第一章 俺様姫と麗しき婚約者 その一
「ま、待って下さいよ~~っ! ご主人さまっ」
声変わり前の少し高めの声が、焦りを含ませながら追ってくる。
しかし、不機嫌そうに顔をしかめていたアリスは、聞こえてくる泣き言を無視した。可愛い小間使いのために立ち止まる優しさもみせず、混み出した大通りを大急ぎで走り抜けた。
昼時前なせいか、客寄せをする店主たちの威勢の良いかけ声があちこちからあがる。
「よぉ、アリス! 今日は買ってかないのか?」
「また今度な」
顔見知りの店主に軽く手を振った。
洗練された味付けで、見た目も凝った料理も美味しいが、時折、屋台の大味が恋しくなるときがある。濃いめのタレや揚げたてのパリッとした衣、焦げすぎた焼き鳥……。庶民ならではの気軽に食べられるものがアリスは大好きだった。
中でも、彼が作るラントゥは一番のお気に入りだ。薄く伸ばした米粉の生地を軽く焼いて、その上に蒸し鶏と新鮮な野菜をのっけて、甘辛いタレをたっぷりとかける。くるっと丸めれば、歩きながら手軽に食べれるし、その日によって野菜の種類が違うから毎日食べても飽きない。
お腹空いたな……。
ラントゥの味を思い出し、ごくりと唾を呑み込んだアリスは、つられて、くぅっと鳴るお腹を押さえた。
誘惑するかのように、芳ばしい匂いが鼻をくすぐった。食欲をそそる屋台が軒を連ね、アリスの視線を奪う。だが、今日はのんきに寄り道などしている暇はない。
「お…っと」
よそ見をしていたアリスは、足元の水たまりに気づくのが遅れた。ぎりぎりのところで、軽やかに飛び越える。その拍子に、頭上で一つに束ねた白金色の髪が、ふわりと動いた。さらさらと音を立てて零れ落ちそうな髪は、太陽の光に当たって、きらきらと輝いた。
「ごしゅ……うきゃ!」
どうやら、追いかけてきた小間使いは水たまりを踏んだらしい。ふぇぇん、と泣きだしそうな声が届いた。
この道は、水はけがよくないのが難点だ。もっとも、裏道などは日陰っているせいか、もっとぬかるんでいるからマシなほうだろう。
ここ数日続いた大雨が嘘だったような快晴に恵まれ、大通りを闊歩する人たちの顔は陽気だった。
不機嫌そうな面持ちのアリスとは正反対だ。
「……まったく、なんでオレがおつかいなど」
可愛らしくむぅっと唇を尖らせたアリスは、丘の上に悠々とそびえ立つ城を見上げ、ため息を吐いた。緑がかった灰色の大きな双眸に、面白くなさそうな色が宿る。
(ディーが、忘れ物をするからいけないんだ)
アリスは、美しい婚約者の顔を思い浮かべて、眉間に寄った皺を深くさせた。
本当は、城になんて行きたくない。
けれど、自分は居候の身。婚約者であるディアスの母親に頼まれれば、嫌とは言えなかった。
愚痴りたいのを堪え、ゆるやかな斜面を駆け上がっていく。
レイウォルバーノ国の首都であるトリンカ王領は、天につくほど高い塀でぐるりと囲まれ、鉄壁の要塞都市として周辺諸国に名をはせている。王領への出入りが許されているのは、南にある城門のみだ。
その昔、隣国ダルバート国と領地を巡って諍い事が起きたとき、近隣の街や村が次々と武力によって制圧される中、トリンカ王領は持ちこたえたという。強者揃いで知られたダルバート国の兵ですら、堅牢な城門を破ることができなかったのだ。苛立つ彼らに、南北東西に置かれた門塔からくり出される攻撃は追い打ちとなり、見事、勝利の狼煙を上げるまでそう時間はかからなかったという。
以後、今日に至るまで、その不敗神話が覆されることはない。
「――待て、入城許可証を見せろ」
ようやく城の入口へとたどり着いたアリスに、鋭い槍を持った門番が近づいてきた。
アリスの格好を見て不審そうな顔をしている強面の門番。
どうやら、こざっぱりとした男物の服に身を包むアリスを平民だと勘違いしているらしい。
(やっぱ、このままってマズかったかな。けど、いつもこれだし……)
公爵家の紋章が入った馬車にでも乗っていたら、入城許可証など求められなかったかもしれない。自由に駆け回るのが好きなアリスは、いつも歩いて来てしまうのだ。それが令嬢らしからぬ振る舞いであることはわかっていたが、顔なじみの門番たちは苦笑を一つ零すだけで通してくれた。
しかし、どうやら目の前の門番は、アリスのことを知らないようだ。
困ったなと頬をかく。
許可証を見せる素振りもないアリスに、門番の顔がどんどん険しくなる。
「おいっ、聞こえないのか!? 許可証を見せろと、」
「ぶ、無礼ですよ!」
ようやく追いついたらしい小間使いが、肩で息をしながら門番の声を遮った。
「テイト、遅かったな」
振り向いたアリスがにやりと笑うと、まだあどけない顔立ちの少年は目尻をつり上げた。毛先がぴょんぴょんと外ハネした赤茶髪に、茶色のくりくりとした目が子リスのように可愛らしい。
「あ、アナタという方は――ッ! ボクを置いていくなんてっ。アナタになにかあったら、叱られるのはボクなんですよ!?」
「ああ、悪かったって」
ぽんぽんと少しだけ目線の高いテイトの頭を叩くと、ぅっと言葉を呑み込んだテイトが肩を落として大人しくなった。
「もぅ、いいです」
頬を赤らめ、ぷいっと横を向くテイトを見ていると、まだ十二歳なんだなとおかしく思える。
見た目がよいせいか、男色家に売られそうになっていたところをアリスがディアスにお願いして買い取ったのだ。好きに生きればいいと言ったはずなのに、なぜかテイトは小間使いとしてアリスに仕える道を選んでしまった。
以来、どこへ行くにもテイトが一緒だ。
アリスとテイトがほのぼのとした空気を醸し出していると、無視された形の門番がこめかみに青筋を立てた。
「――ンのっ野郎!」
「はいはい~、そう怒りなさんな」
「! アロウさん」
パンッと手を叩いて割って入ってきたのは、どこかのんびりとした口調の青年であった。氷翼騎士団の証である藍色のマントをまとった青年は、気まずそうに視線を逸らす門番を一瞥すると片眉を上げた。
「おやおや、新入りさんかな? まったく、上の教育がなってないな。アリスティナ嬢の顔も知らないなんて。こちらのお嬢さんに許可証なんて必要ないんだよ。なんたって、あの<蒼き稲妻>の大切な婚約者殿だからね。敬意を払って接しないと、怖い怖い近衛兵殿に酷い目に遭わされるよ~」
「大げさな」
アリスは呆れたように言った。
「あれ? 信じてない? 本当だけどなぁ」
困ったと肩をすくめた青年は、顔から血の気を引かせて凍りつく門番を放って、ちょいちょいとアリスたちを手招いた。鉄製門扉の横に備え付けられた、兵士たちの出入り用の小さな扉のほうから中へ入れてくれるようだ。
「オーラント殿に用事? それとも、会えなくて、寂しくなったのかな?」
笑みを称えた青年は、からかい混じりに言った。
――オーラント・ディアス・オル・サンセット。
それが、アリスの婚約者の正式な名前だ。
二つ目の名前を気軽に呼べるのは、アリスのように本人に許可された者だけである。
「むっ、そんなわけあるか! ディーなら飽きるほど顔を合わせてるわいっ」
「そうですよ~、アロウさん。ご主人さまとオーラントさまは、それはそれは仲睦まじく……ええ、たまに喧嘩を……いえ、ご主人さまのほうがオーラントさまにいいようにあしらわれておいでですけど。まあ、とにかく、ご主人さまがオーラントさまを恋しがるなんて、天変地異が起こってもあり得ないことですね! ボク、断言できますっ……いたっ」
にこぉっと無邪気な笑みを浮かべたテイトは、アリスに叩かれて頭を押さえた。
「暴力反対ですぅぅぅ。もぅ、ご主人さまは暴力的なんですから!」
痛そうにうるうると瞳を潤ませる姿は、まるで子犬のように愛らしい。怒ってみせても、迫力がまったくないのだ。
「あはは、相変わらず仲がいいね。羨ましい限りだ」
「あ、アロウさんはダメですよぉ。女性と見れば口説きまくるアロウさんとご主人さまが親密だったってオーラントさまの耳にでも入ったら、ボク、殺されちゃいます」
「それは残念だ。おれもオーラント殿は敵に回したくないしね」
はははっと爽やかに笑い合う二人だったが、目の奥はちっとも笑っていない。
腹の底を探り合うような微妙な距離感がある彼らに、アリスはやれやれとばかりに嘆息した。
「お前たち……毎度毎度同じやりとりをして飽きないか?」
「いやですね~、ご主人さま。周囲を飛び回るうるさいハエは、踏みつぶしておかないと」
「相変わらず可愛くないことを言うね、アリスティナ嬢の下僕くんは。せっかく顔は可愛いのに。どうせなら、きみが女装でもすれば愉しいのにね」
「あいにくとボクは、アロウさんと違って、特殊な趣味は持ち合わせておりませんので」
「いい加減にしろ、テイト。オレはディーに用事があるんだから。さっさと渡して……」
いつまで茶番を見せるつもりかと口を挟んだアリスは、はたと青年を見上げた。いい考えが浮かんだとばかりに、目が輝く。
「いいところにいたな、アロウ。暇ならば頼まれ事をしてくれないか? なに、ディーにこの小包を渡してくれるだけでいい」
アリスは、手に提げていた包みをずいっと青年に突き出した。
期待に胸を躍らせながら、じぃっと青年を見つめた。
ぅっと息を呑んだ青年は、困ったように長めの前髪をかき上げ、首を緩く振った。
「そんな澄み切った綺麗な眼でお願いされたら、なんでも叶えてあげたくなっちゃうけど、それだけはダメだね。おれも命は惜しいし。出不精なアリスティナ嬢が、せっかく城まで訪ねてきてくれたというのに、オーラント殿に引き合わせず帰したと知れたら、おれが殺されちゃう。だから頑張って、オーラント殿の元へ行ってね」
「……チッ。役立たずめ」
舌打ちしたアリスは、不満そうに口角を下げると腕を下げた。
「テイト、行くぞ」
「はいっ、ご主人さまっ」
もう用はないとばかりに身を翻し、裏庭へ向かって歩きだそうとしたアリスは、ふと足を止めると振り返った。
にこにこと笑顔で手を振っていた青年を睨みつけたアリスは、ぶっきらぼうに言い放った。
「さっきは助かった。礼を言う。ありがとう」
照れを隠すようにふんと鼻を鳴らしたアリスは、今度こそ足早に去っていった。
残された青年が、ほんの少しだけ顔を赤らめ、苦笑しているとも知らず。
「ほんっと、不意打ちだよねぇ。可愛いんだから」