魔女と姫君の輪舞曲 5
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悠太の肉体的なダメージはほぼない。ジメルは優しく、しかし効率的に悠太の頸動脈を絞めて、意識を消失させただけだから。だからダメージはむしろリリナの手によって引き起こされた。
「よいしょ!」
リリナは悠太の襟首をひっつかんで、自分の後方、安全圏へと避難させる。命にかかわるのだ、その際にがれきが悠太の後頭部を打った、などというのは実に些細な不運だろう。
その頭部への一撃がしかし悠太の意識を覚醒させる作用を担った。
「う……ん」
目を開ける。
最初に頭部の痛み、それからリリナの背中が見える。
細く、小さい背中。
だが彼の生命を守ってくれている心強い背中。一瞬だけそんなうすらぼんやりとした感慨を抱き、次の瞬間、今の状況をはっと理解した。もちろん正確には理解しようがない。ないが少年の理解していることがある。悠太は上体を起こすと、リリナに確認をする。
「あいつを、やっつければいいんだね」
リリナは「そんなこと、しなくていいよ」と言いそうになり、その言葉を喉の奥に押しとどめた。危険なことはさせたくない。けれども、悠太を信頼している自分がいた。
こくり、とリリナはうなずく。
悠太は年相応の少年らしく少しはにかんで笑う。大げさなことを言ったかもしれないな、と思ったからだ。
「うん、ちょっと、行ってくるよ」
少年は、言うと半ば脱がされている手袋をきちんとつけて、呪文を唱えた。
「セグ・ラヴァーヌ!」
*
リリンボン家、家伝の魔法装具。「聖騎士の鎧」
だがその魔法装具は三つの形をとる。
ライムグリーンの巨人、『聖騎士の鎧』。
金色に輝く『皇帝の鎧』
そして黒とオレンジに彩られた『悪鬼の鎧』だ。
皇帝の鎧は『勅令』なしでは起動しえない。悠太には実質的に不可能な形態である。
力と防御力においては聖騎士の鎧。そして攻撃力に一点特化したのが悪鬼の鎧。であるならば、今この瞬間、とるべき形態はどちらであろうか?
悠太にとってそれは自明であった。
「オオオオオオン!」
金属の牙持つ肉食の獣が吠えた。吊り上った鋭い、燐の燃えたつ炎のような黄色い瞳。耳まで裂けた口。角が生えた、流線型のまがまがしい面相。
四足歩行を基本とするその姿は「ただ一騎での戦闘能力」を結晶化させたものだった。
ゼルエルナーサが声の方向を向く。「これはこれは」そう口を動かすと、手に炎熱の槍を顕現させる。そしてその槍を投じた。
悠太の、『悪鬼の鎧』の元へと。
鎧はむしろ進んでその攻撃を受けに行った。背中に背負った魔法の反射板が炎の槍を受け止め、そしておのれの魔法を加えて炎の弾丸をゼルエルナーサへとむけて放つ。秋人と戦った際には使えなかった武装だ。否、あの時悠太は『悪鬼の鎧』の性能の四分の一も引き出せてはいなかった。
旅の途中、「鎧」の性能をテストした秋人も、駿介も、リリナも、エルメタインも異口同音に一つの結論を出した。
「よくもまあ、秋人はこの鎧に勝てたものだ」と。
正確には秋人は勝利こそしてはいない。だが、あと一歩であったことも事実だ。けれども秋人は驕るでも、卑下するでもなく冷静にこう分析した。
「確かにあの時俺は優位に立った。だが、それは悠太が無鉄砲に、むしろ鎧の攻撃的な意思に呑まれてやった行動でしかない。もし次、あの鎧と正面から戦ったら、死ぬのは俺だろうね」と。
そうだ、今や悠太は烈火のごとき情熱をこそ持っているが、氷のように冷静だ。この冷静な情熱でもって敵を丁寧に殺そうとしている。それは、何と恐るべきことであるか。
鎧は跳躍する。まさにネコ科の猛獣が獲物に襲い掛かる姿そのものであった。
「ケダモノが!」
金属質の音を立てて悠太の鈎爪がゼルエルナーサの目前で止まる。何らかの障壁に阻まれたのだろう。だが、武器は何も鉤爪だけではない。
「尻尾」が二つに分かれ、それぞれが生き物のように、自在にそして目の覚めるような速度でゼルエルナーサの頭部を狙う。先端に生えた高速で回転する角錐のドリルは魔法の障壁を破壊すると、一直線に進む。
しかしゼルエルナーサは指をスナップする。それに応えて肩にある正三角形の魔法装具が発動し、浮遊すると、誘導するケーブルを切断した。ドリルはゼルエルナーサの前髪を一、二本持っていっただけで明後日の方向へと飛んで行ってしまう。
しかしそれで『悪鬼の鎧』が、高橋悠太が止まるわけではない。
魔法破壊魔法のドリルが開けた穴に爪をかけると、障壁に「かじりつく」。
一秒。
二秒。
とうとうその障壁は落雷のような音を発して砕け散った。砕けたと言っても当然それは現実に硬い殻をもっているわけではないから、あくまで比喩としてだが。しかし砕け散り、存在しなくなったのは確かなことである。
鎧は敏捷そのものの動きでゼルエルナーサへと襲い掛かる。だが侯爵もまたさる者。魔法によって一瞬よりもなお早く現出した剣と盾は鎧の波状攻撃を軽やかにしのぐ。その戦技はゴッサーダに勝るとも劣らない。
牙を、爪を、尾を、あるいは切り、あるいは受け、あるいは躱して。だが反撃まではいかない。鎧の圧力は単に速度だけではない。単に力だけではない。単に防御力だけではない。単に意志だけではない。すべてが総合的にそして有機的につながりあったその総和としてその場に在る。
ガイン!
とうとう盾が吹っ飛ばされる。
そして、『悪鬼の鎧』の口から吐き出される熱光線! その魔法の一撃はゼルエルナーサの頭部を焼く。一瞬でその整った若い顔は骨まで燃やされた消し炭となった。
しかし鎧の攻撃は止まらない。
左手で腹を割き、そして右手が生焼けの首をもぎ取ろうと襲い掛かった、その時だ。
ゼルエルナーサ侯爵の左手がぴょこんと持ち上がり、その攻撃を防いだ。
固唾を飲んでその戦いの行方を見ていた者たちがある種の恐怖をすら感じる。その身体は死んでいるようにしか見えないからだ。
しかし、死体ではない。鎧の鈎爪で半ばまで切断された左腕は――そうだ、「半ばまで」、その程度だ。否、肉体の頑健さならばある種想定したいただろう。だがしかし、それとはまた異なる変化がゼルエルナーサ侯爵の肉体に起きていた。
「大きくなっている……」
エルメタイン姫がぽつりと言った。
その通りだ。明らかにゼルエルナーサは巨大化している。せいぜい百八十センチ強だった身長が、今や二メートル半ばに達し、『悪鬼の鎧』よりも大きくなっている。
ほんの五秒ほどで完璧に復活を遂げたゼルエルナーサの頭部は、ニヤリと笑った。
「心意気は買うが、意味はなかったな、少年」
巨大な拳骨が『悪鬼の鎧』の胸をたたく。
その一発の重さ。
鎧は上空五メートルほどまで「打ち上げ」られると。落下してくるその加速度に合わせて、ゼルエルナーサは足を頭よりも高く掲げ、その踵で『悪鬼の鎧』を撃ち落とした。
いわゆる踵落とし。
そして踏みにじる。
「ゲエエエエエアアア!」
怪鳥のような声が鎧から、悠太の口から吐き出される。血、どころか内蔵を絞り出されたような声だった。
だが、しかし、意味はあった。
秋人の呪霊刀・零式がゼルエルナーサの、いまや大の男の腰ほどもある太ももを切りつけた。いかに硬い肉体であろうと、呪霊刀ならば関係はない。それと同時に頸部を、一刀は切った。そしてベン・ジーアルフは「バレットM82」そのものを亜音速で撃ちだす。
堅牢なライフル銃がゼルエルナーサの小山のような肉体に突き刺さる。
首が転げ落ちる、足が切断されこけ―――なかった。
その足はすでに二本ではない。にゅるりとヒトの皮膚の色をしたタコの足のようなものが生えると、その身体を保持した。
首も同様に、人の腕ではありえない触腕が空中でキャッチすると、胸の「中」に頭部を蔵う。
そして鋼の銃身によって串刺しになった腹部は、その周りの肉が変質すると、円環状に広がった。触腕が「バレットM82」をズルリと取り出すが、そこに損傷が残っている気配はない。
見る間に、ほんの一、二秒の間に、かつてゼルエルナーサであった四足六腕の怪生物の全高は五メートルを超えていた。尻と思しき部分から触腕が新たに伸びて、死体をむんずとつかむと、尻と見えたその部位を開いて、巨大な口でむしゃりむしゃりと死肉を食べる。
なんという冒涜的な光景であったことか。
触腕が今度は生者の肉体を求めて蠢動したところを、エルメタイン姫によって切り落とされる。
血もほとんど出ないその肉体は、切り落とされたことに対して何らの痛痒すら感じていない様子であった。
しかし分かったこともある。
「切れるのならば、殺せもするでしょう」
エルメタインは涼やかな声でそうきっぱりと言い切る。
そして右腕を掲げ、叫ぶ。
「戦えるものは、我に続け!」
ある者は腰の刺突剣(当然だが、実用本位の剣を玉座の間に持ち込んでいる者はいない。せいぜいが儀礼的な意味を持つきらびやかな細身の剣か、短剣を持っている程度だ)の存在を思い出し、ある者は国旗を立てている竿を根元から折り即席の長柄武器を作る。魔法使いは攻撃ではなく障壁を作り、数少ない魔法装具の着用者は起動させる。
エルメタインの声に呼応したのだ。
彼ら彼女らとて決して臆病者でも無能者でもない。人間の最も恐れるべきはなんといっても「恐慌」である。そこに陥れば、人は本来の能力の1パーセントも出すことはできない。
だがしかし、事ここに至ってエルメタインの号令一下、生き残った人々は「陣形」と呼びうるものを作り出した。
そして、ゴッサーダの救命に成功したリリナはぱくりとピンダルゥの実を口に入れると、すっくと立ち上がり、冷たい声でピクリとも動かない『悪鬼の鎧』、高橋悠太に声をかける。
「いつまで寝てるの? 行くよ」
その声にまさか狸寝入りをしていたわけでもあるまいが、『鎧』の目が燐光を再び発すると、ゆっくりと立ち上がった。
「悠太とわたしとでカタをつける」
少女の顔は厳しい。しかし、その顔に悠太への不信はいっさいない。やるしかないのだ、という決意が少女の厳しさを作っていた。
ゴシュウ!
と『悪鬼の鎧』が息を吐く。排気する、と言った方が正しいモノの表し方というべきだろうが、しかしやはり息を吐いたというべきだろう。そして、息を吐き、息を吸い、次の瞬間、リリナを背に乗せた『悪鬼の鎧』は、駆けた。
*
エルメタインと秋人の二人が指揮する一軍(とはいっても総勢で十名強といったところだ)はいわゆる「一撃離脱」の方針でチクチクと「ゼルエルナーサ」を削っている。
削っていると言っても、相手は不死身の存在だ。いかに傷をつけても意味はない。意味はないがしかし、相手は確実に嫌がっているし、簡単に済むと思っていた仕事がなかなか終わらないことにも腹を立てていた。
イラつかせる。
それが仕事だ。
その仕事さえできたのならば。と男女は考える。秋人とエルメタインは考える。
その仕事さえできたのならば、彼らの仲間、頼りになる友人が何とかしてくれると、そう考えていた。そして、その考えは、正しい。
「ゼルエルナーサ」は全周に閃光を撃つ。大理石の床が切断される熱だ。しかし誰もその光線を直撃したりはしない。ベン・ジーアルフの「泥人形」が危ういところだった何人かの人間をあるいは押し、あるいは引っ張り倒してその一撃をかわす。
そしてその攻撃した行為自体が、魔法障壁に間隙を作ったことに他ならない。その隙間さえあるのならば、リリナならば簡単に、――とまではいかないが、彼女の手管にかかれば堅牢極まりない「ゼルエルナーサ」の魔法障壁すら突破に時間はかからない。
しかし魔法障壁内部に入ったところを各種の魔法装具が、そして肉色の触腕が二人を襲う。尻尾でリリナの体を固定した悠太はまさに疾風の軽やかさで攻撃を避ける。鈎爪で触腕を裂く。のみならず、肩から生えてくる手裏剣で攻撃さえもする。トトトン、と三つの手裏剣が「ゼルエルナーサ」の足に刺さり、一瞬の間をおいて爆発する。ピンク色の肉が爆ぜ、骨が露出するが、まるで巻き戻し映像を見ているようにその損傷はあっという間に元に戻る。
「なるほど」
リリナはつぶやく。
「要は殺そうとするのが間違いってことなんだから、だとしたらそれほど難しいことでもない」
言うが早いか、リリナは魔法の若枝を振るった。魔法象形文字が緑色に光り中空に浮かぶ。
「たぶん、こうね」
次の瞬間、リリナの行った技にベン・ジーアルフは目を見開く。
魔法象形文字が魔法象形文字を生んだのだ。その魔法象形文字たちがさらに魔法象形文字を。ネズミ算方式で生み出されたその緑色の光は、ひたり、と「ゼルエルナーサ」の肌に張り付く。
「侯爵、あなたの『お身体』は魔法そのものです。であるのならば、魔法によって消滅させることも可能。この魔法象形文字は姿こそ違え、本質的に反魔法生物『妖蚤』と同じ存在です。あなたの魔法を消費して、無限に増え続ける。正直『禁忌の魔法』などと仰々しく言うのもはばかられる魔法ですが、まあ、効き目はお身体で感じくださいませ」
言うと、もういい、という感じにリリナは『鎧』の背中をたたく。悠太は速度を落とし、少し距離を捕ると(すでに魔法障壁は存在しない)、その光景を見ていた。
蚕食されていく巨体を。
しょりしょりしょりしょり、と音を立て、実体を持たない『魔法象形文字』が「ゼルエルナーサ」の肉体を食べる。食べつくす。
おおおーーんと巨獣が叫び声をあげる。
体を狂ったように振り動かすが、それでどうにかなるような魔法であるはずもない。
魔女の言とは正反対に、それはまさに禁忌と呼ばれるにふさわしい魔法であった。
そしてリリナは嫣然と笑い、朱の髪をもつ姫君の前に片膝をつく。
「これで、片が付きましてございます。あとは――」
丸裸になった老人がゴロン、と怪物の肉体から転げ落ちる。その額に嵌まる「隔絶冠」の魔法装具を悠太は力任せに引きはがす。
めらり、と額の皮も一部剥がしてしまうが、それはまあ、不可抗力というものだ。
そしてその手の中で魔法装具はぎゅっと握りつぶされた。それと同時だ。耳鳴りになる寸前の「何か」がその場にいる全員を捕らえる。
そして秋人が「ああ、繋がったぞ」とほっとしたように言う。神機とのリンクが戻ったという意味だ。そして魔法装具の「隔絶」の能力が完全に切れたという意味でもあった。
秋人が丸裸の老人の方を向く。
秋人が聞いた。
「そのおっさんは、やっぱり殺せないのかい?」
「竜との誓約ですから、禁忌魔法でも『そこのところ』までは動かせません、ま、殺せないまでもいくつか案はあります。けれども――」
そこまで言った時だ。
広間に黄金色の光が満ちた。
魔女は満足そうに目を細める。それはそうだ、それはこうなるに決まっている。
「けれども、竜との誓約を破る、それも裏をかこうなどと、わたしだったら恐ろしくてとてもできませんよ」
リリナは黄金色の光を観察する。
その光は凝集すると、ほぼ人の大きさほどの「竜」の姿をとった。
黄金竜、イング・ラバーバ。別名は魔法竜。魔法の全てを統べる存在。
ゼルエルナーサの顔が恐怖に歪む。
言い訳ができる状態ではない。
「人よ。ゼルエルナーサ・イーハ・カロンよ。 汝は我との誓約を破った。しかもただ破ったばかりではない、己の欲を満たすために我との誓約を利用しさえした。――そんなに怖い顔をするな、我は汝を殺したりはしない」
その台詞に、ゼルエルナーサの顔に一抹の安堵が浮かぶ。
「そして我はまた汝の不滅の肉体を取り上げたりもしない」
ドキリ、と侯爵の顔が強張る。まさかそこまで都合のいいことなどないだろう、という予想がついたのだ。
その予想は、全く正しい。
「さて、汝は不滅の存在となるがよい。不滅の存在となって、ずっと、満足し続けるとよかろう」
竜は轟、と光の息吹を吐き出す。その光は、まさに魔法そのものであった。
「やめてく―――」
その声は途中で凍った。
凍る、というべきか。なんと表現したら正しいのだろうか。
ゼルエルナーサ侯爵の肉体は、黄金に輝いている。
輝いている、というよりは黄金そのものだ。
「彼奴の肉体を純金に換えてやった。換えてやったが、別に死んではおらん。心臓を一回打つのに一年ほどかかるであろうがな。人間とは違う存在になったが、あれでも生きておる。まあ、新たなる王よ、我からの戴冠祝いとして受け取っておけ、鋳つぶして、金貨でも作ればよかろう」
黄金竜は唖然とする秋人に向ってそう言い放つと、超然たる笑い声を発して、一つ羽ばたいたかと思うと、出現したと同じように唐突に消失した。
「え、生きてるの、これ」と秋人が言う。
「そのようですね。虚言は言いますまい」とエルメタインが答える。
「金貨、作る?」
「正直いい気分ではないです」
「使い勝手、悪いなあ」
「悪いですねえ」
どうしたものか、と二人は顔を見合わせた。




