接吻 2
3
「さて、どこから話したものか……」
リリナは思案気に唇の下に細く白い指を置く。
「そうね。まず最初に――」
わたしの母、セレイネーズは十四歳にして「黄金の位階」の魔法使いとなりました。
これは今までに誰も成し遂げたことのない快挙です。
わたしも十五歳で黄金の位階となりましたが、それだと三人目です。正直どうやったらあと一年早くすることができるのか、想像すらできません。
もちろん、その後の活躍も目覚ましいものがあったようです。論文も数多く書かれていますし、母の作った魔法式は今も現役で駆動しています。
けれども、魔法使いとして脂がのる時期とされる二十代を目前にして、母は突然に魔法が「涸れる」という症状を起こしました。
まれに、――魔法使いの三千人に一人が陥る症状ですが、そのほとんどは十代の半ばまでに訪れます。その時期ならば、人生の方向修正もまだ容易いでしょう。
そしてそもそも「ほとんどの人はそこそこの能力しか有していない」んです。母のように「特別な才能」を持つ人間が魔法を失う痛み、……想像しただけでも身震いします。
譬えるのならば、両腕を失い、更に盲目になるようなものでしょうか。それほど喪失は深い、んです。
母はその後も「魔法研究家」として研鑽を積んだようです。そもそも「魔法涸れ」を治す手段を見つけるための研究だったようですが、しかし五年に渡る研究は実を結びませんでした。いいえ、一つの答えにはたどり着いたのですから意味がなかったというわけではないでしょう。
「魔法涸れ」は治せない、という結論です。
優秀だった母は、その優秀さゆえに「魔法研究家」という日陰の存在の第一人者になることをよしとしませんでした。どこまで行っても「魔法使い」の助手でしかない。――ええ、もちろん並の魔法使いなどより人の役に立つ魔法研究家は数多いです。
ですが、母は二十歳を前にして宮廷魔法使いの椅子が約束されるような、けた外れの存在でした。その彼女の自尊心において、魔法研究を極めることになんの意義も見いだせないのはある意味当然だったでしょう。
母は実家のつてで、リリンボン家に嫁ぎました。リリンボン家は古い家柄でしたが、爵位としては母の実家よりも一つ下、自由にできる金銭についていえば二格ほど下です。それでも、正直「嫁き遅れの、元天才魔法使い」という肩書を持つ女性を選ぶ貴族は少なく、その中でもまだましな父のもとに母は嫁いだのです。
父ですか、父はいい人です、とても。
でも母と比べてしまうと、これは誰でもそうなのですが、弱い人なのです。
母の意見に父はいっさいの口出しをしません。母の意見が大体において正しい、というのも真実でしょうけれども、しかし衝突を好まないという姿勢が徹底しているんです。そうして、そうして――。私が生まれました。
女のわたしが生まれ、その上で魔法使いであると気付いた母は最初喜んだそうですよ。これは父からも、そして古くからいる乳母にも何度となく聞かされたことですから、真実なのでしょう。
ヘンな顔をしていますね。
ええ、そうです。わたしの記憶の中で母は常にわたしを厳しく当たっていました。わたしの最初の記憶はこんな感じです。
確か初夏だと思います。
三歳のリリナちゃんはお家の中にある池と四阿が好きでした。花が咲き、魚が遊び、鳥が訪う。美しい庭園だったのです。
彼女はそこで魔法を使って遊んでいました。水の球でお手玉をしていたのです。とはいえそこは三歳児、どうしたってうまくいくはずがありません。彼女は水の球を頭上で割ってしまい、びしょ濡れになってしまいました。
それに怒ったのが彼女のお母さん。お母さんはただでさえ白い肌を怒りで蒼白にさせて叫んだのです。
「こんな単純な魔法も操れないだなんて、そんなの私の子供ではありません!」って。
結局リリナちゃんは日が暮れて、夜になって、ようやっと水の球を三個自由自在に動かせるようになりはしましたが、その間ずっとびしょぬれだった彼女は風邪をひいてしまい、更にお母さんに怒られたのです。
まあ、そんな感じでわたしは母に怒られながら魔法の修業をずうっとやってきました。物覚えが悪い、愚図、下手糞と怒られながらね。
真面目な面持ちで聞いている悠太は、もちろん知っている。リリナは彼が出会った魔法使いの中では、けた違いに優秀なことを。
まずほとんどの魔法使いがフォーダーンにあっては「エンジニア」であり、あるいは「科学者」なのだ。エンジニアであるのならば「戦争」にこそ役立つが(これは地上世界でもそうだ)、こと「戦闘」においては良くて補助役、普通なら「足手まとい」にしかならない。そしてそのことはエンジニアとしての善し悪しには全くかかわりのないことである。正課の「魔法兵団」において、魔法使い一人に対して、護衛や露払いのために、歩兵が五人つく。魔法使いたちに遭遇戦をやらせるわけにはいかないからだ。
そういう意味では、コンピューターゲームのイメージ通りの「魔法使い」など今のところただ一人しか見ていない。
それがリリナなのだ(正確に言うとゴーズ・ノーブもそうなのだが、彼は「魔法使い」というよりは「怪人」の類だろう)。魔法の発動の素早さ、その選択の的確さ、更には胆力といったものすべてが高次で絡み合っている。精神力に至っては、もはや超人に近いであろう。
だというのに、そんな彼女だというのに。
だからこそ悠太は不安が募るのである。あのリリナがここまで弱るなど、初めて見るからだ。
しかも正直、あまり参考になるような意見が出ない。
悠太と両親の関係は良好だ。
もちろん学校に行っていないし、半引きこもりという現状は針のむしろではあったが、それは感じる悠太のせいであり、客観的に見れば父も母も冷静かつ、長い目で彼のことを見守ってくれている。それは彼も知っているし、素晴らしいことなのだ。
もちろん、スパルタ教育の全てが悪いというわけではない。ある種の才能はそのようにしか作り得ないのかもしれないし、実際リリナは素晴らしいのだから!
だが、だ。
だが、であるとするならば。
せめてその素晴らしさを認めてやらなければいけない。それをこともあろうに自分と引き比べて劣っている、というのならば――それはつらい。彼女の立つ瀬がないではないか。
立つ瀬がないのならば、人はどうなるのだろうか?
そうですね、まあそれでも領内で私以上の魔法使いがいなくなったのが十歳の頃です。その時、母の旧知の大魔法使いがたまたま母を訪ねてきたのは縁というものでしょうね。
それがわたしの師匠、名を捨てた、「遺棄せられし魔法使い」です。
師匠は変人でした。大変人と言った方がよいでしょう。
変人でしたがその才能を惜しんだ四王国の国王たちが紳士協定を結び、彼女を利用しないという制限付きで、師匠の「禁忌魔法」周辺の研究を認めたのです。
正直いえば、師匠の弟子になった途端に、母親はそれでも気を遣っていたんだなと思いましたよ。あの師匠ときたら一歩どころか半歩間違えば死ぬような実験をやらせるんですから。
それも毎日どころか、午前と午後と夜の、一日三回も!
そう言うリリナの表情はしかし明るい。悠太が「嘆きの塔」の地下宝物庫で「遺棄せられし魔法使い」と出会ったことは、もちろん彼女に伝えてある。その時もそうだが、リリナがその時、過去を懐かしむ顔をしていることに気づく。おそらくは、本当におそらくは、少女はその時ようやっと、温かい居場所を見つけたのだ。
とんでもない師匠でしたし、そんな師匠の工房に長いこといる姉弟子たち(そうそう、そこは女だけしか弟子入りは許されないんです)も曲者ぞろい。……まったく、無茶苦茶な経験でしたよ。
深夜まで実験が続き、ご飯を食べる暇もないなんてこともざらでした。
魔法の実験台にもされましたしね。
……まあけれども、刺激的であることにかけては右に出ることのない工房でした。でもある日、そう、ある日本当に急に、工房は閉じられました。師匠の気まぐれなのか、それとも何か別の力が働いたのか、それは知れません。
しかし、十三歳になった私は、三年ぶりに実家に帰って驚きました。いつの間にか弟が生まれていたんですから。それも二歳の!
しかも弟は魔法使いの素養を持っていました。
母が魔法使いで、その子が二人とも魔法使いというのは、私の知る限りもう一例在るだけの、全く天文学的な偶然です。ですが、そのときに私は気づきました。父にも、母にも、私は本当の意味で不要になったのだ、と。
悠太は知らない。彼女が弟を抱いて涙したことを。その場にいないのだから知る由もないが、しかしリリナはここまで話して、己の心の動きをようやっと理解した。
それはもちろん、私は弟を可愛いとは思います。それはけれども子供だから、もちろん、血縁として世間一般の子供よりは身びいきとしてかわいいとも思いますよ。けれどもそこまでです。それ以上の愛情を私は抱けないのです。
「だけどそれはさ」
そこでようやっと悠太は相槌以外の口を挟む。
「誰だってそうだよ、僕にも妹はいるけど、――そりゃあ家族として大事だとは思うけど、正直妹のことなんて『しらねーよ』って思うもん。その上数えるほどしか会ってないんでしょ?それで姉として愛情を感じないって言ったって、それはもうふつーだよ」
「伽奈さんのことですね、なつかしい。ええ、そうです。あるいは悠太のいう通りなのでしょう。けれども、
けれどもわたしは、この家が、家庭がわたしを存在しないものとしていることに気づいたのです。
そこからわたしは魔法学院やら、大学院、それに南王国を除く三王国すべての宮廷にも手紙を書き、就職のつてを探しました。そのうちには、かつてあった南王国宰相バタフリンの招待を受けようかとも思ったほどでした。
あるいはその使者が来るのがもう一週間ほど遅ければ、本当にそうなっていたかもしれません。
後に知ったのですが、私と同じく師匠の下を去った姉弟子たちも全員が全員就職に苦労していました。身内であることを割り引いたって、西王国宮廷魔法使いのベン・ジーアルフ殿に勝るとも劣らない魔法使いであるのにもかかわらず、です。
何者かの意思が介在している。そのことに気づいたのは本当に最近のことです。いいえ、確信を持ったのはこの旅の間だったのかもしれません。そもそもこの旅も、あるいはその「何者」かの仕業なのかも、しれませんね。
話がそれました。しかしわたしにとって幸いだったのは、父がエルメタイン姫殿下の侍女の口を持ってきたことです。
渡りに船とはこのことでした。わたしはどんなところでも実家よりはましと思っていたのですが、それが宮廷となればむしろ望外の幸運です。まあ、侍女になる、というのは通常は行儀見習いとして花嫁修業、という側面もありますし、父もむしろその効果を狙っていたのでしょうけれども。
ここでようやっと、というべきか、少女は生気に満ちた微笑みを浮かべる。
それは悠太が心の底から見とれてしまう光り輝くような笑顔だ。
しかし、エルメタイン姫さまは規格外のお方でした。わたしごときを友のように扱い、王都のみならず西王国中を駆けまわっては様々な冒険をしたのです。――そんな顔をしないで。まあ、危険と呼べるような危険なんて存在しなかったんですから。分かるでしょう? 姫様の武芸の冴えは余人の追随を許さないほどですし、わたしの魔法もなかなかのものですよ。
というわけわたしは幸せな二年間を過ごしたのですけれど、しかし、確かに母の言うことにも理はあるのです。
――いつものように。
わたしは確かに「ピンダルゥの実」が降りてこないことを調査すべきだったのでしょう。そして、姫さまの根も葉もないうわさの出所を探ることも。
ふふ、いつだって確かに母は正しい。そこを否定したりはしませんよ。
けどねえ、そうは言っても、ええ、そうは言ってもです。
わたしは、
少女はわななく。
わたしはいつだって一生懸命やっていたんです。
*
悠太の頬をリリナはさする。
白い指だ。
秋である。さらりとした夜気は少女の指先から温度を奪っている。
冷たい陶器のようにつるりとした印象の指先は、頬を撫で、少年の鼻さきまでめぐると、少し強くそこを押した。
悠太の頭が人形のようにガクッと揺れる。
そしてリリナはおかしそうに笑った。
しゃべり過ぎたという後悔がある。
否、後悔とはまた少し違う。文字通りしゃべり「過ぎ」だという感覚だ。
ここまで話すつもりはなかったのだ。なかったが、話せば話すだけ、彼女の中では話すべきことが増えていった。これでも少しは抑えたのだ、しかし一方的にこれだけ語ってしまったという悔悟の念もある。悠太も一度にこれだけ語られてはさぞ困っただろう。むしろ、右から左へと聞き逃してくれればそれでもいい。しょせんこれは繰り言、愚痴なのだ。
才能も有れば金に困ったこともない。飢餓などとはなおさら無縁だ。(修行の一環で一週間飲まず食わずというのはやったことはあるが、それとて健康であるからできた余技に過ぎない。)生きていくことに汲々としているのならば、到底不可能な、恵まれた境涯にいることは理解している。
だから、これは愚痴でしかない。
少女はひっそりと笑う、その笑顔のまま「聞いてくれてありがとう」と言った。
龍道を行く月明かりに照らされたその笑顔がはかなく、寂しげに見えて、少年は渾身の勇気を振り絞った。
生命を敵の刃の前に擲つなどということとは、ま逆の勇気だ。
それは、生きていくための、それは、言わなければならない、しなければならない行為だった。
彼女は、労われなければならない。
彼女を、肯定しなければならない。
それも今すぐ、それができるのは? そりゃあエルメタイン姫の方が適任だろうけれど、今ここにいるのは誰だ? 俺だ、俺しかいない。
恐怖の(「拒否されたらどうなってしまうだろうか?」)あまり、思うままにならない両手をそれでも意志の力でねじ伏せると、悠太は、リリナを抱きしめた。
ビクン、と悠太の腕の中でリリナが一瞬だけうねるが、それもただ一度きりのことだ。
それは、先ほど悠太が行った抱擁未満の何かではない。
あの時は、リリナは悠太に縋りついた。そして悠太は立っているのに精いっぱいだった。ほんの十分前までの少年にできるのは、せいぜい杖の代わりでしかなかったのだ。
そして、リリナがしたそれとも違う。
あの時、少女は心の弱さを暖かいものを抱くことで解こうとしたのだ。対象が人でも大型犬でも、なんだったら懐炉でもよかった。
けれど、今は違う。悠太の思いがけないほど強い腕の力は、違う。そのことに気づいたのはリリナだった。ただ、少女が倒れないことに全精力を傾けていた少年とはすでに違うのだということに。
悠太は立っている。両の足で。
そこには、その瞳にともっている炎は何であろうか?
知っている。
少年の瞳に宿る炎の名は、勇気だ。
生きるために、ともさざるを得ないその炎を、いつしか少年はともしていた。
だから。
だから?
野暮なことは言うまい。
二人はどちらかともなく口づけた。
口移しでピンダルゥの実を分け与える――などという口実もない、純粋な好意の表れとして。
*
「あ痛ッ」
とごく小さい声がどちらかの口から発せられた。
互いに顔を近づけたために、相対速度が上がって、極小の衝突事故が発生したのだ。残念ながら、二人の二度目の口づけは、色気のない結果となった。




