接吻 3
4
おかっぱ頭のアルトナは、エルメタインの膝の上でくうくうと静かな寝息を立てている。
深更、とまではいかないが、それでも五歳児が起きている時間ではなかった。
セレイネーズは息子の不調法を詫びるが、もちろんそのような些末事に対して怒るどころか、エルメタインはかわいらしいその頭をなでる。それは「ミケランジェロのピエタ」を思い起こさせる光景であったが、そこにあるのはもちろん荘厳な悲しみなどではなく、どこまでもあたたかな慈しみであった。
赤い髪が魔法の光に透かされて、まるで内側から輝いているかのように姫君を縁取る。いつどのような状態であっても、この女性は絵になる。それはやはり「姿勢」が肝要なのだろう。
身体も、そして精神においても。
秋人はすでに寝所で横になっている。今ここにいるのは、卓で突っ伏して寝ている何人かと、お茶で焼き菓子をつまんでいる二人の美女のみだ。
明日には、王都に着く。
そしておそらく、全貴族の八割が彼女に附くだろう。残りの二割も潜在的な反対派であっても、しかし表立って反対を言う者はいないはずだ。
国王に次ぐ、どころか財力にあっては国王を越えるかもしれない大貴族、ゼルエルナーサ・イーハ・カロン侯爵の約定を取り付けたのは大きい。
「西王国」の元老会議の座長として、エルメタインに死を宣したのだが、それは結局ファルファッロ・ドロメイア・アーチスタイン男爵にそのすべての責を帰するものであった。もちろんある意味ではそれが正解だ。ファルファッロ男爵の用意した「証拠」とやらはそのほとんどが捏造であったのだから。
もちろん捏造をそれと見抜けなかったのは問題ではあるが、しかしそれで大貴族を失脚させられないのは、貴族制という政治体制の問題点である。が、このような不安定な状況では横車を押す者の存在が必要である。
どうせ押してもらうなら、力のあるものが良い。
そもそも、秋人が王である証拠もまた「横車」、つまりは無理を通して道理を引っ込めようとする行いではある。
「四神機」の一つ、「白のアンフォルデ」。
優美繊細なその機体は上空で薄く発光しつつ今も浮遊している。その能力は一軍に匹敵、というよりも例え西王国の全兵力をもってしても破壊することはできないであろう。
リリナは道中、アンフォルデの機内に入って様々な実験を試みたが、その成果の一つ一つに文字通り鼻血を吹き出すのではないかと思わせるほどの興奮をした。それほどの物なのだ、神機とは。
目の前のこの貴婦人もそう思うであろうか?
「しかし、神機をこの目にするとは、思いもしませんでしたよ」
姫君は素朴な色あいのカップを受け皿の上に置くと、そう語りだした。
「おとぎ話の中に出てくるもの、と思っていましたからね」
セレイネーズは顔色一つ変えず、という風を装いつつ、実はそのように見せかけているのが見て取れる。好奇心は隠しようがない。
「アレは、やはり間違いなく四神機なのですか?」
なかなかに用心深い物言いだ。当然というべきだろう、むしろそこが問題なのだ。神機が偽物だとしたら、ここまでのすべてが壊れるのだから。
エルメタインは微笑を浮かべて首を縦に振った。
「そうですね。わたくしは火焔竜ユーソードより秋人さまが神機を預かるのをこの目で見ました。あれを疑うのはとてもとも……」
「そうでした。想像を絶する体験と聞き及びます。しかし、『王家の霊廟』に調査隊が向かいましたが、ごく普通の荒れ果てた遺跡でしかなかったと聞き及んでいますが?」
様々に事態は波及した。
当然というべきであろう、神機の出現は魔法使い界においても大事件、否、有史以来の大事件と呼べた。魔法使いたちは文字通り駆けつけて、神機を見に来た。とはいえ実際神機に触れさせるのはリリナのみであったのは、単に「もったいをつけた」だけである。
であるが少女の書いたレポートは「業界」を震撼させうるに足りた。旅路の片手間に書いた数葉のレポートでこれであるから、本格的な研究が始まったらこれはとんでもないことになるに決まっている。
そして、娘の書いたレポートを読んでいない、などということもないであろうことはこの母親の怜悧な表情からもうかがえる。
――あれを読んだのなら、リリナの優秀さも分かるでしょうに。
エルメタインなどはそうも思うが、そのことはおくびにも出さない。
「……だとしたら、やはりあの霊廟は『ただごと』ではなかったという事でしょう。帝国直系の証たる『勅令』に反応して、あそこに入った瞬間に空間が『入れ替わった』とリリナは仮説を唱えていましたが」
「そうですか。その仮説は興味深い――。春になったら本格的な調査をするのがよろしいでしょうね」
「むろん、そのつもりではあります」
「しかし、竜と出会い、その上で『銀の杜』に上がり、『ピンダルゥの実』を手に入れてくる、とはあまりにもあまりな体験。詳しく教えていただければ重畳です」
やはりな、とエルメタイン姫は思う。
この母娘、似ている。
リリナも彼女の体験を聞いた際には、根掘り葉掘りすべてを聞き出そうと躍起になったものだ。彼女たちの体験をすべて記せば、おそらく大部の著作物ともなろう。そうなればエンリリナの名は魔法史において歴史に刻まれる存在となる。
母とは違って。
「長いお話になりますので、とてもここでは一口に語りえませんよ」
「そうでしょうとも」
そこでセレイネーズは優雅に茶を口に運ぶ。
「私が知りたいのはただ一点です。つまり、それは、魔法の根源について。――魔法とは何か、について妖精族や火焔竜は何かを話されなかったではないですか、ということです」
エルメタインはきょとんとした顔をした。
演技だ。
うまい演技だった。それはそうだろう。この問いかけは二度目なのだから。
リリナがすでに発した問いなのだ。
そしてあわててはぐらかした質問だ。
それはそうだ、魔法使いには、魔法使いにだけは教えてはならない答えだ。
魔法の根源が、「地上世界の科学」だなどと、言えるはずもない。
否、言ったところで信じはしないだろう。だが、信じる信じないとは別に、その視座を与えてしまえば、有能な魔法使いならばいずれ真実にたどり着く。
『ゴーズの一族』のように、だ。
そ の結果何が起こるのか、それは分からない。分からないがしかし、その結論に対する責任は秋人とエルメタイン、二人が担うには二人には荷が重すぎる。少なくとも今は誰にも教えるわけにはいかない。それはこの新婚夫婦が決めた約定であった。
「申し訳ありませんが、私のように浅学の者に妖精たちは何も教えてはくれませんでした」
むろん、エルメタインが浅学のはずもない。魔法学の基礎的な理論書には一通り目を通してある。一方ならぬ学識を有している、と言ってもよい。
だからこそ、納得したのだ。現今の魔法学の持っている根本的な矛盾。そこを妖精たちの理論は衝いている、と。
ふむ……
と、冷徹な美貌の伯爵夫人は形の良い頤に、白い指をかける。
納得すべきか、なおも問うべきか、そこのところを吟味しているのだ。
ほんの少しの間をおいて、何事かを婦人が口にしようとしたその時だ。
恐ろしい叫喚が市街に響き渡った。
5
恐るべき叫喚。
文字通りの意味でだ。
ネコ科の猛獣の叫びにも似た、だがその叫びに現存在するすべての不快音を詰め込んで、不協和音で演奏したような雄叫び。
その叫びを聞いた人間の八割は足がすくみ、気の弱いものは気絶する。
夜半であるから、市民七割がた寝ていたが、その半数が飛び起き、残った半数もひどい悪夢にうなされた。
そうだ、それは「魔法の兵器」のもたらした結果なのだから当然だ。
むろん、エルメタインの足はすくまない。
顔色も変えないセレイネーズも、さすがの精神力であると言えた。
「今のは?」
それは今までの女主人としての顔ではない、将としての顔であった。
「私の記憶が確かならば、あれは『戦叫』の魔法です。しかも屋内にいてこの強大さ。なまなかのものではありません。そう、考えられるのは――」
セレイネーズが正解を言うよりも早く、『戦叫』の魔法を用いた者は名乗りを上げた。
「王位継承者を僭称する、ハニュー・アキトよ! 邪悪なる廃姫エルメタインよ! 我はここに汝らを断罪する! 法をないがしろにする売国奴ゴッサーダともども、我が成敗してくれるわ!」
女性の声だった。
美声と言えたが、しかしその声に余裕はない。あるのは虚勢だった。
声の主はザガード・ロスハング・クロフエナ女伯爵。彼女もまた元老会議でエルメタイン姫を死罪と断じた一人であったが、王国最大のゼルエルナーサ侯爵ほどの権勢もなく、実は王女を助けるための芝居を打っていたゴッサーダ子爵とはもちろん違う、その上ファルファッロ男爵が「落馬事故」で死亡した今、誰かが泥をかぶらねばならない。
当然、それは消去法により彼女になるだろう。衆目は一致していた。
しかし、だ。
しかし、その点においても、これは暴挙と言えた。
やりすぎだ。
せいぜい所領のいくらかを没収する程度、命まで取るようなことはないし、それどころか禁錮とてないだろう。その程度の罰ですむ話だ。
だが、この行動は……!
姫君とセレイネーズは敏捷に屋外に出て確認する。もちろん、何かの間違いなどではない。
夜の闇に巨大な影を落とすその姿。
竜の首と尾とを具えた鎧武者。
全高五メートル、全長十二メートルの巨体。帝国時代の「八王器」の一つにして無敵最強を誇る、ザガード家伝来の「魔法装具」。
竜化兵である。
「おお、良く見えるぞ、エルメタイン! 地上界の下卑た男を銜え込んだ淫売めが何を考えおるか。妾にはよくわかる。汝は魔女めと謀り事をし、銀の杜より帰っただの、火焔竜より『神機』を授かるなど、子供でも信じぬ嘘をよくもまあ吐いた物よ!」
操縦席に今いるのはクロフエナである。竜化兵の目であれば、漆黒の闇でも認識できるであろうし、月明かりも街灯もある市街地では、これは昼間と変わらない。
「所詮は――おお、横にいるのはセレイネーズ。まったく久しいのう。くくく、『魔法涸れ』して以来表舞台に出なかったかわいそうなご婦人が、そうかそうか、なるほどお主が黒幕か。……よいよ、みなまで言わんでも。――お前らは今ここで全員死ぬのだから!」
何事か言わんとしたセレイネーズに委細構わず、竜化兵の口が開く。
その口を中心に魔法象形文字が高密度で描かれる。セレイネーズの顔色が変わった。
彼女は文字を読んだのだ。
千の兵を一撃で消し炭と化したとも言われる「火焔の息吹」。走って逃げられる魔法ではない。市街区の四分の一は焼け落ちるだろう。死者の数は、果たして数百か、数千か。
セレイネーズはつい習い覚えた魔法による高速移動を行おうと指を動かすが、しかし当然ながら、彼女の指先はむなしく宙を走るだけだった。
エルメタイン姫は、しかし傲然と胸を張る。
「愚かなり、クロフエナ! しからばあのピンダルゥの実はどういう事と考えおる」
「ふん! お前が自分で隠していたんだろう! 自作自演とはこのことだねえ」
魔法の詠唱が終わり、竜化兵の口内に青白い炎がともるその瞬間――
竜化兵の前に白く優美な「それ」が立ちふさがった。
さらにそれと同時に、白と黄緑色の巨人が、存在しない頭部の代わりに一人の女の子を乗せて、疾風のような速さで二人の美しい女を抱きかかえると、少女の魔法の助けを借りてぽーんと中空高く舞い上がり、その場をあとにした。
その場。
戦場を。




