今がその時だ、と誰かが言った 2
*
悠太はリリナに抱きつく。
密着さえすれば魔法の「磁場」は同時に働くが、腕を組む程度では駄目なのだ。
だから悠太は胸に触らないように気をつけて、両腕をリリナの腰に回す。極度の緊張は彼の下半身に血流を送り込むことを妨げた。なんともありがたい話だ。
優しい花の香りがする。
おそらくは彼と同じシャンプーを使っているはずなのに、なぜこんな甘い香りがするのだろうか。
心臓は早鐘を打つ。
「緊張しているな」
リリナは口の端に笑みを浮かべて後ろの悠太を見た。
「まあ、簡単な仕事だ。少し『ひねって』やればいいのさ」
その言葉に嘘はない。
嘘はないが誇張もある。
これから彼女たち二人が向かうのは「帰還社」。フォーダーンから堕ちてきた者たちが作り上げた結社である。「魔法」を使える者もいるだろう。魔法装具使用者ならば確実に二人、存在している。
彼女のアドバンテージは魔法に関しては自分ほど理解している者が地上にいるはずがない、ということ。そして依然として魔法力が充分にあることだ。何よりの隠し玉は背中の少年。
きっと上手くいく。
それは計算にもとづく確信なのか、こうあったらいいという予断なのか――。
午前一時一八分。
夜気を切り裂いて、少女と少年は、飛んだ。
3
「帰還社」
その名の通りフォーダーンへの帰還を目的とする結社である。
全世界で三百以上の支部があり、その中でも東京支部は上から数えて五番以内に入るだろう。現在はNPO法人として、難民の帰還支援をしている。
というのは無論表の顔だ。
フォーダーンから「地上堕ち」する者は、基本的には流刑だと思えばよい。だが、流刑ではあってもいくつかの財産も持ち出しは許されている。金銀財宝はフォーダーンよりも地上の方が高く売れた。「魔法の道具」は魔力の補充が出来なければ使い捨てであるが、「魔法装具」は体力のある限り使えるから、二十世紀初頭までは比肩する技術は存在しなかった。
そうしてほとんどの「地上堕ち」した人間は地上でも成功を収めた。だが、成功すればするほどに焦がれるのが郷愁である。
かくして自然発生的に互助会が生まれ、「地上」での生活のサポートを行い、そしていつの日にかフォーダーンへの帰還を果たす、それが「帰還社」の目的である。
しかし長い永い時を経て、いつしか「帰還社」は変質していた。
それは何年かに一度、研究目的でやってくる「フォーダーン」からの来訪者には気付かないような変質だ。
だからこそ、リリナも「魔術師協会」のツテを用いて利用した。
そして利用されようとしたのだ。
地上に来た当日、きな臭いものを感じ取った彼女はショックを与えてみた。それによる反応を以って試金石にしようとしたのだ。
ショック。つまり火傷しない程度に冷めたコーヒーをぶっかけてみたのだ。そうしたら、出てきたのは拳銃であった。幸いリリナの知識の範囲に拳銃はあるから、その物騒なものを保持しているクドイ顔の男の手を砕いてやった。
そうしたところ出てきたのが魔法装具を身に着けた二人組だったのである。
その話を探索初日の道すがら聞いた悠太は乾いた笑い声しか出てこなかった。少年が笑ったのはおもにリリナの無茶苦茶さについてだが、実際はこの国において拳銃が出てきたことに驚くべきだろう。
いうまでもなく日本国において拳銃は違法だ。たとえヤクザであっても、所有はしていても所持している人間などいない。見つかったらあっさり執行猶予なしの有罪になるからだ。なのにその男はいきなり懐から拳銃を抜きだした。それは異常である。使う気満々であったということだから。
逆を言えば、リリナがコーヒーをかけていなければどうなっていたのか――。正確を答えられる者はいないであろう。
だが十三歳の少年にそのことの危険性をしっかり考えるべきだというの酷だろう。日本生まれ、日本育ちの彼にとって、日常と背中合わせの薄皮の裏側に、暴力と死が潜んでいるなど、想像の埒外であった。
……いや、想像の埒外であったのは少年だけではない。
帰還社の結社員であり、「特任執行係」係官である羽生秋人にとってもコトは同じだ。
彼はリリンボン家の令嬢がこの場所、帰還社東京本部(バブルの際に土地を転がして神奈川県に移転してきたが、名称は混乱を避けるためにそのままである。)を襲撃しようとしている。その情報を彼の上司である室長に連絡した。
右手の人差し指と拇指中手骨を砕かれた室長は唸るように獰猛な声で「分かった」とだけ答えると、電話を切った。報復を考えているのではないか、と考えると秋人は胸の内に黒雲が去来するのを自覚せずにはいられなかったが、まあ、ダンディをもって任じている室長様だ。エロマンガみたいなことはしまい。
秋人が首を振っていると、大あくびをしながら駿介が「地下資料庫」の鍵を持って来た。扉に錠前は二つ、それぞれ違う鍵を用いて開ける。
この扉のドアクローザーはここ一年ほど調子が悪く、ものすごい勢いで扉を閉めるから、秋人は手で勢いを殺してから、そっと閉めた。
駿介が電気のスイッチをつける。蛍光灯の明かりの下、二坪ほどの部屋にところ狭しと据え置かれたスチール製の戸棚から、二人はそれぞれの魔法装具を取り出した。
真鍮製のスキー靴。
一言で言い表せばそのようにしか言えない駿介の「バネ脚」は、しかしその名に反してバネの類は一切存在しない。名の由来はヴィクトリア朝ロンドンの都市伝説である「バネ足ジャック」からである。
あるいはこの魔法装具こそが当の「ジャック」が着用していたという説もあるが、そこのところの真偽は定かではない。ま、眉唾だ。
魔法装具に足を通す。現代のスキー靴とは違い、駿介はわざわざ自身の指でネジを締めて足を固定する。一見すると脛骨を痛めつける拷問器具のような絵面ではあるが、履いてしまえばしごく快適である。
足裏、脛にぴたりと張り付き、靴底は微妙に変形してその地形に最適な形を作る。それだけではない、脳の運動野を刺激し、更には各種のセンサーを感覚器にリンクすることで、目を閉じたままでも風速三十メートル、高さ百メートルでの綱渡りを難なくこなす。
秋人の呪霊刀はさらに単純だ。皮革製の略刀帯(旧軍で用いられた刀を佩くための帯)を締め、陶磁器のように白く輝く刀を差せばそれで出来上がりだ。手首部に埋められている金属の光沢を放つ三角形の素子が薄く発光した。「呪霊刀・無限式」とコネクティングが完了した証である。
駿介の頬にも薄く光の筋が浮かび上がる。ある種の部族が成人の儀式の際にする黥のような紋章を描くと、ふっと消え去る。彼の「素子」はバネ脚に覆われて見えない位置にある。駿介は腰のホルスターにテーザー銃を突っ込んだ。
二人は既にケブラー製の防弾チョッキを着用しているからとりあえずこれで準備は終わりだ。むしろ重武装と言ってもいいが、
「今度はお嬢さんも本気だろうから、厄介だなあ」
とつい愚痴が出る。
「室長に頼んで有給休暇もらう?」
駿介の提案に対して「実に夢のある話だ」、と苦笑して秋人は屈むと靴のヒモを確認する。見た目は何の変哲もない、くるぶしまで覆う革の編上靴だが、爪先を複合樹脂で防御してあるし、中敷きには特殊な装備が施されている。これで人の頭を蹴れば……無論、怪我では済まないことだってあるだろう。
「はい、オッケー」
駿介がことさら明るく準備が完了したことを告げた。出っ張った腹の防弾チョッキのポケットから魔法のように菓子が出てくる。
「おひとついかが?」
そう言ってハリボーの〈ゴールドベア〉を三つほど秋人の手の上に振り落とす。可愛らしいクマちゃん型の硬いグミを奥歯でグシグシ噛みしめると、秋人は肩の力がすっと抜けるのを感じた。果汁の味と外国製品特有の強い香りが鼻に抜ける。
「さて、じゃあ、いっちょやりますか」
4
午前一時三十分。
リリナはその姿を認めた。
腰間に白い刀を差した男だ。
「落とす」
少女はそう言うと確認も取らず、「帰還社」の隣のビル(物干し台がいくつも置いてあった)に悠太を放り投げる。悠太は声にならない悲鳴を上げる。速度は十分に殺してあったが、子供のころ半年だけ学んだ柔道の受け身が意外なところで役に立った。
顔面を物干し台で強打するのを何とか避けた悠太は、立ち上がって隣の建物の様子を見る。
そこでは――、すでに戦いが、始まっていた。
*
急上昇。
リリナは冷徹な瞳で剣を構える男を見る。もはや単なる障害物を見る目だった。
右手をさっと振った。
そのしなやかな指先を起点に、円錐状に何かが放たれる。
キラキラと月光を受けて降り注ぐそれを秋人は呪霊刀であるいは捌き、あるいは打ち落とし、あるいは避けた。
それ、
今またリリナが左手で播いたものだ。
「厄介な!」
秋人は思わず愚痴をこぼす。
それは、釘だった。
安物の、細い丸釘だ。しかし数と速度は脅威以外の何物でもない。ズボズボと何の抵抗も感じさせずにコンクリートにめりこんでいく。ケブラーの防弾チョッキは「切る」にはある程度の抵抗もあるが、「刺す」には弱い。おそらくやすやすと貫き通すであろう。
冗談じゃないな。
リリナは三つ目、四つ目の箱を開ける。一〇〇円ショップで売られている箱だった。まさか、そんなもんでミンチになるとか、願い下げだぜ。
次の瞬間 呪霊刀がばっと「咲い」た。傘のように。
まさに傘だ。しかし十分な靱性を持つそれは薄いが立派な盾である。
釘の豪雨が魔法の傘盾に降り注ぐ。新品の釘はリリナの指揮のもと、満月の光を反射すると整然と襲い掛かる。それはまるで白銀の大蛇を思わせた。
釘同士がぶつかり合う音、コンクリートを削る音、まるで騒音のオーケストラであった。
少女の白くて細い指先が指揮者のように振られる。
ざっ、とその蛇が隊伍を崩す。次の瞬間、蛇の頭部は三つに増えた。増えて傘盾を超えると上と左右から同時に襲い来る。
まさに秋人を飲み込まんとしたその瞬間に、
ざあっと金属の蛇は金属の驟雨へとその属性を変化させる。
少女は呆然としている。まさか、という表情だ。地上から飛来した衝撃に、魔法を使う集中を切らしたのである。
「やったぜ」
秋人は冷や汗をかきかき親指を立てる。
眼下には、Vサインする駿介がいた。
彼の足元にはいくつものラグビーボール。
高名な少年探偵はサッカーボールを用いて犯人を制圧しているが、球状の物体はどうしても空気抵抗の関係から「狙撃」には向かない。五階建ての「帰還社」ビル、その屋上からさらに二〇メートルは高所に位置取ったリリナを狙うのには、四〇メートルの距離からたった五・六メートルのゴールポストを狙えるラグビーの楕円が必要である。
そして「バネ脚」ならばそのラグビーボールに人智を超えた威力と正確さを付与することもまた容易い。
空中にあった少女の肉体は数メートル吹っ飛んだ。
釘の群体を指揮していた魔法が途切れる。
魔法障壁を常時展開していたおかげで無傷ではあるが、その分被弾範囲、いわゆる「当たり判定」も大きい。さらにもう一発。
中空でとんぼ返りして避けるリリナの「障壁」をかすめてボールが触れる。都会の夜空へと素晴らしい速度で吹っ飛んでいくラグビーボールは、ある意味では空を舞う少女よりもシュルレアルな光景であったと言えるだろう。
しかしかすめただけでも空中での動作には大いなる不安定が襲う。空を舞うということはどうしたって無理をしているのだから当然だ。
「くっ」
リリナは覚えず苦鳴をあげると、障壁を消す。直撃して、高度を下げた途端にバネ脚が仕掛けてきたらたまらない。少女は高度をきちんと取り、障壁に使っていた分の魔法を飛行速度に乗せる。
速い。
飛燕のそれだ。狙撃など思いもよらないだろう。銃も含めて飛び道具では捉えることは難しい。
再びリリナの魔法によって生を与えられた釘が、尖端を上にして屹立する。そしてそのまま袱紗で包み込むように四方から秋人へ殺到した。
ハエトリグサに飲み込まれる蟲のようなものだ。逃れるすべはない。
かと思いきや。
秋人の肉体はグン、と凄まじい勢いで上昇する。釘による包囲殲滅が終了する寸毫の間に、かろうじて秋人はその顎を逃れることに成功した。
人間にできる速度ではない。
呪霊刀・無限式。その伸縮力を用いたのだ。
伸縮?ではそのもう一端はどこへ?
屋上のさらに上、そこにはただ一人しかいない。
リリナだ。
「ぐうーーーッ!」
少女は美しい顔をゆがませて足首に絡まる呪霊刀と、その先にいる秋人の重みに耐えていた。魔法の鎧がなければ股関節か足首か、いずれかの脱臼は免れなかったであろう。鎧組打ちの際に狙われるのは関節部である。そこの防御は完璧であった。
しかしいつの間に捕らえられたのか?
答えは簡単。秋人は「蜘蛛の巣」を用いたのである。帰還社のビルは周りに比べて頭一つ以上低い。その高低差を利用して、呪霊刀で網を作っていたのだ。あとは麗しき蝶がかかるのを、――いや、この場合肉食の蜂に例えるべきか。美しいが恐ろしく獰猛で危険な存在として。
秋人に駿介、二人とも決して甘くは見ていない。認識を間違えれば一刺しで殺される。この少女はそのような存在なのだ。
少女の直下、一メートルにまで迫った秋人はそこでしかし一旦攻めあぐねる。
彼女の肉体が何らかの魔法で強化されているのは明白だ。先般の戦闘のように絞め落とすといった攻撃が通じるだろうか?難しいだろう。ではどうする?呪霊刀ならば、魔法の防御を切り裂ける。切り裂いて?
――手足の一、二本も切り落とせば静かになるだろう。
秋人はそう思った。思ってから、その思考におのずからぞっとする。内容にではない、今思考したのは果たして自分なのか、それとも「呪霊刀」の合理的な計算の結果なのか、あやふやになったからだ。
――おいおい、冗談じゃない。
殺すつもりで来ている相手だ、こちらもそのつもりで相手をしなければならない。その理屈は正しい。まったく正しい。だが――、
子供の手足を切り取るなんざ、まっぴら御免だよ。
チッと唾を吐いて思い直す。
可愛いお顔に傷の一本も着ければこのお嬢さんの戦意も萎えるだろう。――おそらく、多分。
秋人はその策でイケる、と自分を納得させた。
だがその一瞬の逡巡が命取りだ。
呪霊刀がほぼ勝手に動いた。
刀身に凄まじい衝撃。
「!」
鈍く、だが軽い切断音。呪霊刀が飛来した物体を両断したのだ。
なんだ?
狙撃?
伏兵?
想像を絶した速度だった。手応えからすればかなり硬質の球体だ。当たったその場所の骨が砕け肉が裂ける。
キン。
その次の瞬間呪霊刀・無限式の糸が切られた。いかな魔法の産物とはいえ、蜘蛛の糸程度の細さにまでなっているのだ。一流の魔法使いであるならば断つのはたやすい。
秋人はコンクリートとキスするより先に、隣のビルの壁に無限式のアンカーを撃ち込み、落下するのを防ぐと同時に距離を保つ。
壁に足をつけて、ほぼ地面と直角になった秋人が見据えた先には、ほの緑の何かが跳躍していた。
――なんだ、あれは?
月があるとはいえ、夜だ。本来ならば見えにくいはずだが、やけに明瞭だった。それもそのはず、それは発光している。
だから顔も見えた。
あれは!と秋人は認識する。あれは!あのガキじゃあないか。
半透明なライムグリーンに輝く装甲に身を包んだ、それは高橋悠太であった。