することに飽きてきたのか、やがて視線を感じなくなったころ、三分の一ほど平らげた辺りで嘉弥は食器を置いた。
「先程の講義お見事でした。先生の教えは毎回丁寧で無駄がなく、とてもスムーズに頭に入ってきます」
「それは何よりだ。次回の実技では皆が出来ることを祈っているよ」
「期待に応えようとみんな必死になっているところです。ほら、現にこの食堂には先生の生徒は少ないじゃないですか。きっと予習に励んでいるところなのですよ」
「君はどうなんだい」
一度スプーンを置き真っ白なナプキンで口元を拭く。残り半分となったカレーを残念に思いながら嘉弥を見遣ると、虚を突かれたように大きな目を更に丸くして数度瞬いた。しかし直後に浮かべた笑顔は自信に満ち溢れており、愚問であったか、と分かりきっていたことにアニマはコップの水を仰ぐ。
「詠唱破棄くらいなら既にマスターしています。いまは精度を高める練習をしていますが、まだ納得がいかなくて」
そこまで聴き、やはり先程の言葉は皮肉であったとアニマは悟った。
生徒と言っても実力差はピンキリで、最初から魔術を扱える者も居れば、全くセンスのない者も居る。大半の生徒は魔術師としての才能を開花して間もないのだが、なかには教員ですら舌を巻くほどの技術や能力を持った、いわゆる『エリート』も存在するのだ。
そうした『エリート』の大半は既に魔術師としてある程度名高く、そしてその殆どがより高みを目指す目論みで入学してくる者である。
嘉弥の場合は典型的な『エリート』で、何百という生徒数を誇るこの学院でも上から数えた方が余程早いくらいには優秀だった。
当然、そんな『エリート』のためのカリキュラムも存在するのだが、どういう訳か嘉弥はビギナークラスも専攻している。
勿論、そんな嘉弥には敵も多く、当てつけがましいと常々不評であった。だがそこにどんな思惑があろうと、自らの意思でそうしている限りアニマとてわざわざ問い詰めることはしない。
生徒の数だけ事情がある、そう割り切って無粋な詮索をしないのもアニマが人気の理由の一つだった。
「そういえば、先生は以前から魔法について研究していましたよね」
ふと投げ掛けられた言葉に息をのむ。しかしそれは一瞬のことで、アニマはなんでも無い顔で頷くと、続きを促すように嘉弥の目を見据えた。
「小耳に挟んだのですが、最近魔女の一族が見つかったみたいなのです」
「らしいな。私も風の噂程度にしか聴いていないが、世紀の大発見だと講師の間では話題だよ」
「流石に耳が早いですね。では、今朝方軍が侵攻したとの噂はもうご存じですか?」
途端に、ぴたり、と糸で引かれたようにアニマの身体が固まる。スプーンに伸ばした手は手持無沙汰のまま浮いていて、やがて息を吐くと強く握った。
その様子に嘉弥は目を細めると、再びパンケーキにシルバーを突き立て優雅な動きで租借する。それを一瞥しながらアニマはやっとの思いでスプーンを掴むと、やや贅沢にカレーを掬い頬張った。
パンケーキの甘い香りとカレーの刺激的な香りを感じながら、互いに視線も合わせずに淡々と食べ進める。
それはまるでチェス盤を前に有効な手を思考しているときの沈黙に似ていて、次の一手に備え互いの出方を伺っていた。
やがて口を開いたのは先に食事を終えたアニマで、米粒一つ残さず平らげ、飲料水を煽って喉を潤す。
「流石に軍の行動は素早いな」
予想通りの言葉に嘉弥は頷くと、再びシルバーを置き傍らのコップに口をつけた。
「生け捕りか殺戮か…どの道、魔女にとっては地獄になってしまうのだろう」
「私たちがこうして食事をしている間にも、ですよね」
どこか煽るような嘉弥にアニマは溜め息のひとつも吐きたくなる。
どうにもアニマを敵視しているらしい眼前の少女は上機嫌に笑った。大半の『エリート』こうして講師だろうと子供を相手にするように遊ぶのだから、全くもって扱いが難しい。
「失礼します。アニマ先生、学院長がお呼びです」
ふと、落とされた声に顔を向けるとスーツ姿の女性が礼儀正しく佇んでいた。タイトなスカートからはすらりとした足が伸びており、胸には学院長の秘書であることを証明するバッジが輝いている。
滅多に姿を見せない秘書の登場に食堂は一層ざわつくと、喧騒を好んでいないらしい秘書からは僅かに苛立ちのようなものを感じた。
「直ぐに向かおう。興味深い話をありがとう、藤波」
「……あ、はい。こちらこそ、貴重なお時間ありがとうございました」
言いながら立ち上がると、呆けていたらしい嘉弥は珍しくやや早口に言葉を紡いだ。
トレーを返却し、秘書の後をついて行く。
目的地は院長室。
この学院で、最も恐れられている場所だった。