その四
「まあ、アリスちゃんが!? 許せないわっ」
ふいに聞こえた大声に、螺旋階段をゆっくりと降りていたアリスは、足を止めた。
「少し、声を落としてくれ。屋敷中に響いてしまう」
「……ごめんなさい。でも、どういうことなの? アリスちゃんの醜聞を流している人がいるなんて」
しおらしく謝った公爵夫人は、腹立たしそうに言った。
(おじ様とおば様……?)
自分のことで、なにかよくないことでも起きたのだろうか。
穏やかではない会話に、アリスは、耳をそばだてながらそっと近づいた。
「困ったことになった。お披露目の前に、アリスの存在が不特定多数に知られるのはまずいな。あの方のお耳に入ったら、それこそ大事だ」
「アリスちゃんを貶めて、なにが目的なのかしら……。酷いわ。アリスちゃんが、ディアスちゃんの婚約者と知って、それでも中傷するということは、バルフィック公爵家を敵に回す覚悟があるということよね」
「あぁ……。だが、厄介なのは、無能な親族どもだ」
公爵は、重々しくため息を吐いた。
陛下の覚えもめでたい公爵とは違い、彼のすねにかじりつき、おこぼれをもらうしか能のない親族は、頭痛の種なのだろう。
アリスはまだ顔を合わせたことはないが、公爵の甥にあたる人物が屋敷に現れたときのことはよく覚えている。ディアスより五つも年上の彼は、まだ結婚もせず、放蕩の限りを尽くしているせいで、金銭感覚がまるでない。
息子の体たらくを公爵の弟は放っておいているらしいが、さすがに度重なる借金の肩代わりには辟易したようだ。
ついには仕送りを止められ、困った甥は、一年ほど前に公爵に泣きついて来たのだ。
もちろん、すげなく追い返したのだが、それに腹を立てたのか、大声で怒鳴り散らし、高価な壷や花瓶を割っていった。
飛び交う怒号と悲鳴は、部屋にいたアリスの耳にも届いたほどだ。
「あの人たちなら、アリスちゃんを切り捨てようとするわね」
「自分の利益にならないことには容赦ないからな。一族の当主であるわたしが命じれば、大半の者は抑えられるが、弟一家は難しい。裏でどんな手を使って、アリスを陥れようとするか……」
「嘆いていてもはじまらないわ。先手必勝! 早めに手を打ちましょう。アリスちゃんが傷つくようなことがあってはならないもの」
「そうだな」
二人の声が近づいてくるのを感じたアリスは、見つからないようゆっくりと来た道を戻っていった。
(おじ様も、おば様も、ほんとに優しすぎるな。オレにはもったいないくらいだ)
アリスは、くしゃりと顔を歪ませた。
可哀想に。二人とも、厄介事ばかり押しつけられて。
アリスがいなければ、もっと平穏に過ごせていただろうに。
「ご主人さま、どちらへお出かけですか? 一時間後には、ウェルチン先生による礼儀作法の指導、その後は舞踏の練習に、言葉遣いの勉強と予定はつまっているんですよ」
部屋の前で、腰に手を当てて立つテイトの姿を目に入れたアリスは、あちゃ~と頭に手をやった。息抜きにと、こっそり屋敷を抜け出そうとしていたのがばれてしまった。
「もう、戻ったのか」
「オーラントさまには、ちゃんとお手紙を届けましたよ。はい、返信です」
「ありがとう」
近寄ったアリスは、手紙を受け取ろうとしたが、テイトはぱっと後ろに隠してしまう。
「テイト?」
「まだ、ボクは怒っているんですよ!」
むぅっと頬を膨らませるテイトは、年相応のようでなんとも心が和んだ。
(ああ、そうだ。まだ十二歳だったな)
そんな素振りは微塵も見せないが、親に甘えたい年頃だろう。
アリスと同じく両親の顔を見ずに育ったというテイトは、もしかしたらアリス以上に大人びているのかもしれない。
アリスの小間使いに相応しく在ろうと、どうしても背伸びをしてしまいがちだから、こういう子供っぽい態度が可愛くて仕方ないのだ。
「なんだ、まだ継続してたのか。お前はいつも通り世話をしてくれたから、機嫌は直ったものだと」
「仕事はちゃんとやりますっ。じゃないと、ご主人さまに捨てられちゃいますからね」
皮肉を言うテイトに、アリスは降参とばかりに両手を挙げた。
「十日も前のことをネチネチと……。男のくせに細かいな」
「な……っ。ボクがどれくらい悩んだと! ご主人さまに捨てられるんだって、枕を涙で濡らし、夜も眠れなかったのに……。なのに、ご主人さまは、反省した様子もなくて、ボクに用事をなんでもかんでも押しつけてくるし……」
うぅ~とテイトの大きな目が潤み、雫が頬を伝った。
「ぅ…、テイト……悪かったよ」
さすがに罪悪感を覚えたアリスは、袖でテイトの涙を拭ってやると、頭をポンポンと叩いた。
(つい、この間までオレより低かったのにな)
男の子の成長は早い。
今では目線が少し上にあるのだから。
まるで我が子の成長を見守っているようだと、感慨深く思っていると、涙の止まったテイトが顔を真っ赤にしていた。
「な、…なっ、なにをするんですか!」
「なんだ、照れてるのか?」
くくっと意地悪く喉の奥で笑うと、魚のようにぱくぱくと口を動かしたテイトが、手紙をアリスに押しつけて、廊下を走っていった。
「可愛い奴だな」
アリスは顔を綻ばせると、受け取った手紙を頭上で透かした。
しっかりと封蝋のされたそれは、几帳面なディアスらしい。微かに漂う香水は、彼のものだろう。草原のように清々しい匂いが、アリスの鼻をくすぐった。
(懐かしいと感じるほど、離れているわけじゃないんだがな)
外へ出るのは諦め、部屋へと戻ったアリスは、長いすに行儀悪く寝そべった。
アリスの説教がそうとう堪えたようで、ディアスはあれから家に戻って来なかった。もともと宿舎で寝泊まりするほうが普通だったから、休日ともなれば家に戻ってくるディアスのほうが変なのだ。
それでもアリスと会えないのは寂しいらしく、日に何度もこうして熱烈な手紙を書いて寄越した。
一日一回は、アリスも返事をしたためるのだが、アリスとてそう暇ではない。披露目の日に向け、覚えることは山ほどあった。
(会いたい、な……。会って、話をしたい)
アリスは、手紙をぎゅっと胸に抱きしめると、ゆっくりと目を閉じた。
今頃、ディアスはなにをしているだろう?
披露目の日には、ディアスとの婚約も正式に発表するという。
ディアスは、それをどう感じているのだろ?
愛を囁く言葉が羅列された手紙からは、本心を読み解くのは難しい。
不安、なのだ。
なにもかもが。
その瞬間が刻々と近づくにつれ、息苦しさが増すようだった。
――もう、逃げられない。
その現実から今だけは、目を逸らしたかった。




