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接吻 1

第十八章 「接吻」



       1



「お久しぶりです!セレイネーズさん!」


 エルメタインは溌溂(はつらつ)とした笑顔でその女性を迎えた。


「こちらこそ、お久しゅうございます、エルメタイン姫殿下」


 セレイネーズはリリナによく似た顔に笑みを浮かべると、優雅に一礼する。それから今度はつ、と秋人に向きなおって、

「アキト様、地上界よりのご帰還、おめでとうございます。わがリリンボン家、並びにわが実家、セリシタ侯爵家もアキト様の即位に賛意を示します」

 とさらに深く礼をした。

 だが、そのしぐさにはどこか傲岸なるところがあって、「慇懃いんぎん無礼」の半歩手前ぐらいには位置していた。


 『地上生まれの半端者め』とその物腰は語っているようだ。とセレイネーズの実娘、リリンボン・ゼ・クシャーナ・エンリリナはそう思った。


 そう思っていた。


 思うしかできていなかった、と言ってもいい。

 少女の大きな形の良い目は見開かれ、桃色の美しい唇はぽかんと開けたままになっている。先ほどまでのように姫君にお酌をしている最中であったなら大惨事になっていたであろう。それほどまでにこの少女は、彼女の母の出現からここまで、凝然と立ち尽くしている。


 蛇に睨まれた蛙のように。

 

「このたびはわが娘が役に立たず、誠に申し訳ありませんでした」

「何をおっしゃいます。リリナがいなければ我ら二人何度命を落としていたことか!」

 ここで少女の有能さをアピールせんと、エルメタインは声に力を込める。秋人も何事かと思いつつも、妻(!)の言に逆らう理由もない。大きくうなずいた。


「そうではございません」

 セレイネーズはぴしゃりと未来の王と王妃の言を否定した。

「そのような状況に陥ったこと、それこそが大いなる失態でございます。失地回復など、そもそも失態なくばしないで済むこと。エンリリナ、うぬぼれてはなりませぬよ、あなたは相変わらず出来が悪いのだから」

 冷たい、その言葉には氷のようなとげが込められている。


 ひょっとしたら、

 とエルメタインは思う。


 この女性はひょっとしたら本心からリリナのことを思ってこのような言を弄しているのかもしれない、と。

 いわゆる「心を鬼にして」というやつだ。

 だが、とエルメタインは愛する侍女を見る。

 バラ色の頬は今や見る影もなく青白く褪め、主に対してすら傲岸に胸を張って正論を叫ぶあの少女が、うつむいて蚊の鳴くような声で「分かっています、お母さま……」と返すことが精いっぱいなのだ。

 もはや、このような関係性において、「きついお説教」はいっさいの効力を持つまい。少女はクラスメートの輪からはみ出した落第生のような、あいまいな表情でぽつんとその場に立っている。


 ふうっ、とセレイネーズは小さくため息をつく。

 ついてから、満面の笑みで後ろに控えていた彼女の息子を秋人とエルメタインの前に引き出した。


「リリンボン・カル・クシャーナ・アルトナです。おおさま、おきさきさま、こんばんはごきげんうるわしゅう」


 優雅に一礼するおかっぱ頭のその男の子は、やはりリリナによく似ていた。

 それから、とてとて、と男の子はエルメタインに近づいて、その手の甲に軽くキスをした。なかなかそつがない。立派と言えた。


「息子のアルトナです。今年五歳になったばかりですのよ」


 そう言って笑顔を見せるセレイネーズに、二人は苦笑に近い笑顔を向けた。聡明であるはずのこの女性が、二人の笑顔、その意味も理解できないほどにこの息子を溺愛しているのだ。もちろん五歳にしてはだいぶしっかりとした発音、態度ではあったが、驚くほどのことではない。早熟と呼ぶのも気恥ずかしくなるほどのことでしかない。

 そのような思考をめぐらす秋人のことを、五歳の男の子は一切無視して、エルメタインの脇に控えているリリナの方へと近づいて行った。

 それから、ただぼうっと突っ立っている少女を、ぎゅうっと抱きしめたのだ。


「おねえたま、すきー」


 リリナは虚を、突かれた。


 ほんの数えるほどしか会っていない弟である。好きになってもらういわれなどない。だがその柔らかく温かい体からは嘘をついていないことが自得された。いや、このような嘘をつく理由などあるまい、そのようなことに考えをめぐらすこと自体がおかしい。リリナは己の邪推を責める。

 周りの大人たちはまさに子供っぽいアルトナのその行動に、笑いを誘われている。それが、普通というものだ。


 リリナは、弟を抱きしめる。

 金糸で刺繍のされた緑色の服は、絹の繻子(しゅす)(おり)で、しゅるりと少女の手は滑り、ちょうど(とお)、年の離れた弟をしっかと抱きしめた。


 そしてその時とうとう、少女の大きな目からは涙が落ちたのだ。

 ぽろぽろと、大粒の涙が男の子の頬を濡らす。


「おねえたま、ポンポンいたいの?」


 弟のきょとんとした問いかけに少女はなおさら強く抱きしめて顔を見えないようにする。

 誰に?ほかでもない、姉弟の母親に対してだ。

 

 先ほどまでは笑っていた何も知らぬ観衆は、いい気なもので「感動の再開」に自身も涙ぐんでいるお調子者すらいる。しかしこの涙の在りかがどこにあるのか、誰も知ってはいない。リリナにも分からない。だが、弟に会えた嬉しさなどではない、という事だけは知っている。

 そう思うと、確かに自分は何かが欠けている、ダメな人間なのかもしれないな、という感想に行きつく。


――そうだ、母がいつも言っていたように、私はダメな人間なのだ。


 その思惟は、呪いと呼ぶべきだったろう。



「……リナ、リリナ、リリナ!」


 その声は、冷たく暗い水底へと落ちていったリリナの背に、浴びせられたあたたかな光だ。


「リリナ、疲れているようね。お下がりなさいな。――セレイネーズ殿はわたしたちと一緒に」

 にっこりと笑うエルメタインの豪奢な美しさは、さしものセレイネーズをしてそれ以上の言葉を挟ませるものではなかった。


 リリナは弟を下ろすと、一礼して室外へと出ていく。


 すっかり酔いの回った老人の代わりにセレイネーズが席に着くと、いくつかの揚げ物や焼き物が大皿にダン、と並べられる。

「さささ、一献」

 秋人にワインを注がれて、恐縮のような嫌悪のような表情をしたセレイネーズは、しかしその輪の中から離れるわけにはいかなかった。



          2



「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」

リリナの顔は冷や汗ともなんともつかないものでドロドロになっている。


――ダメだああ。


 思考は、そこへ行きついた。

 ほとんど無意識のうちに彼女は自分が「ダメだ」という思考になっている。

 立ち返っている、と言ってもいいだろう。彼女が家を出た十歳までの日々に。


 少女はノロノロとした足取りで夜の街を歩いた。

 王都に近いこの町は治安がいい。

 もちろんリリナを害しうる存在など、『緑の丘』総人口八百万人のうち一パーセントにも満たないだろうが、しかしごろつきなどという存在は、当然だがいるだけで邪魔なものである。

 そういう意味では、静かなことは今の彼女にとってこの上なくありがたいことであった。


 悠太やラギア、ルギア、といった顔なじみに会うのも気が引けて、少女は夜の街をひとり、歩いている。

 おなかは空いていないし喉も乾いていない。というよりも、そういった感覚がマヒしているようだった。

 目的地などはない。この町について識っておこうという物見の気分すらない。ただ左右の足を前に踏み出せば、そのうち景色が変わる、その視覚刺激が彼女の脳を鎮静化させていく。


 つまり、ぼおっとぶらついているのだ。


 かつてリリナは悠太の深夜徘徊を(わら)ったことがある。何の意味もなくぶらつくなんて、なんて何の意味もないことか! と。

 結果として悠太の深夜徘徊は今回の旅についていえば、体力づくりという意味では役に立っていたのだが、もちろんそれは偶然の産物だ。悠太自身も「体力づくり」のためにやっていたことなんかではない。

 歩かずにはいられなかったから歩いた、それだけのことだ。

 それが今は分かる。

 涼しい夜気が、腫れぼったく熱を持っている少女の頬を優しく触る。


 石と漆喰づくりの長屋が続くこの町は「迷路の街」とも呼ばれる。中心部の教会から四本の大通りが螺旋状に伸びていっているからだ。

 もちろん通常の生活ではとても使いづらいが、ここがかつては王都守護における要衝の一つであったからこその造りだ。攻めるとなると、隊列が自然と長くなり、分断、消滅させられることとなるのだ。実際に二回までも、ここで敵の軍団を押しとどめた実績がある。

 そうだ、物事には意味がある。


 では、私はどうだろうか?


 そこまで考えて、もう一度少女は暗い思考のうちに沈みだそうとした時だ。


「あっ」

 声がした。


「あ」

 少女もまた。

 

 悠太は、照れたようにリリナに手を振った。

 リリナは一瞬だけ思考が膠着し、その後には「まったくもう。ここでも徘徊して」と困ったような笑顔を向ける。

 向けようとした。

 笑顔だけは作れた。

 その作った笑顔の仮面は一瞬だけ保たれて、


 次の瞬間、またもやその両目からは涙の粒がとどめなく流れ落ちてきたのだ。



         *



 もちろん驚いたのは悠太である。


 すでにして趣味の域にまで達していた彼の街歩きは「何事もない」をもって完成形となる。

 何もないからこそ淡々と歩き、思考を深められるのだ。

 深める、とはよく言ったもので、要は特に何も考えていない、ということである。散歩の散は、注意力散漫の「散」だ、というところだろう。


 今日も特に何かを求めて歩いていたわけではない。剣の稽古がリリナの母親の応対をした後になんとなく終わりとなり、ピラフに肉と野菜をぶっかけた一皿を胃に詰め込んでから、少年は夜の街へと繰り出していたのである。

 「夜の街」とはいってもこれは歓楽街の比喩でないのは言うまでもないことだ。螺旋状に作られた町というものを体感するのはなかなかに楽しい体験であったが、「迷路の街」というのも故なく名づけられたものではない。通常の市街配置で大通りがまっすぐでないことなどそうそうない。

 美しい弧を描いているのは道だけではない。家々の造りも直線を主としながらも、それぞれがきちんとこのカーブに対応した造りになっている。ゲーテの言ではないが、大通りのカーブと建物が、「凍り付いた音楽」のように優雅なアンサンブルを奏でている。

 

――なかなかいい街だよな。


 散歩中の悠太は、そう思うともなく考えていた。そしてついつい細い道を選んでしまうのはもはや習性であろう。

 この路地裏を行くとどうなるものか、迷子になるのではという不安と、思惑通りに別の大通りに出られた際の快感が彼の行動を決定していた。

 

 そんなランダムな行動がしかしリリナとの邂逅を演出したのだから、少年の「引き」も強いというものである。ただし、その「引き」が吉と出るか凶と出るかは、当然これからの行動にかかっているわけであるが。


 とまれ、涙を流す少女に対して、何もしないというわけにはいかない。そのくらいのことは分かる。分かるが、どうするべきなのか?悠太は大いに混乱した。



「り、リリナ、その、」そこで少年は少女に寄り添い、その手をつかんで、先ほど通り過ぎたベンチへと誘導する。

「ん、ここでいい。それで、どうしたってのさ?」


 ベンチに座りこんだリリナは、何か答えようとして、それから答えたくないな、と思いかえし、わがままにもそのまま少年の肩をかりて泣いた。


 わがままにも? 

 いや、もちろんそんなはずもない。悠太は心臓が口から飛び出る、という比喩がだいぶ真実を含んでいるのだということを知ったが、その一瞬後には、少女が自分を頼ってくれる、そのことに気づいたのだ。

その事実だけでどれほどおのれの魂が、自尊心が満たされるのか、驚くほどその効用を理解する。なにか気の利いたことが言えればどれほどいいだろうか。――しかし現実はなかなかにうまくはいかない。それに余計なひと言よりも、今はただ少女の手、肘、額の置き場として存在すればそれでいい。そう思い直した。

 思い直して、それからまた次の選択肢に至る。彼女を抱きしめるか否か、だ。

 はなはだ逡巡しながらも、その手を伸ばし、抱きしめようか否か、考えに考えたすえ――ぽん、と、その肩に手を置いた。

 抱きしめられるはずもないではないか、と悠太は何者かに言い訳をして、手の重さだけをリリナの肩に置く。



 やがて、長いようで短いその未熟な抱擁はリリナが首を上げたことで解かれた。正確には、解かれたというよりも、ある種のばね仕掛けのおもちゃのように、悠太の手が引っ込められ、ベンチの上に座ったまま「気を付け」のように腕を体に沿わせて固まったのだが。


 くくく、

 と少女は笑った。


 魔法の街灯が二人をおぼろに照らしている。その淡い光源でも、悠太が真っ赤になっていることが見て取れたからだ。

 だがその笑いの半分は、自身の状況に向けられたものでもある。美しい顔はそのままではあるが、目と鼻の頭が白い肌である分赤くなり、その上涙道を通った涙は鼻腔から排出されるから、「はなみず」が垂れている。

 リリナはそんなひどい状態であることも自得し、懐からハンカチを取り出して、己の顔を拭いた。

 拭いてから、もう一度、今度は声に出すことなく、にっこりと笑った。

 二つ年下の少年が心配そうにのぞき込んでいるからだ。

 無理して笑ったわけではない。

 そうではない、そもそも泣く方がおかしいのだ。だから。

 ――そう、だから、少女は、「年上のお姉さん」のように行動した。

 ゆっくりと、両の(かいな)で悠太をかき抱た。



 少年は、先ほど抱っこした小さな弟と同じ、成長期の生き物特有の、生気に満ちた乳臭いような、甘い香りがした。


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