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第四章 さらわれた俺様姫 その一

 ――カタンッ

 静まり返った室内に、微かな物音が思いのほか響き渡った。

 眠りの浅かったアリスは、目をこすりながら半身を起こした。

 閉めたはずの窓が開いているのに気づいて、


「兄様か……?」


 そう問いかけるが、返事はない。

 風の悪戯かと窓へ近づいたアリスが、背後に人の気配を感じて振り返ろうとした刹那。


「……んっ」


 口と鼻を塞がれ、必死にもがくが、しだいに気が遠くなっていく。

 まるで、深い眠りへと誘うかのような強烈な睡魔に、四肢から力が抜けた。床へと落ちそうになったところを抱え上げられた。


(ディー……)


 アリスは、朦朧とする意識の中、無意識にディアスに助けを求めたのだった。


  ゴ――……ンッ ゴーンッ


 ――ああ、鐘だ。

 深い闇の中を漂っていたアリスは、ふっと意識が浮上するのを感じた。

 夜明けを告げる大聖堂の鐘の音が、重々しく空気を震わせていた。


「ぅ……ん」


 長い睫を揺らしながら、ゆっくりと持ち上げる。

 どこだ? ここは……。

 まずアリスの視界に入ったのは、朽ちた天井であった。むき出しの梁に、腐食の進んだ壁。自分の部屋じゃないのは一目瞭然だ。

 ずきずきとする頭を押さえながら起き上がると、わずかな陽の光しか入らない掘っ立て小屋のようなところにいることに気づいた。


(くそっ、背中も痛い)


 柔らかな寝台で眠ることに慣れていたアリスの体は、いつの間にか脆弱になっていたようだ。薄い藁の敷かれた簡素な寝台に、古びた毛布が一枚。これが真冬だったら凍死していたかもしれない。

 あれからどれくらい時間が経ったのだろう。


(みんな捜しているだろうな)


 まずい展開だ。

 兄の耳に入ったら、大変な事になる。

 その前に片を付けたいところだが、犯人の目的がまだわからない。

 アリスをさらって、得をする者、か……。


「心当たりが多すぎる」


 はぁ~とため息を吐いたアリスは、右の足首に違和感を覚え、そっと動かした。とたん、足首にはめられた枷と鎖が目に入り、ぐったりとその場に伏した。

 これでは逃げられない。

 さて、どうしたものか。

 こめかみに走る痛みが、鋭さを増すようだった。






「父上、どういうことですか!? アリスが行方不明だなんて……っ」


 王宮内にあるバルフィック公爵の執務室を訪れたディアスは、バンッと机を叩いた。

 本棚が並んだ薄暗い室内。

 昼間だというのに、蝋燭が灯っていた。

 ちらりとディアスを一瞥した公爵は、手元の羊皮紙に素早く署名をすると封筒に入れ、蝋を垂らすと、家紋の判子を押した。


「父上!」


 焦れたディアスが声を荒らげると、公爵は眉を潜めた。


「落ち着け、ディアス。今、捜索中だ」


 公爵になだめられたディアスは、剣呑な顔で舌打ちした。


「こんなことなら、無理やりにでも家に帰っていればよかった」

「過ぎたことを悔やんでも仕方ないだろ。あの方にも再三警護の甘さを指摘されながら、放置しておいた私に落ち度がある」

「もし、アリスになにか遭ったら……っ」


 決して、あの方は許さないだろう。

 ディアスは、続く言葉を呑み込んだ。

 地位や名誉を失うだけならばまだよい。それ以上に恐ろしいのは、婚約を白紙に戻されることだ。


(それだけは、阻止しないと)


 アリスを自分から奪う者は、たとえアリスの兄であろうと容赦はしない。

 一目惚れ、だったのだ。

 アリスに初めて会ったとき、なんて汚い格好だろうと思った。そこらにいる少年のような姿で、想像していた人物とはまるで違った。

 けれど、こんな子が、あの方の異母妹なのかと半信半疑に思ったのは一瞬だった。

 容姿に不釣り合いな、美しい輝きを放つ瞳。澄んだ、強い眼差しは、まるで夜空に輝く一等星のようで、吸い込まれるようだった。

 この美しい眼を曇らせてはいけないと子供ながらに感じたのだ。


(アリスは強い……きっと、僕がいなくても独りで立てる)


 初めて会ったときも、今も――。

 アリスは助けなど求めない。

 深窓の令嬢のように真綿にくるまれて、守られるだけの存在ではないのだ。

 彼女は自分の足で立ち、考え、進むことができる。


(みっともなくすがっているのは、僕のほうだ)


 婚約者の立場を利用して、アリスが自分の手の中から離れないよう必死につなぎ止めている。

 けれど。

 愛していると星の数ほど囁いても、アリスの心には決して届かないのだ。

 どれほど想いを伝えても、猫のようにするりと逃げていってしまう。

 そのたびに実感させられるのだ。アリスは、自分を愛してはいないのだと。

 それがディアスにはなによりも辛かった。


「――あの方には、これから事の経緯をお伝えするが、覚悟をしておけ」


 積み重なっていた束のひとつを手に取り、気難しい顔で目を通していた公爵が、静かに告げた。


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