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エピローグ、あるいはプロローグに代えて。

「ありがとうございました!」

 高橋悠太はそう言うとジムをあとにした。

 十二月だというのに人いきれでむんむんと熱く、汗臭い、キックボクシングと総合格闘技のジムだ。


「ユータくん今日で最後か」

「秋のアマ大会じゃ判定二回戦負け、だけど負けた相手はそのまま優勝してプロに転向だろ? このまま終わりじゃ惜しいな」

「大学受かったら、また来てほしーけどねえ。まあ、どうなるやら」

「進学で辞める奴って割といるからなあ、日本の総合格闘技のためにも辞めないでほしいよ」

「そういやあ、あいつ古流柔術もやってるんだって?」

「ああ、だからヘンな動きが混じるんだ。たまに面白いやり方で一本取られるのはそれでか」

「ラグビーでも関東大会に出た高校のスタメンだろ? 大学も国立に一本だっていうし、いやあ、大したもんですなあ」

「大したもんだ」


 古参のトレーナーと、総合格闘技の中軽量級国内一位はそのような会話を交わすと、またサンドバック打ちに戻った。



          *


 

 息が白くなる。

 悠太は肉まんと牛乳の500ミリ紙パックを高速で摂取すると、予備校への道を急いだ。

 コンパクトにいろいろなものがまとまった町田という街は、徒歩でどこへでも行けるのがいいところである。

 そうだ、と思い直して胸ポケットからイヤホンをはめ、そのまま続きを再生する。


 美しい歌声が流れた。

「ドント・セイヴ・イット・オール・フォー・クリスマス・デイ」。セリーヌ・ディオンのカヴァー曲。

 先月発売されたクリスマスアルバムだ。全世界で500万ダウンロードされたそうである。

 本当に大したものだ。

 この女性とともに旅をしたことがあるなどと、自分でも信じられない。


 女性の名前はグリーエルナーサ・ファル・グ・エルメタイン。


 彼女が「期待の新星」としていきなりハリウッド大作の主人公として、銀幕デビューすると聞いて腰を抜かしたのが中学3年の時だ。

 それからあれよあれよという間に世界の人気女優の仲間入りを果たしたのは、むしろ当然の成り行きであると悠太は思う。

 あれから一度だけ、悠太はエルメタインと会ったことがある。全世界配信テレビシリーズのジャパンプレミア試写会に呼ばれたのだ。

 レズビアンであることを公言している(悠太は何となく驚きもしなかった)エルメタインが、日本の一男子高校生をハグしたというのは当時それなりに話題にもなったが、「とんでもない幸運の持ち主」でしかないとされ、三日後には忘れ去られた。


 だがその夜、彼はエルメタインのホテルに呼ばれてからくりを教えられたのだ。


『帰還社、という秘密結社を束ねるのに一年かかりました。まあいろいろありましたが、それほどの苦労はなかったですよ』

 と、かつての姫君は半裸の「恋人」を愛撫しながら嫣然と笑ったものだ。

 『帰還社』の中にはハリウッドの中枢に深くかかわっている部署もあった。そのツテで彼女は敏腕プロデューサーの眼鏡にかない、とんだシンデレラストーリーを演じる羽目になったというのだ。

『お芝居がやりたかったんですか?』

『そういうわけではないけれど』

 そこでエルメタインは困ったような顔をした。何とも魅力的に。

『わたくしは顔を売っておく必要があるのです。これから起こることの為に』


 『これから起こること』

 とは何なのか、エルメタインは教えてはくれなかった。しかし悠太にも関わりのあることなのだ、と言う含みを残して姫君は(日本のマスコミは彼女のことを『エル姫』と呼びならわしていたが、ある意味では慧眼と言えるだろう)シャンパンを傾けたものだ。


 それから悠太は今までに倍して勉強し、体を鍛え、『その時』に備えた。

 

 しかし日常は続く。

 年が明けたら大学受験である。

 そしてうまくいけば春からは大学生。

 そしてその先は……。

 

 「その時」、なんて来ないのかもしれない。

 そのことにうすうす悠太は気づいている。

 だが、それがなんだというのだろう? 「その時」が来ないことを悠太は恐れていない。ただ、「その時」が来たのに準備ができていなかったことを恐れるのみだ。

 

 もしリリナが彼を見て、幻滅(まったくどんな幻を見ているのかもわかりはしないというのに!) してしまったら、と思うと心底ぞっとする。



 だから彼は――、

その時悠太は空を見上げた。


 何かを感じた、としか言いようがない。

 奇縁というべきか、伊藤駿介の兄弟子にあたる人物から、彼は古流の柔術を学んでいた。古流の中には「気配」を読むというのが重要な技術としてある。その鍛錬が生きたのかもしれない。

 何か、黒い塊が降ってきた。

 最初は、布なのかもしれない、と思った。

 だが、それは明らかに人間の形をしていた。


 投身自殺?


 そうではない。布が風に流されていると感じたとおり、落下速度がもっとゆっくりだ。不思議なほどにその身体は「軽い」ということである。


 魔法のように。


 思った時には体が動いていた。

 ラグビーで鍛えた素晴らしい速力で悠太は駆ける。


 危なげなくキャッチする。

 確かにそれは人だった。柔らかくて暖かい。しかし異様に軽い。発泡スチロールくらいのイメージだ。そして小さい。

 

 小さな体。

 そのまぶたを閉じた顔は――


「……リリナ」


 悠太は呆然と呟く。

 呆然と、としか言いようがない。

 その顔は確かにリリナと全く同じパーツ構成だった。真っ白い肌につややかな黒髪。端正な目鼻立ち。

 しかしその顔は、幼い。


 リリナは彼より二つ上であるから、今は二十歳のはずだ。しかしその顔は、どう見ても小学校低学年のそれである。


「な――」


 混乱する。

 いや、混乱しているのは悠太だけではない。周りの人々もざわついていた。空から人が降ってきたのだ。目撃者は百人を下るまい。どうなっているのかと野次馬が集まりだす。


「どうする?」

自問する。


 走れば逃げられるだろう、だが、そうであったとしてもこの町では監視カメラがあり、人々の手に高性能カメラのついた携帯電話がある。後々警察の厄介になるのはごめんこうむりたかった。

 まったく、こう言った時の為に自分は自分を鍛えてきたのではなかったのか、と忸怩たる思いがその身体に満ちる。

 満ちたその次の瞬間。

 コツン、と頭を叩かれた。

 叩かれたと言っても痛いというようなことではない。

 ――そうだ、細い木の枝で触られた、という程度。


 次の瞬間、悠太は忽然と消えた。まるで瞬間移動したかのように。

正確に言うのならば消えたのではない。その場にいたまま。野次馬の目から見えなくなっただけだ。

 もちろん悠太自身にその自覚はない。ないから、彼と腕の中の幼児に注がれている視線の質が変わったことに気づくだけだ。

 誰もかれもが「何かを見失った」という胡乱(うろん)な瞳をしている。

 しかもその見失った対象を思い出せない。そう言った視線。


 そんなことができるのは、ただ一つ。


「『死角』の魔法よ。認識を阻害する。あなたが普通の人間の範疇に納まっていれば、誰もあなたを『そう』と認識できない」

 

 落ち着いた、深山の湧き水にも似た清冽な声が悠太の耳元で響いた。

 そして、一つわざとらしいため息。

 その声の持ち主は悠太の耳をつまむと、人気のない路地まで悠太を誘導する。

 背中しか見えないが、体の線が出る紺と白のワンピースは、あのころとは違うということを教えていた。

 長い黒髪。

 右の鬢には燃えるように赤い、細い三つ編みのウイッグがついている。

 

 リリナは振り向いた。

 白く美しい顔立ちは当然ながら五年分成長し、あの時とは違う。だが、同じところもあった。久しぶりに会ったというのに険しい顔、そこは変わっていない。

 ああ、だけれどとても、それはリリナらしい顔だともいえた。


「アルトナ、いつまで狸寝入りしているの、起きなさい」


 その姉の声に、悠太の腕の中の幼児はぴょこん、と跳ね起きると、悠太のほっぺたにチューをしてから、彼の後ろに隠れた。


「はああああああ」

 リリナは大きなため息をつく。

「どうしてもって言うから連れてきたけど、どうしてこうなっちゃうかなあ」

 その台詞の含む意味はこうだ。『もう少しロマンチックな再会の仕方をしたかった』と。


 悠太はあいまいに笑う。

 そうだ、唐突に二人は出会ったのだ。再会だって、こんなふうに唐突がいいだろう。

 

「実はね、悠太、ちょっと大変なことが起きちゃって」

「西王国で? 秋人さんが暴君になったとか?」

「そうじゃないわよ」

 リリナは少し笑う。大人っぽい笑顔だ。

「陛下は陛下で忙しくもノホホンとやっているわ。実は、今度は地上世界が大変なことになっているのよ」

「大変なこと?」


 そこでリリナは大きくうなずく。

「悠太、今は何日の何時?」

「? 十五日の午後七時三十五分」悠太は腕時計を見た。自動巻きの祖父の形見だ。

「そう、うん、じゃあもうすぐね」

「もうすぐ?」


 その言葉と同時だ。

 町中の電気が落ちた。

 一瞬で世界は闇に包まれる。周りの人々は「停電?」「どうなってるの?」とあわてて携帯電話を開こうとするが、そこで自分の携帯がダウンして動かないことに気づかされる。


そして、雷光がひらめく。

月の明るい夜だというのに。


「始まるわよ」

 リリナの声に緊張の色がある。

  

 空には稲妻が光り輝いていた。

 いくつも、いくつも。

 曲がり蠢き、それはまるで行書で書かれた詩編のようである。


 そうだ、その連想は正しい。

稲妻は、生き物のように動くと、それぞれが一つの絵を描こうとしていた。絵、つまりは形。

魔法象形文字を。


ぞわり、と悠太の背中の毛が逆立つ。


やがて、魔法象形文字が消え去ったその空間に、亀裂が入った。バリバリと、雷の音にも負けず、しかしだれ一人聞いたことのない音を発して、「世界」の被膜が破れた。

 

そして、その亀裂から姿を現したもの。

それは、暗黒の竜だ。

凄まじい咆哮。ただの一鳴きで、その生物が恐るべき害意を有していることが誰にでも理解できた。その姿は、闇夜に紛れている。だが、赤々と燃え盛る害意のある瞳。その数は、十か、百か、あるいは千か。


「悠太、悪いけど頼まれてくれる?」


 リリナは微笑んだ。

 微笑んで手袋を渡す。

 「聖騎士の鎧」


 悠太も落ち着いてそれを受け取ると、ためらうことなく手を入れる。

リリナは懐から魔法の若枝を取り出す。

アルトナも同様だ。

そして姉弟二人の体が緑色に発光しだす。


「悠太!」


 リリナは叫んだ。


「リリナ!」


 悠太も叫んだ。


 来たのだ、

 そう思う。


「その時」は来た。

 悠太は思う。

今来たということが遅いのか早いのか、それは分からない。しかし俺はやってきた。精一杯生きてきたのだ、と。今、胸を張れる。


「セグ・ラヴァーヌ!」


 少年は――、いいや、男は叫んだ。


 戦いの、そして、新たな人生の産声を。

                                       了


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