赤朱鷺色の空の下で 2
*
少女はリビングで水出し紅茶を飲んでいた。
どこか物憂げな雰囲気を含んだ瞳だった。
黒いワンピースは午前の陽光差し込むリビングには似合わないが、そこのところを言えば彼女を迎え入れるのに、こんないかにもな日本の家屋、その安インテリアこそ似合わない。
しかしそれでも、少女はまるで幻のようにそこに存在しているし、悠太をしげしげと見つめている。その科学者のような視線に対してすら、彼は少しドキドキした。
「痛いところはないか?」
悠太はこくこくと頭を上下させる。実際快調なぐらいだった。目が覚めたとき、全てが真に迫った夢だったのではないかと疑ったぐらいだ。
しかし、目の前にいる灰色の瞳の少女、その存在自体が昨夜の出来事がすべて真実であったと雄弁に語りかけてくる。
カロン、とグラスの中の氷が鳴った。
「何がどうなって……」と問う間もない。少女は右手をかざすと悠太の発言を封じた。そしてその右手で髪をかき上げると微笑する。耳たぶを飾るターコイズブルーのピアスが午の光に反射する。その色は少女の瞳の中に、陽の加減で差し込む色彩にも似ていた。
「すべてを話そう。その上で君には私を手伝ってもらう」
そう言うと少女は空に指を走らす。
その指の軌跡がグリーンの光を帯びて空間にとどまった。
次の瞬間、その光は紅茶のグラスの横に置いてある地図に重なる。重なって、紙片を光で満たし、やがて一点に集中する、そしてその場所を小さく焦がしたのだ。
悠太は一言もない。
手品などではもちろんあり得ない。
「ここだ」
少女は確信を持って言った。
「ここまでの案内をしてもらいたい」
悠太は紙片を受け取る。縮尺が大きいから正確には分からないが、最寄り駅から二つ行った先の駅前にその点は穿たれていた。
「嫌とは言うまいな」
その口調は、到底「頼んでいる」とは言えないモノであったが、悠太はぐっと口をつぐんだ。なかば絶句していたというのもある。昨夜の少女の動き、あれは自由落下ではなかった。一秒に満たない観察時間であったが、文字通り死に際の集中力は、少女が只者ではないことを彼の脳に刻み込んでいた。そして今目の前で起こった出来事。
「君は……」ごくりとつばを飲み込む。
「君は、何者なの?」
彼のその問いに少女は不思議な質問をするな、という表情を作り、次に「なるほど確かにもっともだ」と腑に落ちたかのようにうなずくと、颯爽と立ち上がった。
両手を胸前にあてて正式な礼を取る。
「我が名はエンリリナ。グリーエルナーサ・ファル・グ・エルメタイン姫殿下の筆頭侍女にして第一黄金位階の魔法使い。重ねて言うが、親しい者はみな私の事を『リリナ』と呼ぶ。ユータもそう呼んで構わないぞ」
にこっと笑う。
その笑顔のなんと魅力的なことか
3
そして、今日。リリナに連れ回されてもう三日になる。
初日はすべて空振り。二日目は午後からリリナを含む女性陣が彼女の買い物に出かけたから悠太はクーラーの効いた部屋でゲームやネットをやることが出来た。
しかしリリナは当然だが諦めることをしない。「明日も午前中から始めるぞ」、と宣言するとさっさと寝てしまった。
悠太の意見など通りそうもなかったから、彼は口を挟まず諾々とついて行った。行ったがしかし、心の中はいつだって冷や汗ものである。
今はまだ普通の格好をしているものの、二日間は質の良い黒のワンピース姿に、母が学生時から愛用しているツバ広の麦わら帽子をかぶっているだけであった。実に目立つ。そもそも彼は世にも珍しい(個人の感想です)「引きこもり」なのだ。人の目が気になってしまう。夏休みなのは実に幸いであったと言わねばならないだろう。
小学生時代からのクラスメイトに会うだけで帽子を目深にかぶり、目を伏せてしまう。目立つことは何よりも避けたい。だというのに、どうしても少女は人目を引いてしまう。第一、そもそも女の子と一緒に行動することに悠太は慣れていない。もちろん妹の伽奈は別ではあるが、彼女ともここ一年ほどは悠太と距離を取っている。
――なのに昨日はあんなにはしゃぎやがって。
悠太は何とも難しい顔を作った。妹はリリナと出かけるのを、不案内な美しい外国人の少女と出かけるのを、いつもつるんでいる同級生たちに自慢していた。
そうだ、「不案内な外国人」。
彼女の語る話に対して、悠太は常に不案内な外国人のような気分でうなずくだけだった。異世界の、魔法使いの語る言葉なのだ、何を言っているのか理解できなくとも仕方のないことではあろう。しかし、理解をしなければ協力するにあたって何事もなしえない。
「僕にも君の世界の事を教えてよ」
悠太の提案にリリナはふむ、と小首をかしげる。
その提案は一日目最初の目的地である、五階建てのビルを見た時の少女の目が曇ったことから始まっている。
『帰還社ビル』と看板には書かれていた。
「うげ」とリリナがうめいたものだ。
「どうしたの?」
「私はここにいる奴らとはちょっとあってな」
「具体的には?」
「あいつらの二番目にえらい奴に『コーヒー』なる物をかけて、指を折ってやった」
「おうふ」
その建物に「目印」が無いのだという事が分かったのはまだ幸いという物だろう。
だがそれから今日までずっとスカされている。それは想定外ではあるが、自分だって少しは「魔法の世界」について知らなければお話しにならないじゃないかと悠太が情報開示を求めたのも無理からぬことだ。
「……なるほどもっともだ」
リリナはうなずくと話しを始めた。
4
「さて、どこから話したものか……」
少女は思案気に唇の下に細く白い指を置く。
「そうだな。まず最初に――」
――原初、混沌があった。
混沌はやがて陰と陽に分かれた。
陰陽は別れたと同時にあい交わり、最初の神である「ナストランジャ」を生んだ。
七面六臂のナストランジャ大神は全知にして全能。
男であり女でもあるナストランジャはおひとりで「宇宙卵」をお産みになった。
「佳し」
そう宣わすと宇宙卵はまばゆい光をあげて孵化する。
それが宇宙の始まりである。
「ビッグ・バン?」
「汝らの科学ではそう呼んでも良いだろう」
ごくり、とペットボトルに入った麦茶を悠太は一口飲み込む。少女の語る内容を飲み込むのはそう容易いことではなかったが。
ナストランジャ大神は宇宙の中で行われること全てをお喜びになった。
大神はご自身の精気からお生まれになった女神たち、男神たち、あるいは大神と同じく両性具有の神々と交わり、数多の宇宙卵をお産みになった。
そして七兆二千億個目にお産みになった宇宙卵はそれまでの七兆一九九九億九九九九万九九九九個のどれにも似ていない、美しき光彩を持つ卵であったから、大神はこれをことのほか喜び、「この宇宙はこのままで佳し」と仰せになった。
それが天蓋世界「フォーダーン」である。
その美しさをナストランジャの第一妃である「フランジャニィ女神」は好まれ、卵の天部に水晶で森をお作りになり、その水晶を照らすようにと太陽と龍道をお作りになられた。そして水晶の森にあって女神は彼女とナストランジャの子である「小さく名もなき神」と交わり、妖精族をお産みになった。
その美しき卵はそれ以外にも数多の神々が愛するところとなり、海が作られ、大地が作られ、山が作られ、木霊種、竜種、水棲種、獣種、地虫種、をそれぞれお産みになった。
さて、ナストランジャはそれらを全て「佳し」となされたが、最後に自らの末子であるエデバを呼び、その卵の底部、緑の地に住み、その世界を総べよと仰せになった。
「しかしわたくしには嫁がおりませぬ。わたくし一人でこの世界を治めるのは無理でございます」
エデバはそう答え、ナストランジャは「確かに然り」と答えられて、エデバの身体を両断した。二頭四肘四膝のエデバは切り分けられたことにより、一頭二肘二膝の――すなわちわれわれ人間と同じ姿になられた。
こうして男と女が生まれたのである。
エデバは「エデビス」と「エデボウ」の二人に分かれ、神の山ウライフに降り立った。
エデビスとエデボウはナストランジャの言いつけどおり、万物の上に立ち、緑の地を統べることとなった。
美しき天蓋世界はかくて水晶の森と緑の地に分かれて、億年の安寧に浸ることとなったのである。
ところで、ナストランジャ神が七兆二千億一個目にお産みになった宇宙はフォーダーンの美しさとは対照的なすさんだ色を持つ卵であった。
神々は「邪鬼の器である」と話し、孵化する前に壊すべし、とナストランジャに諫言したが、ナストランジャ神は「これもまた佳し」と仰りその宇宙卵の孵化を許した。
その宇宙はそれまでの宇宙と同じような挙動を見せ、神々をほっとさせたが、神々の目を盗んで、ある者がその宇宙で暗躍した。
ナストランジャに敵対する者、「ヒ」である。
ヒ神は抜け目なく七兆二千億一個目の宇宙、その片隅にフォーダーンと似たような世界を作り、「エデビス」と「エデボウ」と全く同じ生き物を作ることに成功した。ただ、その者たちは緑の地に住まうエデバール(エデバの子孫=人間)と違い「悪の心」をその身に持っていたのである。
ヒ神は美しきフォーダーンを内側から腐らせようと、それら「地上に棲まう者ども」をエデバールの地へと送った。
「地上に棲まう者ども」は狡知を持っていたから、無垢なるエデバールはたちまちのうちにその領土を狭め、さらには血を混じわらせることとなった。
「罪」の始まりである。
やがて、「地上に棲まう者ども」との混血がすすんだエデバールたちは、過剰なる欲を持つことになる。
「差別」と「戦」の始まりである。
戦乱に次ぐ戦乱の後、緑の地は「大英雄ロウ」の「帝国」が支配するところとなった。
かつては一人びとりが奇跡とも呼べる魔法の力を持っていたのだが、「地上に棲まう者ども」の血は濃く、この時魔法を使える者は既に十人に一人になっていた。
「本当なの、それ?」
「本当、とは?」
「神様が七兆の卵を産んだとか」
言ってから悠太はまずいことを聞いたか?と思い直す。「信仰」している人の気を悪くするのではないか、と思ったからだ。
だが案に相違してリリナははっと鼻を鳴らして笑った。
「すべてが真実ではないだろう。というより魔法学的にこの創造神話は矛盾だらけだからな。そこのところは『おはなし』として受け取った方がいいだろう」
「帝国」は数千年の長きにわたり大陸全土を統べるに至ったが、最終的に奢侈と乱倫が世を乱し、大陸は葦のごとく乱れ、群雄割拠の時代が訪れる。
やがて東西南北に興った四英傑が群雄を平らげ、我こそはと覇を競っていた。
この機に乗じてヒ神は「暗黒龍ガラバグ」とその軍勢を緑の地に解き放つ。この危難に際してもなお互いに一歩も譲らず、いさかいを起こしていた四英傑は劣勢に立った。
だが帝国最後の皇帝「ルーシャレット十三世」の計らいによって四英傑は不可侵条約を結び、大陸を四分割することによってそれぞれがそれぞれの国を建てた。
その上で四ヵ国連合軍は「戦乙女サラファンディーナ」を主将に、暗黒龍軍との大会戦を、ウライフ山の西麓に広がるエンミドラ平原にて開いたのである。
妖精族の助力もあって連合軍は辛くも勝利を得た。しかしその結果としてサラファンディーナは死に、帝国皇族も混乱の責任を取って自ら「地上」へと堕ちていくこととなったのだ。
最終的に東西南北の四つの王国がそれぞれ「帝国」からの正統をもって任じ、緩やかな鎖国政策と、表裏一体の小競り合い。さらには王国から独立して活発な貿易を行う自治領がそれぞれの役割を良く果たし、世界は対立という名の安定期に入ることとなる。
そして三百年がたった。
「ある日、西王国に珠のような女のお子様がお生まれになったのです!」
リリナは黄緑と緑のラインが引かれた銀の車体がホームに滑り込むのにも気づかずに、キラキラとした目で歌うようにそう語った。
閑散とした平日昼前の時間帯であることに悠太は感謝しつつも、それでも幾本かの視線を感じ取って、夏の暑さ以外の理由で背中に汗をかくのを感じ、慌てて少女の背中を押して電車の中に押し込む。
姫君の侍女はわれ関せず、と言った風情で話を続ける。
西王国にお生まれになったお姫様は、褐色の肌と赤銅色の髪を持つそれはそれはお美しい少女に成長なさりました。
お美しいだけではありません。魔法こそお使いになれませんでしたが、八歳でおつきの家庭教師の論理的間違いを正し、十二歳の折には王立大学で十歳近く上の貴族の子弟たちと政治について討論し、そのすべてで勝利を収めたのです。
勝利!
その光輝はお姫様の前に常に当然の果実として用意されているかのようでした。
十三歳の誕生日、南王国との国境紛争の際には、自ら先陣を切って銀毛の羚羊馬を駆り、三倍の兵力を持つ南王国軍を側面から分断し、勝利したのです。それだけでなく、ご自身も矢傷を負いましたが、南王国の将軍の首級をおあげになるという勲功をお立てになられました。
西王国はもちろん、南王国からも「戦乙女サラファンディーナ」の再来と讃えられたお姫様はそれからも病気の王様をお輔けになられ、不作で苦しむ民があれば税を免除してやり、訴訟があれば双方が納得できる落としどころを見つけてあげ、悪代官に苦しめられる村があれば黒髪の侍女とともに懲らしめてやる。
まさにお姫様の行くところ、その足跡にすら黄金の光輝が残される、そのように人々は口にしていました。
ところがです。
ある日突然、お姫様のお父上であらせられる王様が身まかられたのです。
御幼少のみぎりに母上を亡くされていたお姫様の嘆き悲しみようは深く、四十日もの間泣き暮らしておりました。しかし、ようよう悲しみから立ち上がり、国葬を終えたお姫様のもとに、ある一人の青白い顔をした刑吏が突然、このような口上を述べ、来訪したのです。
「今すぐに次代の王を指名せよ。さもなくば御身は死罪である」
と。
なんという事でしょう、西王国にあって女王は認められていなかったのです。
賢君と名高き東王国のサーレーン女王をはじめ、ほかの三王国にあって女王はごく普通に認められた存在であったのに、西王国王家にあって女性は「王の娘」か「王の妻」という形でしか認められないのです。
女性が続いた王家にあって、今現在王の血筋と呼べるほどの男児は姫様の従従姉弟に当たる七歳のファクベル殿下ただ一人しかありません。
もちろん今や二十三歳、光り輝くように美しいお姫様と七歳の子供との結婚など考えられませんが、何よりもファクベル殿下の後見人をお姫様はお嫌いでした。
いいえ、誰だって彼の事は嫌うでしょう。高慢ちきで嫌味で吝嗇。ファルファッロ・アーチスタイン・ゴロメイア男爵はそのような人物なのです。
何度もお姫様に言い寄っては振られ、最後には余りにしつこいものだから文字通りの肘鉄を脾腹にお喰らいあそばされた際に、身長の低さをごまかすために履いていていたひときわ高い踵の靴が仇となり、足をひねって転倒し、男爵はひどい捻挫を負うこととなったのです。
魔法で怪我そのものはすぐ治りましたが、満座の席で無様に転げ回り、恥をかかされたと怒り狂った男爵は執念深くも復讐の機会を耽々と狙っていたのです。
とうの昔に死文と化した帝国時代の法律、「後継を選ぶ権利をほしいままにし国政に混乱に陥らせたものは死罪」を持ち出し、姫様を捕らえたのです。
次代の王を任命できる者は王その人か、その遺児に当たらせる。というのが西王国の正当なやり方でした。五〇代にして意識を失ったまま帰らぬ人となってしまった王様に決められるはずもありません。そうなると王女様が決める他はないのですが、慣例ではこのような状態になった際、二年間は服喪なさり、王はその後に決めるとされ、姫様もそのおつもりであったのです。しかし、ファルファッロ男爵は三百年近く前の判例を取り出してお姫様を捕らえ、幽閉したのです。
元老会議により姫様の処遇は決められることとなりました。
判決は「丸一日以内に王位継承者を決めよ」と言う物です。
「難しいことではあるまい?」と、王国において王に次ぐ権威と領地を持つゼルエルナーサ・ファロ・イーハ・カロン侯爵は嘆息気味に仰りました。
「ファクベル殿下を婿にすればいいだけだ。ゴロメイアなど貴女の才覚でいかようにでもあしらえるだろう」
しかし王妃は王妃になってしまえば後宮と言う籠いの中の鳥です。王女時代のように街に出たり、ましてやお供数人で旅に出たりするなど許される筈がありません。
もちろん王位をファクベル殿下に譲り、お姫様自身は臣籍に降下するという選択もあります。その方があるいはお姫様おひとりの身としては望ましいことでしょう。けれども、それはファルファッロ男爵を王の後見人にするという事に他なりません。
とてもそんなことはできない相談です。
姫に選択肢は無いように思えました。
しかしそんなことはなかったのです。
姫に影のようにお仕えしているリリンボン子爵が第一子、リリンボン・ゼ・クシャーナ・エンリリナは魔法使いでした。それも若くして王国最高と言っていいほどの。
お姫様は忠実なる侍女にこうお命じになったのです。
「帝国皇家の血筋を色濃く引く男子を我が婿として連れてくるべし」
と。