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   その三

「……バカな奴」


 固い決意を秘めて出て行ったテイトを見送ったアリスは、くすりと笑みを零した。

 多分、自分は、テイトに尽くしてもらうほどたいそうな身の上ではない。

 なのに、彼はちょっとアリスを過大評価しすぎている。


(かわいそうにな。主人がオレじゃなかったら……いや、あの時、自由を選んでたら、こんなに振り回されることもなく、もっと楽な道だって進めただろうに)


 テイトは頭の回転も早いし、気も利く。

 それに容姿も整っているから、子供のいない金持ち夫婦が養子に望んだかもしれない。

 もちろんそれは考えても仕方のないことだが、結果的に一人の人生を狂わせてしまったアリスにしたら、こんなに重いとは思わなかった。


(でもまあ、オレも覚悟を決めないとな)


 甘かったのはアリスのほう。

 テイトは、一生をアリスに捧げるつもりだったのに、アリスはその想いの強さに気づかなかった。恩返しのつもりで仕えているとしか捉えていなかったのだ。だから、道を正してやろうと思ったのに、それももう、おしまい。

 兄の元へ行くときは、身一つでと思っていたが、テイトも連れて行こう。

 きっと大変なことになるだろう。なにしろ、兄付きの使用人は、みな優秀な者たちばかりだ。公爵家みたいな内輪のノリとはまったく違う。苦労は絶えないと思うが、それを選んだのはテイト自身。今度はアリスも否定しようとは思わなかった。


(ディー……オレは、テイトのときのように勘違いしているのか? ……――わからないんだ)


 みんなの気持ちが。

 だから、ついつい穿った見方をしてしまう。

 自分に、自信が持てないのだ。

 兄様に言われたから自分に好意を示しているんじゃないかとか、そんなことばかり考えてしまう。


「……なぜだろう。胸が苦しいな」


 舞踏会が終われば、ディアスとはなんの関係もなくなる。

 ディアスを籠の中から放ってあげたかったアリスにしてみれば、それは喜ばしいことなのかもしれない。

 でも、心が軋むのだ。

 ディアスとカルロットが寄り添う姿を思い浮かべると、麗しい光景だというのに、かき消したくなる。もやもやとした、例えようのない不快感が、腹の底からはい上がってくるかのようだった。

 オレにしたように、愛の言葉を囁くのだろうか?

 それとももっと情熱的に?

 眉を寄せたアリスは、きつく目を閉じた。


『アリス、愛しているよ。僕の運命の人』

『アリスの瞳には、どんな宝玉だって敵わない。光に当たる角度によって、さまざまに色を変えていくから、つい引き込まれてしまうんだ』

『どうしたら、君の心を僕だけのモノにできるのかな。腕の中に閉じこめておけるのなら、すべてを投げ打ってもいいのに』


『はじめまして、アリスティナ。僕はディアス。ねぇ、アリスって呼んでもいい? そのほうが特別な感じがするでしょ?』


 甘く囁く低い声とは違う、幼い声に、アリスは思わず目を開けた。

 思えば、彼は初めて顔を合わせた頃から優しかった。

 兄様の異母妹であると認められ、貧民街から無理やり連れてこられたアリスは、毛を逆立て威嚇する子猫のように新しく暮らすことになった家族を見ていた。あのときのアリスの家族は、共に支え合い育った仲間だけだった。

 決して暮らしは楽ではないが、腹の底から笑って、馬鹿をやって、必死に生きることにもがいていた生活が好きだった。いきなり現れた兄という人物も、貴族も、すべてが敵に見えて、心を通わしたいとか微塵も思わなかった。

 戻りたかったのだ。

 仲間の元へ。

 だから頑なに貴族の色に染まることを拒んだ。

 でも、ディアスたちは、そんなアリスを受け入れてくれた。多分、それは兄様の妹だったからかもしれない。

 それが余計に、心にさざ波を立てさせた。

 彼らが無条件でくれる優しさも、愛も、すべては兄様に言われたからじゃないかって。

 本当は、自分のことを疎ましく思っているんじゃないか。

 そう、彼らの本心を聞くのが怖くなってしまったのは――。


(ディーたちを好きになったから)


 たとえ見せかけであろうと、ディアスたちの傍は居心地がよかった。

 バルフィック公爵がアリスをディアスの婚約者に選んだとき、ディアスに悪いと思いながらも拒否しなかったのは、その場所を手放したくなかったからだ。


「……バカは、オレのほうだ」


 すっと一筋の涙が頬を伝った。

 失いそうになって、はじめて大切なことに気づくなんて。



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