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ハザリク市市街戦 3

              *



 平服の男たちが八人、足音を立てずに廊下を歩いている。

 全員が着丈の長い、袖のない上着を羽織っている。

 腰に佩いている短剣を隠すための衣装だ。

 細身で均整の取れた肉体をしている。表情や顔つきからは何も読み取れない無個性な男たちだったが、しかしその眼にはある種の凄みがあった。

 真っ暗な洞穴のような、その中に人を害する何者かが潜んでいる、そう予感させる血なまぐさい暗黒が男たちの眼窩(がんか)の中に()まっていた。


「トールンダ小母さんの宿屋」、その一室。

 リリナと悠太がとっている部屋である。

 宿どころか町中の皆が皆、息をひそめて時ならぬ戦いが過ぎ去っていくのを待っているから、侵入するのは簡単であった。

 亡霊騎士団(モトゥムール・ブラーコ)の擁する『不死者(エデカント)』たち。もちろんその名称は、亡霊騎士団(モトゥムール・ブラーコ)一流の諧謔(かいぎゃく)である。


 未だ『亡霊』に成れていないのだから、不死、なのだ、と。


 しかし、よく訓練されている。一般の正規兵程度ならば五対一でも有利に戦闘を進められる。

 八人の不死者たちは腰から剣を抜いた。短剣であるが、むしろ室内戦ではこのくらいがちょうどいい。長剣を振り回して、柱や梁につっかかりでもしたら目も当てられない。

 男たちは目くばせをしあう。

 二人の男が息を合わせて扉に蹴りを食らわせる。

 安普請まではいかないが、重厚とはなお言えない扉は、金具を吹っ飛ばせて室内へと吸い込まれていく。次の瞬間、残り五人の男たちも含めて、男たちはつむじ風のように室内へと滑り込んでいった。



「かかった」

 リリナは釣り師のような口調で釣り師のような言葉を吐く。



「?」


 室内はもぬけの殻だ。どうやらどこかに移動したものらしい。一杯食わされたが、それもまた予定の内にはある。

 男たちの体から今までの緊張が解ける。

 だから、そうだから彼らは騎士に、亡霊騎士(モトゥムール・アリ)に成れないのだ。


 寝台の上、毛布の中がぼうと光る。

 人工精霊。

 その緑色に光る嬰児が腹部から魔法を生成する。より正確には人工精霊は魔法へと「化け」たのだ


蛸蛇(グズール)


 かつて、シャボリー城砦においてラグアとルギアの双子をも難なく「仕留め」た魔法である。そしてその能力を今は十全に使用できる。

 八人の男たちは一瞬にして人の指が生えた蛇のような、蛸のような半透明の触手に絡めとられる。

 絡めとられた次の瞬間、今度はそのすさまじい圧力が襲う。

 肋骨が、上腕骨が、大腿骨が、その他もろもろの骨がその圧倒的な力によってミシミシと鳴り、次の瞬間にぽっきりと折れた。

 そして意思持つ魔法は一人一人の首に巻きつくと、今度は手編みのマフラーを巻いてくれる恋人のようにやさしくその首に巻き付き、一瞬にして頸動脈を圧迫し、意識を喪失させる。

 すべてが終わるまで十五秒とかからない早業であった。



           *



「……そうか」



 だが、そのことすらも。

 黒い影のような男は屋根にあって、人工精霊と、ゴッサーダたちの動きを読んでいた。読みながら、不死者(エデカント)の動静を知らされる。

 彼女たちが自身の宿屋をそのまま指令所とするかどうかは半々の賭けであった。もちろん出て行った痕跡はなかったが、それは彼女ほどの魔法使いであればどうにでもなる話である。

では、どこにリリナはいるのか?

 ユング正師(ムラン)はじっと青空を見る。正確にはそこにある人工精霊たちを。

 人工精霊は半ば実体化した「魔法式」の塊だ。実に便利だが、半ばとはいえ実体化しているということは、物理の法則の影響もまた受けるということである。瞬間移動はできないし、透明化もできかねる。そして、であれば、その動きと、ゴッサーダたちの動きまで計算すれば、彼らの指揮所が分かることになる。彼は懐の地図の上に、人工精霊のこれまでの動きと、ゴッサーダが進む道から、解を弾き出した。


 ハザリク市市庁舎。

 そして、時ならず市庁舎の時計台が鐘を鳴らす。

 ユングは鐘を見る。正確には時計台を。高さはおよそ二十メートルか、市内全域を一望のもとにできるだろう。


 ふむ、とつぶやく。


 将帥ならば誰だって、見晴らしのいいところに指令所を置きたい。百人いれば百人がそうだ。


――ほうほう、なるほどそうか。


 ユングは、否、影法師は静かにそして人間離れした速度で市庁舎へと向かう。

 

 

          5



「やったの?」

「ええ」


 「蛸蛇(グズール)」による罠を言い出したのはリリナである。姫君であればどう行動するか、と考えた末、口に出た提案であった。

 その案がドンぴしゃりとはまったのだ。興奮しないわけにはいかない。

 完全かつ完璧な勝利。

 少女は小鼻を膨らませる。


 ハザリク市市庁舎はレンガと木造の融合した、重厚なのにどこかおもちゃっぽい、いかにもハザリク市らしい建築物であった。その隣に建っている時計塔は、日に四回、ハザリク市の自治を勝ち取った四人の勇者と一匹の牝熊の物語をからくり時計として奏でるのだ。観光の目玉でもある。


 ぎぎぎっと、からくりが動き出す音が部屋中をスピーカー代わりに大きく唸った。


 チーン、チーン、と、市街の半分ほどに響き渡る鐘の音は、時計があるすぐ下の階、かつては時計の不寝番が寝泊まりしていた部屋にはものすごく響く。ゴッサーダの「顔」によって易々と借りられた臨時の指令所である。であるが、その大音声に、紅潮していた少年少女は眉をしかめて耳を抑える。



 次の瞬間。


 音もなく(多少の音は鐘の音にかき消されただろうが)開いた扉から、影法師が一つ飛び込んできた。

あっさりと、あまりにあっさり悠太の心臓は影法師の剣に背後から突き刺され、割かれた。



 耳を聾する鐘の音。



 おのれの胸から生えた鋼を呆然と見つめ、少年は、その場に崩れ落ちる。



 牝熊のカラクリが、悪神の形をした鐘を割れんばかりにたたく。



 少女はその光景を不思議そうに見ていた。怪訝そうに、と言ってもいい。この影法師は本当にこの場にいるのか?夢じゃないのか?と。そう訝しんでさえいた。

 彼女の防御、探知魔法はこの影法師、ユングを捕らえられなかったのだ。そんなことってあるだろうか?

 考えにくいなあ。

 そう思いさえした。

 だが、少年の最後の呼吸が吐き出させた鮮血はそんな衝撃を洗い流すに足るものであった。



ふいご仕掛けの笛が鳴る。


 

 影法師は走った。


 「ユータ!」少女はほとんど悲鳴を上げながら、しかし魔法の若枝を振るう。 

 防御魔法。

 間一髪。

 影法師の片手剣は弾かれた。

 しかしそんなことが考慮されていないはずがない。

 影法師は弾かれたまま、すっと身を低くして滑らかに移動する。なんということか!そうなればその影法師は影そのものと化し、薄暗い部屋のそこかしこに(わだかま)る影と見分けがつかない。

「くっ」

 リリナは右を、そして左を見た。

 彼女の防御魔法は楕円形の球状だ。右から来ようが左から来ようが関係などない。だが、それとこれとは別だ。この男の動きは、師から聞いていた。魔法使い専用の殺し屋のそれだ――。


 思考もそこそこに、部屋が爆発する。

 正確には爆発したのはユングの投擲(とうてき)した炸裂弾だ、だが、その程度では彼女の魔法障壁はびくともしない。いや、おかしい。爆発の衝撃は少ない。少ないがしかし煙が多い。煙の量が、更には色までついている。

 朱色、青、黄色。

 なんだこれは?


 思う間もなく、何者かが動く気配があった。



 ドンドンガシャーン、とシンバルと太鼓が打ち鳴らされ、フィナーレは近づく。



 ――魔法障壁は、真に全周を守っているわけではない。そのように作りこまれた魔法「隔壁」とでも呼ぶものも存在するが、そこまで行ってしまうと、敵の攻撃も受けない代わりに、自分の攻撃をも防いでしまうのだ。そのうえ、作るのに少なからざる時間がかかる。

 そして、魔法障壁に必然的に開いている「穴」。自分の攻撃を通すための文字通りの「穴」、それを探るのがこの魔法の道具、「探煙」であった。その穴はもとより物理的なものではないから、通常の煙で探知できるわけではない。しかし、いかに高度な魔法の障壁であっても、それは構造上開いている部分なのだ。


――見つけた。


 この狭い室内にあっては、「探煙」の効き目は早い。

 ある種のマーブル模様が「穴」の存在を教えてくれた。そこに彼が有する魔法破壊の「釘手裏剣」を打ちこむ。

 手練れの一閃。

 魔法障壁がシャボン玉のように割れるのと、リリナが光の箭を打つのは同時であった。しかし対魔法使い戦闘、プロ中のプロであるユングに対して、その攻撃はまっとうすぎた。


――心臓、うん。打ち込めるな。

確信。

 ユングは懐に忍ばせた武器の安全装置を外す。


 とその瞬間、彼は脚に違和感を覚えた。


 ふくらはぎを薙ぐ冷たい異物。

 伏兵か?

 そうではない。

 煙の中から出てきたその顔は、悠太のものだ。

 

 呪霊刀八番の魔法が彼の「死」をなかったことにした。

 むろんその程度のことを驚くユングではない。なるほど確かに心臓を刺したが、それでも死なないなどということもありうるだろう、と思うのみだ。


 では、もう一度死ね。彼は右足の怪我を無視し、左手に持った片手剣を少年に振り下ろす。


 その必殺の一撃を、悠太は恐れることなく一歩進むことによって受けた。

 今さっき死んだのだ。二度目はない。なのに、少年は進んだ。

 進む以外に何があるだろうか。

 

「がああああっ!」


 悠太は喉も裂けよとばかりに叫ぶ。その叫びは最後の力を振り絞るために必要なものだったからだ。

 襲撃者の片手剣をその根元で受けた、しかし受けた、といってもそれは即死を避けたという程度のことに過ぎない。最も切れる部分での、最も切れる攻撃を避けただけであって、刃物は刃物だ。

皮膚が、血管が、筋肉が、鎖骨が、肩甲骨が、肺が断ち割られる。

 だがそれはユングの刃物を封じたということでもある。肉を切らして骨を断つ、どころではない。骨まで、内臓(はらわた)まで断たして、その上で!


 ギラリ、と少年の左手に握られた血まみれの呪霊刀は、ユングの首に突き刺される。遠慮も、会釈も、躊躇も、おそれも何もない必殺の一撃であった。

 

――この小僧! 俺を殺すために二度死ぬか!


 ユングは悠太の胸を蹴り、距離をとった。首に刺された呪霊刀は喉を切り裂いたが、幸い切れたのは食道と気管であって、頸動脈はいまだ無事だ。無事とはいっても、余命についてはあと三分といったところだろう。


 だが、三分あれば仕事はまっとうできる。


 ユングは懐から「M1911 コルト・ガバメント」を抜き出すと、リリナに照準を合わせる。

 意外な武器。だが、かの魔人ゴーズ・ノーブも持っていたのだ、不思議はない。だが、不思議はその後に起きた。その銃口を見た少女は、一瞬、動きを止めてしまったのだ。かつて地上世界でさらされた銃火の記憶は、リリナの柔らかい心に傷を負わせていた。それが、この瞬間に、少女の動きを制した。まるで蛇ににらまれた蛙のように。

 しかし、拳銃を握ったユングの腕に「何か」が飛来する。それは、氷の刃を持った呪霊刀だった。

 サクッとほとんど何の抵抗もなくユングの前腕は切り落とされ、その時にはゆっくりとではあるがしかし確固たる足取りで拳銃を少年が取りに走っていた。

 

「む」

 ユングも拳銃を残った手で拾おうとする。

 少年はほとんど倒れるように(まったくそのままの意味だ。こけた、と言ったほうがいいかもしれない)跳躍すると、顎をしたたか床に打ち付けながらも拳銃を手にする。


 そして――



 銃声は、最後の大きな鐘の音にかき消される。



――おお、そうか、今日がその日だったのか。私が亡霊でなくなる日は、今日であったのか。 なるほど、この目、良き目だ。私が死ぬのもよくわかる。私が死に、戦士が一人生まれたというわけだな。 ふふふ、そうかそうか、この少年が育てば、きっと…素晴らしい……亡霊騎士(モトゥムール・アリ)になることであろうよ…………


 そうして、目と目の間に鉛の弾丸を受けた影法師は、深く濃い影のもとへと去っていった。


 ユングの肉体からは何かが抜け去り、今はもうかつてユングだった肉体しか残されていない。

 後にはただ、少年と少女が残されるのみだ。



         6




 時計塔の部屋の中、少女は、少年を殴っている。

 殴っている、とはいってもその拳は軽い。幼児の肩たたき程度のものだろう。少年も甘んじてその拳を受けている。

 困ったような顔をして。

 なぜなら少女は、泣きながら少年を叩いているからだ。


 どうしてそんな無茶をしたのか、と怒りながら。少年がおのれの意思で殺人を犯したことを悲しんで。そしてその直接の原因が自分にあること、に関しておのれを責めて。その上で、混乱した感情は目の前の少年を力なく、しかし間断なく叩く、という行為を選ばせたのである。


 つまり、リリナと悠太のこの状態は、


「イチャついてるわね」「そうね、イチャついてる」

「ムカつくわね」「ええ、ムカつく」

 ルギアとラグアは憮然とした表情でそう評すると、白髪白髯の主のほうを向く。


「わたしたちも頑張ったし、イチャつきたいんですけど」「けど」

 

 ゴッサーダは苦笑して「まあ、そのうちだな」と答える。

 この武人に社交辞令はない。それは確約と言えた。双子は、細い目をさらに細めて、年相応のはつらつとした笑顔を作った。



「そろそろボクの傷も治してもらいたいんだけど……、忘れられてる気がするなあ」

 時計塔を見上げたカリオンは、市庁舎の前庭にある石造りのベンチにへたり込みながらそうつぶやくのであった。



         *



 すべては終わった。

 悠太とラグアの(そして遅れてノーギス・カリオン青年も)負傷はリリナの魔法によって事なきを得た。ルギアはその手さばきを見て舌を巻く。彼女も年若いとはいえ、父と、そして主とともに大小の戦場を見てきたのだ。その中でもこれほどの治癒魔法を操るものはいなかった。


「私たちが負けるのも当然か」


 声には出さずそう述懐する。

 そして現場指揮官を失った亡霊騎士団(モトゥムール・ブラーコ)たちはなお闘争する、などという愚を選ばず、三々五々消え去った。

 後には、血と、そしてゴッサーダの魔法装具によって人の死体とも思えぬほどに破壊された「残骸」が残されるのみだ。

 ゴッサーダによって縛められたスハール少年もいつの間にやら消えている。もちろんそれも当然だろう。彼もまた亡霊騎士(モトゥムール・アリ)なのだから。


 ファルファッロ男爵は逃げた。お供の兵たちも主人を守るという行為を放棄して勝手に逃げるが、むしろそれは功を奏した。彼の逃走路を攪乱した、とさえ言える。

 だがしかし、リリナが捕らえた『不死者(エデカント)』の口からは様々な情報が入手できるであろう。大勝利、と言えた。

 

 だが、市庁舎の衛兵と、警護兵たちが押っ取り刀で駆け付けた時には、六人もさすがにちょっとげんなりした顔になる。

 逃げるか、戦うか、それとも説得するか。

 花が咲き乱れる(温泉を引き込んで、鉄骨とガラスで作られた温室植物園となっている)市庁舎の前庭で、長い木の棒を携えた警護兵(市にやとわれた者たちもいるが、半分以上は各宗教団体のいわゆる「僧兵」という者たちである。彼らは精強をもってなるし、殺すのははばかられる存在であった)たちはそれでも恐々と、男女を遠巻きに見やる。


 「ふむ」ここは年長者の(そして有名人の)威厳を見せるべきだろう、とゴッサーダが手に何も持たずに一歩進んだ。


 その時であった。


 植物園の屋根を突き破って何かが落ちてきた。

 ガラスの砕ける盛大な音。


 リリナ、ゴッサーダたちと、警護兵たちのちょうど中間に「それ」が落ちてきた。

 いったいどこから「落ちて」きたのであろうか?

 鳥?確かにそれは翼をもっていたが、それにしては大きすぎる。そもそも鳥が落ちてきた程度で壊れる設計にはしてはあるまい。

 パラパラとガラス片が降り注ぎ終わるのを待って、一同は落下物を見る。

 人?であろうか。

 しかし飛龍のような翼がある。だが、翼のほかに(半ばなくなっていたが)両手両足を有している。

 リリナの顔色が変わった。

 もちろん悠太も。


 最初の一目こそ鳥にも見えなくなかったが、その存在が鳥ではなく、髑髏の仮面を被った人間であることは、誰の目にも明らかであった。


 その人影はむくりと起き上がった。普通ならバラバラになるであろう衝撃を、歯牙にもかけていない。それだけではない。右足と右腕の半ば以上を炭化させて、そしてトレードマークである髑髏の仮面も半ば割れ、中からは青白く光る黒い肌が透けて見える。

 だが、その裂け目からは金属製の線虫のような繊維が、うにうにとそれ自体が生きている蠢く細長い「何か」が飛び出て傷口を塞ごうと努力している。


「いやー。参った参った。ひどい目にあった」


 その男は明るい声でそういうと周囲を見やる。

「おやまあ、こいつは奇遇だ」

 リリナを見ると、面の下の目をギラリと(文字通り)光らせる。

「とりあえず、殺しとくかな」


 天空から落ちてきた男、魔人ゴーズ・ノーブはその邪眼でリリナの胸を捉えた。


 恐るべき怪光線が少女を襲う。



         *



「糞っ!糞っ!クソクソクソクソが!」


 ファルファッロ男爵は高貴な出にも似ず、口汚く神々を呪いながら、たった一人で森の中、羚羊馬を駆っている。

 今や彼は敗残者だ。だが、この場を乗り越え、領地に帰って捲土重来、今度こそあの魔女めを殺してやる、と怒りにたぎって目の前が見えなくなったのか、彼の目を枝が襲った。

 否、そうではない。羚羊馬の脚が何らかの罠を作動させたのだ。


「んが!」


 男爵は羚羊馬から転がり落ちてもんどりうつ。もちろん何が起こったのか想像の範囲外だ。そもそも彼は狩りを趣味としている。こんなところでこんなふうに落馬するはずがないのだ。


 なんだ?何が起こった?と顔面を抑えながら立とうとするファルファッロ男爵の肩に衝撃。

 蹴られたのだ。

 今度こそ男爵は声も出ない。


「まったく、あなたという人は。実に運がない。こんなところで不運にも落馬されて、死んでしまうなんて、ツキに見放されるというのはこういうことなんでしょうね」

 その声は、南王国の大使のものであった。


「??」


ファルファッロ男爵は声も出せずに、しかも腰が抜けたまま逃げようとするが、高価で重い板金鎧を着こんだ中年男性は滑稽なほどに鈍かった。


「宰相閣下は、あなたがここでヘマをしたら、始末しろとの仰せです。たぶんこうなるところまで見越してたんでしょうねえ。ま、恨まないでください」


 大使は平熱の口ぶりでそう言うと、四つん這いで逃げようとするファルファッロに背中から覆いかぶさり、両腕を首に絡めて、頚椎を容赦なく折る。

 

窒息させるのとは違って、首を折られた男爵は最後に一つい気を吸い込めた。そのとき感じたのは、湿った落ち葉の陰気な匂いだ。


 中年男性の死の痙攣が収まるまで、大使はその腕を解くことはなかった。



 この二日後、獣に食い荒らされたファルファッロ・ドロメイア・アーチスタイン男爵の死体が、キノコ採りの男女によって発見されることとなる。


 だが、それはあまり大きなニュースになることはなかった。

 そんな場合ではなかったからだ。



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