赤朱鷺色の空の下で 1
第二章 「赤朱鷺色の空の下で」
1
あの出会いの日から三度目の朝。
「邪魔だ、ユータ」
少女はそう言うと、歯磨きをしていた彼を押しのけて、洗面台の正面に立った。
先日、母と妹と量販店チェーンで買ってきた水玉のチュニック、それにデニムのキュロットパンツを身に着けている。二つ合わせて〈サンキュッパ〉程度の安物だが、彼女が着ると一流メーカーのそれに見える。
馬子にも衣装、の反対であろう。
細く長く、白い手足。小さな頭、大きなアーモンド型の双眸。形の良い鼻に薄いけれど整った撫子色の唇。
モンゴロイドではないけれど、コーカソイドまではいかない。何国人とも言えない混淆した美しさがある。
しみ一つない真っ白な肌がどうしても白色人種を思わせる。が、顔の造作としてはヨーロッパと言うよりもアジア系だ。それもパミール高原より東。シルクロードの、たとえば敦煌、楼蘭、あるいはトルファンと言ったオアシス都市に住む深窓の令嬢といった風情であろうか。
とらえどころがない。しかし美しいといった一点において万人が首肯しえる少女であった。
喋りさえしなけりゃね。
悠太は苦笑せざるをえない。
「お父上もご母堂もとうに仕事に出かけたぞ。妹御も水泳の課外授業だそうな。午近くまで寝ているなぞ、夏季休暇中とはいえ寝ぎたないことだ」
悠太は渋い顔未満の微妙な表情を作ると、一言も言い返さずに洗面所の隅で小さくなって歯を磨いた。
少女はそんな年下の少年に一瞥もくれずに長く美しい髪をくしけずると、器用に髪を編み始める。きびきびとした指の働きで見る間に髪の毛がまとまっていく、流れるような所作は優美ですらあった。
歯磨き粉を流すために洗面台を貸していただきたいのだが、おそらく無理だな、と悠太は結論付けて、そのまますごすごと台所まで歩き出す。その背中に少女が声をかけた。
「あと五分で出発するからそれまでに支度をしておきなさい!」
その台詞には、少年の答えを待っている様子がどこにもなかった。
2
ぽたり、ぽたりと悠太の口に暖かな液体が滴る。
無意識に彼はそれを舐めとった。
あまり味はしない。当然だ、彼の口中も同じ液体にまみれているのだから。
しかし、ぬくもりだけは夢うつつの中で感じ取った。このぬくもりを持つ者がそばにいる。それだけで彼は泣きたいような充足感にあふれていた。
あるいはそれは死に瀕したと感じ取った脳が出したエンドルフィンの作用なのかもしれない。しかしだとしても、経験は本物だ。彼のために鼻血を出し、ぶっ倒れるまで頑張ってくれた少女がいるという事実は、齢十三の少年には初めての体験であった。
どさり、と少女の上体が彼の胸の上に乗っかる。意識を失ったようだ。それと入れ違いに、その軽やかな衝撃は少年の意識を明瞭にさせた。
疲れている。
悪夢を見た後のようにべっとりと疲労がコールタールの様に張り付いているが、動けないほどではない。腕は動く、その腕で生ぬるいアスファルトに肘をつき、ぐっと上体を持ち上げた。ぐらん、と少女の意識のない華奢な首が大きくかしぎ、悠太は慌ててその頭を支える。
それから腹筋に力をこめて、尻の位置を変え、脚が動けるように角度を変える。
「おい、君、動いちゃだめだ」
そう言ったパジャマ姿の男も、しかしそれ以上の事をする気は無いようだった。都会(に分類されるであろう)の事なかれ主義はこの際ありがたい。
悠太はそこからさらに全身の筋肉を駆動させて少女を抱きかかえた。
膝の下と腋の下に手を入れる、いわゆる「お姫様抱っこ」である。
そう腕力のある方ではない悠太は腹に力をこめて立ち上がったのだが、拍子抜けするほどの軽さだった。
軽いが、しかししっとりと汗ばんだあたたかい肢体に時ならずも鼓動が早くなるのを自覚した。
そのまま、野次馬の動きとは逆方向に少女を抱いて移動する。だが、いくら軽いとはいっても、一〇〇メートルもしないうちに力尽きて少女の身体をバス停の青いベンチの上に乗せる。古く朽ちかけていたが、最近の主流である排除型ベンチでないのは助かった。
しばし考え込む。
これからどうすべきなのか。
本来ならば、救急車を呼ぶべき案件だろう。彼の懐にあるスマートフォンはそのための道具である。だが、その正解ともいえる行動が彼には取れない。
なぜならば、彼は聞いてしまったからだ。
少女が意識を失うその寸前、あるいはその直後、彼の胸の上でその可憐な唇から漏れ出た言葉を。
「助けて」
と少女は言った。彼に言った言葉なのか、それとも別の誰かに言うべき言葉であるのか、それは分からない。でも、聞いてしまったのは彼ただ一人なのだ。
であるならば、助けないわけにはいかないじゃないか。
休憩を取ってから、一計を案じて悠太は少女を右肩に担いだ。バランスを失いかけて一、二歩たたらを踏むが、それが逆に功を奏したのか二人の重心がぴたりとハマった。これはいい、と彼は歩き出す。
闇から闇へ、人気のない方から、人気のない方へと。
最短距離ではないが、次善の道筋だ。街についてよく知っている彼ならではの経路である。
悠太の顔は真剣だ。
体力の限界ではあるが、この少女の肉体を下ろす気にはならなかった。
深夜とはいえ、夏の熱気はヒートアイランドである関東平野から抜けてはくれない。汗をだくだくと流しながら、そして、重さと同時に少女のそこはかとない甘い香りに心臓は早鐘を打つ。ここまで女の子と密着したのは幼稚園の卒園式以来だった。
――々な要因が絡まり合って、十五分ほどの道のりを経て疲労困憊の極みに帰り着いた我が家には、煌々と明かりがついていた。
ぎょっとする。
その明かりの前で、両親がパジャマ姿で立っていたのにも驚かされた。
「え、なんで」
と彼は脳の中だけで口に出す。
だが、むしろ驚いたのは両親の方だったのだろう。
爆発音に驚いて飛び起きたらば、引きこもりかけている十三歳の長男が女の子(それもどう見ても日本人ではない美少女を!)を抱きかかえて家に戻ってきたのだ。怒る怒らない、という話しではない。想像を超えている。
無論、とうの昔から彼が深夜徘徊をしていたことは知られていた(携帯のGPS機能でしっかり見張られていたのだ)、小五の妹にさえ、「気づいてないと思ってたの?」と呆れられてしまった。
事故や事件に巻き込まれないかという心配と、深夜とはいえ家から出てくれることの板挟みで両親は悩んでいたのだ、そう言われれば言い返す言葉はなかった。しかしそこはあまり問題にはならなかった。全ては後日聞いた話だ。
「いや、だからさ、つまり……」
悠太はつっかえつっかえながらも語りだした。無論、適宜話さないほうがいいと思われる部分はカットして、「彼女は気絶した自分を介抱してくれたが、自身も貧血か何かでぶっ倒れた」という内容の説明をたっぷり五分以上かけて繰り返し話し、何とか理解してもらった。してもらったとは思うのだが、納得はしていない様子であった。今すぐにでも救急車(と警察)を呼ぶべきなのだという正論にむしろ悠太の方が納得しかけていた。
無理もない。あの時耳元でささやかれた言葉の真摯さの中に「匿ってくれ」という言外の意味を聞いたと思ったのすら、彼の妄想なのだと言われればそれまでだ。
もちろんその可能性だって否定しきれない。
そんな時だ、リビングのソファにとりあえず寝かせておいた少女のまぶたがぴくぴくと動いた。
両親と悠太の三人は一斉に沈黙して事の成り行きを見守る。
少女は「ふわ」とあくびをしてから上体を起こすと、「トイレはどこ?」と母に尋ね、用を足した後に水を一杯飲むと、またソファに横になった。何も言わせる暇もない早業である。
苦笑しつつも母が少女にタオルケットをかけてやる。その様子は完全に「ただ眠っている」ようにしか見えなかったし、正直両親にしても許容範囲を超えた話である。警察に連絡するにしても明朝にしておこう。ということで議論は終わり、父はリビングの電気を消した。
いや、議論がまとまったのではない。何より少女の寝顔は百万言を費やすよりも雄弁に、彼らにこう語りかけていたのだ。
『この娘を追い出すなんてとんでもない!』
と。
*
翌朝。
妹の伽奈が起こしに来たのは八時前、両親の出勤時刻からすればだいぶ遅い時間だが、「今日は半休を取ったよ」と父は言い、木製のダイニングテーブルでゆっくりと朝食を摂っている。
近くのパン屋さんで買った六枚切りの食パンに、〈べに花ハイプラスマーガリン〉と、父お手製のブルーベリージャムをたっぷりかけている。それに前日の残りのミネストローネとチーズオムレツにサラダ、という豪華な物だった。
母はオムレツを焼いている。
伽奈は父の前のお気に入りの席。
その隣でナイフとフォークを用いてオムレツを食べているのは、あの少女であった。
背筋がすっと伸び、優雅な両手の動きは、食事という最も原始的な行為を一つの芸術の域にまで高めていると言っても過言ではない。
少女は悠太が出現したのに気付くと、その手を止めて少年を見た。
「昨晩はお世話になりました」
完璧な日本語だ。生硬な感触を受ける言葉づかいであるが、目をつぶって聞けばネイティブと言って通るだろう。
「あ、うーん、ええと」
やはり、と少年は内心ドギマギする。やっぱりこの少女はとんでもない美少女であったと、再確認した。
「悠太、お前は今日はこっちだ」
父の言葉に促されて、ダイニングテーブルの端にある客用の椅子に「父さん、おはよう」などといいながら腰を掛けた。
なんだかとても居心地が悪いのに気付く。
こうやってみんなで朝食を食べるのはいつ以来だろうか、とそう思った。
父は出勤支度が済んだワイシャツにスラックス姿、妹は耳の位置で髪を二つに結った、いわゆるツインテールにポロシャツ、ホットパンツにニーハイソックス。今日もどこかにこれから遊びに行くのだろう。不健康に真夜中しか出歩かない兄とは正反対に、彼女は夏休みを満喫している様子だった。
そういえば、と再び気付く。妹と喋ったのなんか、いつ以来だったろうか?
思春期の入り口に立っている妹にとって、中学受験に失敗し、あまつさえ引きこもっている兄貴などというものがどれほど恥ずかしい存在なのか、想像に余りある。きらわれても当然だな、と悠太は思っていた。
だが、そうであっても家族は家族だ。この異常事態に、妹が言外に、「ちゃんと説明しなさいよ」という意味を込めて彼を朝の食卓に引っ張り出してきたのは彼にも痛いほど察せられていた。
そうは言っても説明できることなんか何もないのだ。
そもそも俺は彼女の名前すら知らない。
そう思ったと同時である。
「私の名はリリンボン・ゼ・クシャーナ・エンリリナ。リリンボン家のエンリリナです。でも、親しい人はみなリリナと呼びますから、皆様もそのように」
と少女は自己紹介をした。
リリナに続いて、父が、母が、妹が自己紹介をする。最後に「あ、ども、高橋悠太です」と悠太が困ったように自己紹介をすると、なにが面白いのかリリナはくしゃっと悪戯っぽく笑った。
おそらく「昨夜、悠太が受けた被害」について彼が何も話さなかったことを評価しているのだろうが、それにしては表情の選択が少し間違っているのではなかろうか?
「さあさ、ユータ君のオムレツですよ」
白シャツの上から生成りのエプロンを着けた母はそう言うと、皿を彼の前に置く。悠太はケチャップの瓶を開けて木の匙で赤いソースを二回、黄色くてほかほかと温かい皿の上の物体になすりつけた。
食事がすむまで、朝の団欒は和気藹々と進んだ。
「どうぞ、このマーガリン美味しいですよ」
「おお、確かに。友紀恵さんの作ったこのオムレットも絶品ですね」
「あら、ありがとう」
「リリナちゃん、これこれ、このジャムはお父さんが作ったのよ」
「伽奈、『リリナさん』でしょ」
「いえいえ、一向に構いませんよ。……ほう、美味しいものですねえ! これはなんという果実で?」
「いや、ただのブルーベリーだけどね、河口湖の知り合いが作っている無農薬のヤツだから、ま、安全なのはお墨付きだよ」
「砂糖も良いものを使ってるし、普通に買った方が安いんですケド」
「いやいや。美味しさは母さんだって認めてるじゃないか」
「コストパフォーマンスという言葉はご存じ?」
「なぬっ」
「……その伝でいくと、費用対効果はとても良いという事でいいのでしょうか?」
「リリナさんは良くモノが分かる娘さんだねえ!」
もちろんというか、悠太は無言だった。話の輪に入れない、というよりかはこれから来るであろう話に頭が言っていたせいでもある。昨日見たあの少女の行動はいったい――彼の知識では一切説明がつかないモノだったのだから当然だ。
朝食の皿がすべて下げられ、父は母の淹れたホットコーヒー、ほかの三名は水出しのアイスティーを一口すする。
「まず――」そう言ってリリナが悠太の家族の前で語った内容には嘘と呼ばれる成分は含まれていなかった。
「自分はさる高貴な方に仕えております」「その方の依頼で人捜しに来ました」「その人はこの近くにいる」と。
「パスポートは?」
父が至極当然の質問を発した。
リリナは本当に困ったような顔をした。
父の隣に座った母は父の肘をチョンと押した。無論その押した意味を父は理解している。
悠太によく似た顔の造作を持つ母はお人好しで、困っている人を見れば助けずにはいられない。そもそも大学のボランティアサークル活動で、一番損な役割であるところの幹事を引き受け、現場とサークルと行政との折衝で苦しんでいるところを助けたのが両親のなれそめなのだ。
その事を母から聞いたとき父曰く、「もちろん下心はあったさ。母さんはかわいかったからね。!いやいや、いまは美人なんだ」だそうだ。「ごちそうさま」と当時小学校三年生の妹は鼻で笑ったものだ。
それはともかく、だから母は何も言わなくても最初からリリナを家におくことを認めていただろう。そして母の意見を父は否定しないし、伽奈もリリナの美しさに一目で心を奪われてしまって、大賛成だ。
「ありがとうございます、それともう一点。ご厚意に甘えさせていただければありがたいのですが」
そう言って出してきた提案に悠太は飲んでいた紅茶を噴き出しかけた。
それは、「その人を探す当てはあるが、このあたりの地理には昏い。であるから悠太を貸してほしい」と云うものだったからだ。
もちろん両親に否やは無い。
それはそうだろう、引きこもりかけの長男が外に出る理由としてこの提案は決して悪いものではないからだ。
もちろん、悠太の意見は忖度されなかった。
されなかったのではなく、その必要が無かったのである。
リリナの笑顔の奥にある美しくも苛烈な瞳の鋭い眼光が悠太に己の首を縦に振る以外の行動の自由を奪った。ある種のカリスマ社長が社員を過労死するまでこき使う。普通に考えればサボタージュすればよさそうなものだが、人間一般の原則としてそれをできるのはほんの一握りのモノだ。その才能は決して精神力や知能で推しはかれるものではない。そして悠太は、その一握りには入っていなかった。
少年は一言、「あ、うん」と言っただけだ。それはほとんど彼の意志ではなかったが、意思決定と見なされる程度には意味があったから、話はそれで済んだ。
そのようなわけでリリナは高橋家にホームステイが開始した、という事になるのだろう。
おそらくは違法なこのホームステイに、高橋家は動じなかった。
いや、動揺したことはした。その直後、リリナのポーチの中からブルーサファイアの指輪とブラックオパールのネックレス(台座と鎖は白金だ)が取り出されたからだ。
二つとも宝飾店の一番いい場所に置かれるに足る輝きと大きさを持っていたから、女性陣は大いに興奮したものだが、しかしこれを「あげます」と言われれば話は別だ。もちろん光り物は嫌いではないが、宿代としては高すぎる。
「私の誕生日に父からもらったものです。友情のあかしとして、ぜひ」
そう言ったリリナの台詞を高橋家の人間は信じた。盗品やいわくがあるのではないか、という事は頭にも上らない。
そこは単純なお人好しとはちょっと違う。リリナがそう言えば、信じられる気品を身にまとっていたからだ。
姿勢がいい。動きがいい。指先の、爪の先まで意識が行き渡っている。表情こそさすがに最初はぎこちなかったが、コロコロと良く笑い、その笑顔はまた卑しいところが一片もない。
日本語もまるで青年将校のような語り口ではあるが、完璧にこなすし、声がまた美しい。
見目麗しいのは当然好印象をひとに与える。しかしたとえ世界最高の美男美女であったとしても、動きががさつで、卑しく笑うとなればこれは周りをげんなりさせるだろう。
その品の良さは焚きしめられた香のように匂い立つ。
だから高橋家の人間は両親も含めて彼女の台詞を疑わなかった。疑わなかったが結局それらの宝飾品は受け取らず、リリナ自身が金貨から加工した護符をなんとしても、と押し付けられてようやっと妹が受け取った。
それから一時間ほど、両親はそろって会社に出勤して、妹は「友だちと科学館へ行ってくるね!」と言って出て行ってしまい、この部屋にリリナと悠太だけが取り残された。