第七章 俺様姫の決断 その一
夜が明けたのをぼんやりと感じていたアリスは、ついにこの日が来てしまったかと苦々しく思った。
アリスの披露目も控えている以上、出席しないといけないだろう。
だが、暗澹とした思いが腹にたまり、動くのも億劫だった。
「おば様に、会いたいな……」
ふと漏らしたその言葉をすでに起きていたテイトが拾った。
「では、会いに行きましょう!」
「いや、迷惑だろう……。オレはもう、なんの関わりも……」
「ご主人さまっ」
叱咤するように声を上げたテイトに、アリスがびくりと体を震わせた。
「このところ、ご主人さまらしくないですよ」
「オレらしい、ね……」
目を瞑ったアリスは、ゆるく首を振った。
「お前にはわからんさ。オレの苦悩など」
「ええ、わかりませんとも。けどね、今のご主人さまが、ウジ虫野郎ってことはわかります。ボクの大好きなご主人さまは、優しくて、意地悪で……でも、とっても輝いている方なんです。今みたいにうじうじ悩んで、腐っている方とは違います」
「……」
「心がね、すっきりしないと、見えるものも見えなくなっちゃうんですよ」
テイトのその言葉が、胸に響いた。
確かに、このまま兄に会っても迷惑をかけるだけだろう。
ゆっくりと目を開いたアリスは、公爵夫人に会いに行くことを決めた。
そうと決まれば、テイトの行動は早かった。素早くアリスの身支度を整え、朝食の用意をすると小屋を出た。
アリスたちの後を追うように、木の陰から護衛が現れたのをアリスは気づかないふりをした。
「お、奥様ぁぁぁぁ~~……っ」
アリスに気づいた使用人が、幽霊を見たかのような形相で、手に持っていた籠を放り出すと二階へと駆け上がっていった。
驚かせてしまったかとぽりぽりと頭をかいたアリスは、奥の書斎から現れた人物に目を見張った。
「アリスか……?」
「おじ様……」
いつも隙なく外見に気を使っているバルフィック公爵にしては珍しく、髪が乱れていた。アリスと同じく寝ていないのだろうか。目の下にはうっすらとクマができ、憔悴した様子だった。
ずきんと胸が痛む。
彼にも多大な迷惑をかけてしまった。
「無事で……っ」
バルフィック公爵は声を震わせると、恐る恐るといった感じにアリスを抱きしめた。
「すまない……。私の甥が、」
「おじ様が謝ることはない。オレは、元気だから気に病むな」
アリスは、バルフィック公爵の言葉を途中で遮った。
子爵の件が、バルフィック公爵をずいぶんと悩ませていたようだ。身内が起こした事件だけに、頭が痛いだろう。
「ディアスのことは、聞いたか?」
「……ああ。テイトから」
「私は、陛下の家臣である以上、ご命令に逆らうことはできない。なにより、陛下には負い目がある。おまえを無様に誘拐させてしまった負い目が……。きっと、これは陛下なりの罰なのだろう。おまえを危険にさらした」
「おじ様……」
「本当に、すまない。私は、この失態をどう償えばいいんだろうか」
悔いるバルフィック公爵の体をそっと離したアリスは、彼の泣きそうに歪んだ顔を覗き込んだ。
「おじ様は、オレが兄様の妹だから親切だったのか?」
「アリス……?」
「兄様の妹だから、ディーの婚約者にしたのか?」
真剣な声音に、バルフィック公爵も真面目に答えなければならないと悟ったのか、情けなかった顔を引き締めた。
「あぁ、そうだ」
「……そうか」
微かに落胆を滲ませるアリスの頭をバルフィック公爵が、だが、と優しく撫でた。
「それも最初だけだ。おまえを実の娘のように可愛がっていたのは、私の紛れもない本心。本来なら、おまえに対してそんな感情を抱くなど不敬であるとわかっていたが、一緒に生活を共にし、日々成長していくおまえを見守っていて、なにも感じないはずがないだろう? ディアスと新しく家庭を築き、大切な家族が増えることをどんなに心待ちにしていたか……」
柔らかく微笑んだバルフィック公爵は、信じられないばかりに目を見開くアリスの額に、自分の額をこつん、と付き合わせた。
「私はだれよりもおまえがディアスの婚約者であることを望んでいる。――今でも、な」
「! おじ様……」
「陛下に刃向かうことになろうと、私は諦めない。おまえはもう、大切な家族の一員だからな。どれほど時間がかかろうと、おまえを取り戻してみせる。だから、今しばらく我慢をして欲しい」
「……っ」
「アリスちゃん!?」
思いも寄らなかった言葉にアリスが動揺していると、まだ寝間着姿の公爵夫人が階段を駆け下りてきた。よほど急いで来たのだろう。乱れた髪は背に流し、薄いガウンをまとったままであった。
化粧をしていない透明感のある美しい顔に、朱を走らせた公爵夫人は、固まっているアリスをぎゅうっと抱きしめた。追いやられた形のバルフィック公爵は、怒るでもなく、温かい眼差しで妻のことを見つめていた。
「どれほど胸を痛めていたか……っ。アリスちゃんだけじゃなくて、テイトちゃんまでいなくなって、心配していたのよ。……顔をよく見せて。あぁ、大変。頬をぶたれたの? うっすらと痣が……。かわいそうに。痛かったわね」
「おば様……」
涙を流す彼女の姿に、アリスは情けなく眉を下げた。
こんなことならば、もっと早くに無事を知らせていればよかった。
「どんなことがあろうと、貴女はわたくしの娘よ。あの方にだって、これだけは譲れないわ」
「オレは……、オレは、ここにいてもいいんだろうか」
不安そうに彼女を見つめると、もちろんと頷いてくれた。
「でも、ディーは……」
「ディアスちゃん?」
「ディーは、それでいいんだろうか」
思わず本音を漏らすと、公爵夫人は上品に笑った。
「ディアスちゃんは、貴女を心から愛しているわ。あの子は、小さい頃から何事にも器用でね、一見優しく取っつきやすく見えるけれど、だれにも心の内は覗かせないような子だったの。親であるわたくしだって、あの子がなにを考えているかわからなかったわ。でも、貴女と出会って、表情が豊かになった」
「ディーが……? そんな風にはみえなかった……」
「アリスちゃんの気持ちはどうなの?」
公爵夫人の問いかけに、アリスがハッとしたように目を見開いた。
(オレの、気持ち……?)
「一番大切なのはね、自分の気持ちよ」
公爵夫人は、とんっとアリスの胸を突いた。
「もし、ディアスちゃんを愛しているのなら、奪ってしまいなさいよ」
「なにを言っているんだ」
バルフィック公爵が呆れたように咎めるが、公爵夫人の目は本気だった。
「だって、あなた。わたくしの可愛い子供たちが、陛下に振り回されているのよ。かわいそうじゃない」
「その件については、私が後日陛下と話し合いを……」
「まぁ! そんなの遅いわ。アリスちゃんは、今日お披露目されるのよ? こんなに魅力的なアリスちゃんが一人だとわかったら、競争率が高くなるでしょ。今のうちに唾をつけておかないと」
「唾……。どこでそんな言葉を……」
バルフィック公爵は、苦虫を噛み潰したような顔で嘆息した。
「ねぇ、アリスちゃん。あんなにあの方はアリスちゃんに甘いんだもの。きっと、アリスちゃんがなにをしても怒らないわ。ふふっ、女でも、欲しい物は自分で取りに行かないとね」
ねっ、あなた、とバルフィック公爵に向かって片目を瞑った公爵夫人は、楽しげに瞳を輝かせていた。
コホンッと咳払いをしながらも照れているバルフィック公爵を見たアリスは、彼女もそうやって思いを遂げたのだとわかった。
(オレはディーを……)
どう思っているのだろう?
よくわからない。
だって……きっと。自分たちは近すぎたのだ。
当たり前のように傍にいて、ずっとこの関係が続くと思っていたから――。
離れる日が来ようとは思ってもみなかった。




