第三章 憂える俺様姫 その一
「アリスちゃん」
にこにこと笑みを浮かべる公爵夫人に、アリスはひくりと頬を引きつらせた。
いつになく上機嫌な様子に、アリスは嫌な予感がした。
四十歳を迎えても未だにその容姿は若々しく、かつては社交界の華としてあまたの殿方から熱い眼差しを受けていた美貌は健在だ。
無邪気に瞳を煌めかせるところは、本当に少女のようで、彼女を知らない人が見れば、二人も息子がいるとはとうてい思えないだろう。
天真爛漫だが、母親らしい慈愛深い一面を持つ公爵夫人に敵う者などこの屋敷にはいない。
「三週間後に、城で舞踏会が開かれるのは知っているわね?」
普段ならアルバンの森へ散策に行っている時間だというのに、アリスの部屋を訪れたのはそれが言いたかったからなのだろう。
朝食のときから、なにか言いたげな視線は感じていたが。
公爵もウィルも普段通りだったから、たいして気にも留めていなかった。
「はい……」
「そこで、貴女のお披露目をするそうよ」
「!」
アリスの顔が強ばった。
早すぎる!
動揺を隠せなかった。
昨日の今日で伝わっているということは、もっと早くから計画が練られていたのかもしれない。公爵がなにも言わなかったのは、アリスを慮ってなのだろうか。
昨夜のクロイツの話では、十五歳の誕生日を迎えてからだと思っていた。
まだ数ヶ月先だと余裕さえ感じていたが、クロイツのほうが一枚上手だった。よほどアリスに会えないのが不満だったのだろうか。
「さあ、忙しくなるわね! 舞踏会に相応しいドレスを用意しないと。行儀作法の先生は、もう手配済みよ。ああ、胸が高鳴るわ。わたくしが、初めて舞踏会に行ったときのことを思い出すわ」
ほわっと夢見心地に双眸を潤ませた公爵夫人は、どんなに素敵だったかアリスに語って聞かせた。
真新しいドレスに身を包み、胸を躍らせ、一歩踏みだとしたときの心地よい緊張。
大人の仲間入りをしたような感動と、初めて踊った相手との思い出は一生の宝物だと。
のちに社交界の華として、その名を轟かせることになる彼女の初めての大舞台は、未知なる冒険への入口だったという。
慣れないお酒を飲んで、気分が悪くなってしまったくだりを聞いていたアリスは、思わず笑ってしまった。
「おば様にそんな失敗談があったなんて、信じられないや」
「まぁ、アリスちゃん! おば様なんて、他人行儀に呼ばないで。お母様って呼んでちょうだいと何度も言っているでしょ? 貴女は、わたくしの娘なんだから」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑った公爵夫人は、隣に座っていたアリスをぎゅっと胸に抱きしめた。
ふわりと香る香水に、アリスは目を閉じた。
あたたかい……。
(母さんがいたら、こんな感じだったのかな)
母の温もりを知らずに育ったアリスには、実の娘のように接してくれる公爵夫人が新鮮だった。
いや、彼女だけではない。
公爵だって、娘のように扱ってくれる。
(でも、それは、オレが――だから……)
だからこそ、ディアスの婚約者として認められ、こうして居候もさせてくれているのだ。
クロイツがそれを命じたとしたら、だれも断れるはずがないのだ。
すべてはまやかし。
アリスがクロイツの妹でなかったら、彼女たちは掌を返したように去っていくだろう。
そう考えると、胸に鋭い痛みが走った。
(バカだな、オレは……)
好きなのだ。
こんな自分に深い愛情を注いでくれる彼らが。
クロイツはもちろん家族として大切だが、彼らもまた第二の家族のように大事な存在なのだ。
失いたくなかった。この居心地のよい場所を。
「悩んで、いるの?」
ふいに公爵夫人が口を開いた。
公爵夫人の豊かな胸に顔を埋めていたアリスは、ハッとしたように上を向いた。
とたん、こちらを優しく見下ろす公爵夫人の目と合った。すべてを包み込んでくれそうなあたたかな榛色の双眸。
「これでもあの方は、待って下さったのかもしれないわ。本当は、貴女をもう少し早い時期に手放さなければならなかったのよね……。でも、たとえあの方でも、嫌だわ。我が子を一時でも手放して喜ぶ親はいる? けれど、これはわたくしにもどうにもできないことなの……」
「おば様……」
「貴女がこれから現実に直面する問題はとても深くて、繊細で……きっとわたくしには考えもつかないことばかりでしょうね。でもね、忘れないで? 離れていても、心は一つ。わたくしたちは、家族なのよ」
「……ははっ、おば様はオレを喜ばせるのが上手だ。オレ、ここに来てよかったって思えるよ。本当だよ? ずっと憧れたんだ。父さんがいて、母さんがいて……そんな家庭に。無理だって思ってた。オレには永遠に手に入れられないんだって」
「初めて顔を合わせたときのことを覚えていて? アリスちゃんてば、とてもみすぼらしい格好だったのに、瞳の輝きだけは強くて、……ああ、この子は、必死に生きてきたのね、と思ったの。小さな女の子が、生きるために頑張っていたんだとわかったら、とても悲しくて、辛くて、でもだから貴女のことを愛おしく思ったわ。――わたくしはね、女の子が欲しかったのよ」
内緒話をするように、くすくすと笑いながら打ち明けた公爵夫人は、優しく言った。
「男の子は、着飾りがいがないでしょ? 乱暴だし、わたくしの手をすぐに離れていく。だから、ウィルが生まれたときは少しがっかりしてしまったわ。わたくしに似て、可愛く育ったけれど、今はドレスなんて着てくれないんだもの」
すねたような公爵夫人の台詞に、アリスは苦笑した。
ディアスも公爵夫人の魔の手に掛かり、女物の服を着せられたことがあるという。女の子よりも可憐な顔をしていたウィルなら、さぞ楽しめただろう。
アリスはそんな姿を見たことはなかったが、使用人の話では、花の中から生まれた妖精のように愛らしく、見る人を魅了したという。