天蓋世界 3
「俺はだから知りたいんだ、この世界を作ったのは誰なのか、ということを」
*
ふふふ、と妖精の王は笑った。
くすくす、と妖精の女王は笑った。
*
「人はなぜ、同じような問いを持つのでしょうね」
「そしてなぜ、真実を求めようとするのでしょうね」
王と女王は静かな笑顔を作る。まったく完璧な美貌だ。エルメタインの美しさも人を越えていると思ったが、それ以上のものがあったということだ。
「そうです、さすが地上の方、ここに来た誰よりも正解に肉薄していましたよ。もっとも、正解にたどり着くためには情報が少なすぎなんですけどね」
「その通り。エルメタイン姫もお聞きなさい。この世界の成り立ちを」
いつのまにか突然に、妖精王の手には光る球が出現していた。その光球から様々な色彩が流れ出てゆく。赤、青、黄、白、そしてその奔流は秋人とエルメタイン、二人の肉体を包み込んで――
4
西暦2070年、この時を画期とすべきだろう。
この年、人を上回る人工知能が生まれた。
人を上回る、と言ってもそれは何をもってそう言えるのか、という定義の問題がある。純粋な加減乗除の計算であったならその誕生と同時にコンピューターは人間を越えていた。
とはいえ、一つの目安はある。一秒あたり百京回の浮動小数点演算を行えば脳のシミュレーションはできるとするものだ。
そのこと自体は装置を巨大にすれば二十一世紀前半でもできた。いわゆるスーパーコンピューターを並列につなげればいいのだから、予算が無限であればできるのだ。しかしもちろん現実に予算は無限ではない。
欧州共同体の「ヒューマン・ブレイン・プロジェクト」をはじめとした脳シミュレーション研究がいくつもの技術的ブレイクスルーを経た後、真の意味での「技術的特異点」が訪れたのが2070年だったのである。
そのコンピューターは正十二面体の黒い物体だった。大きさはサッカーボールより一回り小さい。
ギリシアの知恵の女神の名をとって「メ―ティス」。
消費電力は124ワット時。この数字が意味を持つ。
それは、成人男性の一日に消費するカロリー(3000キロカロリー)を電力に換算した際の二十四分の一以下だからだ。
文字通りの意味での人工頭脳。それは人が新たな発明発見をする必要のなくなった日であった。二十四時間365日休むことなく思考し続け、「霊感」をすら持つ知能。恐るべきはそのスペックではなく、その持続性であった。
爆発的なヒットとなったメ―ティスは全世界で200万台売れた。
「メ―ティス2」がその翌年にリリースされ、その性能は1・5倍。売れ行きは倍。そしてその翌年の「3」はそのさらに1・5倍の思考速度を持っていた。つまりそれは人間の2.25倍の「賢さ」を持つ存在である。
それが何を意味しているのかさえ、もはや人類の中で理解しているものは世界最高の天才であってもいなくなっていた。そんななか、メ―ティス3は、とうとう人間の脳の完全な解析に成功した。それはヒト由来の「機械」が自然由来の「ヒト」という種を完全に凌駕した時だった。
人間にとって幸いであったのは、「人工知能の反乱」というカタストロフが起きなかったことだろう。「メ―ティス」とその子供や孫、あるいは同時多発的に生まれた出自の違う「知恵の神」たちは、少なくとも自らを「親孝行な子供」と規定しているようだった。
より正確に言えば、「ポケットマネーで十分手厚い支援ができるほど稼いだ親思いの子供」というべきか。
それからおよそ半世紀。
人間の諸問題はおおよそ解決した。
科学技術は刷新され、エネルギーの問題はなくなり、それによって経済は安定し、貧富の格差はかつてないほどに縮まった(あるいは気にしない程度にまで、というべきだろう。どれほど猛烈に働こうとも、ホワイトカラーが機械以上の成果を出すことなど不可能なのだから)。
戦争などはイの一番に無くなった。宗教も哲学も終わり、その部分のいさかいもなくなったからだ。神がいるにせよいないにせよ、人間が理解するには難しすぎ、長すぎる完ぺきな理論が構築され、それに反論できる神学者はどこにもいない。
そもそも、十分な雇用が発生し、人生についての不平も不満もなければ、誰が戦争など引き起こすであろうか。
当然環境問題などもきれいさっぱり消え去り、たまに起こる自然災害こそ完全な予知こそできないものの、完全な事前の備えによって被害と呼べるようなことは起きなくなった。
もちろん病気も風邪から癌、精神病や大けがまで、圧倒的な速度で無くなっていった。不老不死自体はできなかったが、しかしパーソナリティを完全に保存し、ネット上でほぼ無限の娯楽を手に入れることになる。
機械たちの作り上げた仮想現実のフィクションはシェイクスピアもはだしで逃げだすほどの完璧な物語を無限に作り続け、倦むことを知らない。
ただし、事ここに至って一つの問題が起こった。
人が子を産まなくなったのだ。
ヴァーチャルの世界でいくつもの人生を生きている「ヒト」たちは、生物学的な意味で子を産み、育てるという手間をとらなくなっていたのである。
二十二世紀後半、すでに地球上に呼吸し、食事し、生殖をするという意味での人類の数は二億人を割っていた。
ネット上にはクローンを含めて300億の人格が享楽を極めていたが、この二億という人間が減りこそすれ、増えることはないという計算はすでに確定的な事項であったのだ。
例外的に「機械」たちの作り上げた理想郷から距離をとっている者たちもいた。十七~八世紀の生活をあえてそのまま守り続けるアーミッシュと呼ばれる者である。そしていわゆる「出家者」がそうだ。だが、それとて時間の問題で消えていくように思えた。否、思えた、ではない。「機械」たちは計算によってあと三世代で生物としての人は滅びるという確証を得たのだ。
「機械」たちはそれを惜しんだ。
もちろん今や彼らの能力は人間という生物を量子レベルで「捉え」て「保存」することができるから、いつでもデータベースから生身の人間を作り出すことができる。電脳空間に住む300億の人々も、望むのならばいつでも「受肉」できるのだ。
だがそれは違うのだ、と「親思いの子供ら」は理解していた。彼らの精神的メンテナンスを続ける中に、「ここがヴァーチャルなのだ」という「悔悟」がぬぐいきれない部分あるのを知っていたからだ。
なぜなのか?
リアリティがないわけではない。むしろ好みに応じて生身の肉体が感じ取れる情報の数十、数百倍の情報がネットの中にはある。
麻薬の王様と呼ばれるヘロインの与える数千倍の多幸感に包まれるもよし、現実の千分の一以下まで抑えられた痛みを感じながら、巨剣でティラノサウルスレックスを狩るのもまた一興だろう。
完璧な美貌と性格を持ったパートナー数名と数百年にわたって、愛憎に包まれた生活を送るのも悪くはない。
もちろん「機械」と合一して、これまでの人類が到達したことない知の深淵を覗き見ることも可能だ。
だが、既に「宇宙の果て」(あくまでもこれは比喩だが)の観測にも成功した「機械」たちにしても、完璧な仮想現実世界を完璧と思わない人の性向には首をかしげていた。
であるのならば、と親思いの「機械」は考える。ヒトにとっての真の理想郷を作ろうと。
それがフォーダーンである。
月と地球の間、ラグランジュ・ポイントに作り上げられた長さ五千キロメートルの巨大な卵。
最も普遍的に人気のある中世時代をベースとしたファンタジー世界。
超微小ワームホールの位相差を動力源とするナノマシーン・『魔素』が充満したその世界には、魔素を自在に操れるインターフェイスを遺伝子に有した「魔法使い」のみが記憶を操作されて百万人規模で入植させられた。
その上で、彼らを善導すべき役割を持つ人造人間(ビメイダ―)「妖精族」もだ。
およそ百年に及ぶ観察の結果、このフォーダーンという実験はうまくいったように思えた。
第二、第三世代と代を重ね、すでに元の「リハビリテーション施設」としての役目を終え、閉生態系として新たな「ヒトの住む場所」として機能していった。ヴァーチャルの世界よりもなお精神健康状態の平均数値は高い。
人間の持つ「世界を解明したい」、つまり「真実欲」を鎮めるために、妖精族はあえて筋の通る、しかしどう踏み込んでも袋小路に陥るような「理論」と「証拠」を捏造し、魔法研究者の人生を充実させることにさえ成功した。
魔法を用いた生活は、「機械神」たちの考える「健康で文化的な最低限の生活」の尺度を越えていたし、数百万の人間の中で、搾取され、足蹴にされている例外的な存在に対しては「神の奇跡」として恩寵を与えもした。かくて、世界は安定した数百年を過ごす。
だが、イレギュラーが発生した。
なぜそんな事が起きたのかは分からない。すべてが計算の範囲外であった。
人の意思が奇跡を起こした、そう呼ぶべき事象である。
当然であるがフォーダーンの「外」へは「魔法」では行けないようになっている。いわゆる「ナストランジャの枷」の最初の一つだ。
しかし「ここではないどこか」へ行きたいという人間の意志は、「機械神」の想定をも超えていた。
魔法は「どこか」に繋がってしまったのだ。
それがどこなのか、妖精族たちの調査によってその場所が、否、その時代が確定されたのはようやっと二年の時がたってからだった。
「機械神」にとって想定外の事態であったのもあるが、この事象の地平線のさらに先にある「想定外」自体が今となっては「機械神」の最も知りたい「事象」になっていたのだから、調査は慎重の上にも慎重をもってなされた。
そしてその間にフォーダーンの民は数多くがその地に流入し、いくつもの「魔法」という名の奇跡を、かの地に残すこととなる。
その地。
紀元前二九〇〇年代の地球、人類文明揺籃の地、豊かなるチグリスとユーフラテスの挟間に。
*
秋人は絶句して、それからわなわなと震える声を発した。
「何を馬鹿な……」
何が「馬鹿」なのだろうか?すべてが、そう、何もかもが「ばかばかしい」話だ。
「確かに、すべてを飲み込むには時間のかかるお話ではありましょう。しかし我々は紀元前二九〇〇年代のイラン高原の地層から、『魔素』の残骸を発見しました。ワームホールは、間違いなく過去の地球と繋がっていたのです」
王は、炎の髪をエアコンディショナーの風になぶらせながら語りかける。
秋人は思っていたことの半分ほどが当たってはいた。だが、喜ぶ気にはなれない。むしろ当たってなどいてほしくなかったのだ。
エルメタインにしてみれば、話の中に出てくる単語の半分も理解できなかった。できなかったが、持ち前の聡明さと、なにより説得力のある映像が彼女の理解を助けた。それは、納得のいくものであった。
「要は、あれか、……フォーダーンはアミューズメント施設だってことか」
「その解釈も一つの真実でしょうね」
女王は静かにほほ笑む。
「『帰還社』が帰りたくて帰りたくて仕方のなかった世界が、機械の作った精神安定のための遊園地だったってのかよ!」
秋人は背の低くて丸まっこい、唯一無二の相棒のことを思い出す。
伊藤俊介をはじめとした帰還社の面々は無邪気にフォーダーンは「高位の」、あるいは「真実の」存在だと思っていたのだ。だからこそ彼らコンビは世界の裏側で暗躍し、人をダース単位で殺してきた。
それは善悪ではなく、より「真実」に近づく行為だと思っていたからだ。殺していった相手もそこだけは、その点においては共通認識を有していた「同志」だとさえ言える。
そこが覆された。
「はははははは!」
秋人は右手で顔を覆って笑う。笑うしかない。
こんな滑稽なことがあるだろうか。
フォーダーンは遊園地だ、いや、動物園というべきか。そうではないな、頭のいい動物は動物園の生活にストレスを感じるとも聞く。だとしたら、せいぜい俺たちは「良き飼い主に恵まれたヤモリ」程度の存在でしかないのだ。
秋人は甘く見ていた。甘えていた、と言ってもいいのかもしれない。彼の違和感を、彼の仮説を、妖精王ならば、女王ならば、粉微塵に打ち砕いてくれると信じていた。「なるほど納得できる」と腑に落ちる説明を期待していたのだ。
だが、現実は自分の仮説よりもっとひどい。
これはいったい、何の冗談なんだ?
*
――ああ、この世界を毀したいな。
哄笑がやみ、静かな部屋の中で秋人はそう思っていた。




