その四
「な――……っ、なんだ、こりゃ!?」
男の手からが盆が滑り落ちた。具材がほとんど入っていない汁が飛び散り、空になった器が地面に転がった。
藁が置かれただけのボロ小屋が、いつの間にか豪華になっていた。
足を汚さないように敷かれた絨毯。
藁の上は、高級な毛皮で覆われ、硝子の箱に入った蝋燭の灯りが、幻想的に揺らめいていた。
少しでも華やぎを演出させるためか、板が腐りかけた壁には刺繍の入った色とりどりの布がかかっていた。数ヶ所に生けられた摘みたての生花が、みずみずしい香りを放つ。
ほんの数時間前までは、人が生活できるような環境ではなかったはずと、男は驚愕をあらわにした。
「あァ――っ、ちょっ…、なにやってるんですか! せっかく、ボクが一生懸命そうじをしたっていうのに……っ」
テイトは文句を言いながら、呆然とする男を押しのけると片付けはじめた。
それを寝そべって、呑気に眺めていたアリスは、ふわぁっと欠伸を零した。
「驚かせたか? 悪いな。テイトが、衛生がどうたかとうるさくてな。少し、手を加えさせてもらった」
すっかりアリスも身綺麗になっていた。
新しい衣服に包み、汚れを落としたアリスは、テイトが持ってきた本に手を伸ばした。
「まったく、信じられないです。ご主人さまをこんな目に遭わせてっ。やっぱり、ボクがちゃんと管理しないと駄目ですね。あ、そこの人、もしかして、こんなまずそうなものをご主人さまに食べさせるつもりでした? あはは、冗談は顔だけにして下さいね。家畜だってもっとマシなものを食べてますよ。作り直して下さい」
にっこりと微笑んだテイトは、まだ事態が飲み込めていない様子の男に、汚れたモノを乗せた盆を押しつけた。
「は……? なんだ? 一体、なにが起こってやがる……」
「ああ、もぅっ、ごちゃごちゃうるさいですね! ボクは、テイト。そこにいらっしゃるご主人さまの小間使いです。ご主人さまのそばにいるからには、しっかりと待遇の向上を要求するので、そのつもりで」
ふふんと得意げに顎を持ち上げるが、男の視線は不審そうだった。
しかし、すぐに顔を寄せて、凄んだ。
「てめぇ、どっから入ってきやがった!?」
普通なら泣き出してしまいそうな強面を間近に見つめながらも、テイトは余裕の表情だった。丸太のような隆々とした筋肉を持った腕で掴みかかられたら、それそこ体重の軽いテイトの骨など一瞬で砕かれてしまいそうである。
「えー、口の利き方がなってないですね。ボクはちゃんと自己紹介したっていうのに。ま、誘拐犯に世の中の常識を求めるほうがどうかしてますけど――ご主人さまに対する無礼は、とうてい許せることじゃないですよね」
「なに、ごちゃご……っ」
ひゅっと男が息を呑んだ。
彼の太い首には、鋭い小刀が添えられていたのだ。
一瞬で、懐から小刀を男の首に持っていったテイトは、無邪気な顔で小首を傾げた。
「あっ、動かないで下さいね! ボクってば、いろいろ怒っているので、あなたの首を裂いてしまうかも。あはっ、これじゃ、オーラントさまのこととやかくいえないかな」
「このガキャ……ぅ」
「あーあ、だから動かないでって言ったのに」
テイトは笑みを深めた。
男の首からは、一筋の血が伝った。薄皮が少し、切れたようだ。
男は、ようやくテイトのまとう空気が普通の子供とは違うことに気づいたようだ。見開いた目からは、恐怖が透けて見えた。
人の命を奪うことになんの抵抗もなさそうな無邪気な目に、男の怯えた姿が映し出される。
「テイト、やめろ」
「もぅっ、ご主人さまは優しすぎます! ちょっとくらい痛めつけたほうが、世のため人のためですよ」
「オレは、お前の手を汚してほしくないだけだ」
「! ご主人さまっ」
ぱぁっと顔を輝かせたテイトは、小刀を素早くしまうと、アリスの元へと駆け寄った。
その際、男に向かって、変なマネはしないで下さいねと脅すことは忘れなかった。
さぁっと顔から血の気を引かせた男は、慌てたように飛び出ていった。
「こうしてみると、ここでの生活もなかなか快適だな」
「違いますよ、ご主人さま。ボクがいるから快適なんです」
得意げに首を振ったテイトに、アリスもあえて異論は唱えなかった。
アリスの傍にいることを決めたテイトの行動は早かった。男に気取られないよう、短時間で模様替えしてしまったのだから。
テイトはアリスがいない公爵家に戻るつもりはないらしく、アリスが快適に過ごせるよう世話をするつもりらしい。
アリスに続いてテイトまで行方をくらませたと気づいたら、バルフィック公爵家は再び混乱に陥るかもしれない。
(おば様が、寝込まなければいいが)
本に視線を落とし、文字を追っていたアリスは、がなり声に気づいて顔を上げた。
それを見計らったように、扉が勢いよく開いた。
「おおっ、なんということだ!」
芝居がかった大げさな仕草で、がくりと膝をついた青年は、頭を抱えた。
「私の計画がめちゃくちゃではないか!」
「ご主人さまぁ、あの人が首謀者ですか?」
「そうらしい。が、――裏はありそうだな」
アリスは、ほかに共犯者がいると睨んでいた。
彼が企てたにしては、お粗末すぎる。彼が何者であるか判明したときから、狙いはわかっていたのだから。
「法の裁きを下すのは簡単だが、なぁ、テイト」
「はい?」
「このオレを殺すでも、脅すでもなく、ただ閉じこめるだけだった彼の真の目的が気になるだろ?」
アリスは、にやりと口の端を持ち上げた。




