旅路の果て 2
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悠太は声もない。
皇帝の鎧を着装した秋人を手玉に取った武人を前にして、蛇の前の蛙のように硬直した。
「ハルザット様、はいどうぞ。お酢を多めにしときました」
「うむ、ありがとう」
男は木の丼を(おそらく大盛りと普通盛りの差だろう。悠太が買った普通盛りだと精々おやつの量なのだ)両手で持つと、ぞぞっと豪快にほんのり褐色の米麺をすすった。
「絶品だな」
「おじさん美味しーよ!」「うん!最高!」
同じ顔をした美女二人に褒められて、皺だらけの顔をした店主は更に顔を皺くちゃにしてやに下がる。
「どうした少年、手が止まっているじゃあないか」
「……は、はい」
そう言ってすする麺は、しかしもはや何の味もしない。
――偶然?
ひょっとして、自分の事が分からないのかとも思った。その可能性はある。所詮自分は魔法装具がなければ何もできないミソっかすだ。城主であるこの男が、ほんの一目見ただけの、異世界の少年の顔を記憶しているのかどうか、という淡き期待は数瞬で消えた。
「ユータ、と言ったかな」
ゴッサーダ・イン・ハルザット子爵は豪快な食べっぷりで空にした丼を床几の上に置くと、話を切り出した。
「ふ、ひゃい!」
はい、と言おうとして極度の緊張から声が裏返った少年を見て少女たちはククッと笑う。
「落ち着け。私は君たちをどうこうしようとは思っていない」
どうこう?少年は足首にかかる枷の冷たさと、鉄球の重さを思い出して冷汗をかく。あのような思いはもう御免であった。
その上で、と思い返す。秋人はこの男に三回ほど致命傷を負わされたのだ。彼が死ななかったのは「皇帝の鎧」の能力によるものでしかない。
この男は「敵」なのだ、と、――その認識で正しいはずであった。
「私は今や一介の素浪人だ」
ゴッサーダの口から飛び出した言葉は意外すぎる物であった。
「え、っとそれはつまり……」
「君らを逃したことの責任を取らされて、シャボリー城塞と城下町の領主の座を追われたのだよ。ファルファッロ男爵は実に弁舌さわやかに私を追い出してくれたぞ」
にこやかに言う武人の台詞が脳髄に浸透すると、少年の裡である結論が浮かび上がる。
――つまり、この男は自分たちのせいで職も名誉も失ったという事ではないか!
ただでさえ蒼ざめていた顔色が、今度こそ本当に紙の色まで脱色される。
とんでもないことになった。これほど復讐をするのに正当な理由が他にあるであろうか!
逃げなければ!
と思った刹那だ、白髪の子爵はずいっと距離を詰めて、顔を突き出す。文字通りの「膝詰談判」と言うところである。当然ここまで間合いを詰められたなら、立ち上がることすら不可能であった。
「逃げなくていい」
「いやまあ逃げても良いのですけどね」ゴッサーダの台詞にかぶせて、双子の片割れが続ける。
「『トールンダ小母さんの宿屋』、で間違いないですよね」
それは二人が泊まっている宿屋の名前だった。
そうだ、当然だが、偶然なんかであるはずがなかった。この男がそんな甘いはずがないではないか。
「そうおどかすな」ゴッサーダは笑って二人の少女をいさめる。その笑顔は悠太の想像よりはるかに魅力的なものであった。
「本当に私は君らをどうこしようとは思っていない。むしろファルファッロ男爵には感謝しているくらいだ。こうやって自由に動けるんだからな」
言い終えるとゴッサーダは身を引き、立ち上がった。「さて、」
悠太を見る。
「君らと協定を結びたいんだ。エンリリナ嬢を交えて会合といこうじゃないか」
***
「ユータ、おなか空いたよ!」
リリナは扉が空いたのにあわせて、見もせずにそう言った。その声にはどこか甘えた物言いが含まれていたから、悠太が一人ではないと知った時には、苺のように真っ赤になった。
だが、真っ赤になった次の瞬間に、その同行者の素性について気づき、今度は青ざめる。元から真っ白な肌が蝋のように血の気を失う。
「全く、見るたびにこんな反応をされてしまうと、自分の顔がよっぽどヒドいのかと自信を失ってしまうな」
ゴッサーダは苦笑する。
「御館様は顔が怖いですものね」
「昔は可愛いと評判だったんだがなあ」
主の述懐に双子は明るく笑った。
リリナは目をパチクリさせる。
西王国最強の武人。この男が立ちふさがっていた時は、実に絶望的に高く厚い壁だと思ったものだが、彼もまた人である、という当然の事実を突きつけられて、面食らっているのだ。
少女は少年を見た。
少年はしょぼくれた顔をしている。いやもちろん、ゴッサーとその手の者が本気を出した場合に少年に取れる選択肢は多くないだろう。そのことを責める気はないが、悠太にしてみれば忸怩たる物があるのはわかる。
少女は再度視線を武人に注ぐ。
その視線に晒され、緩んだ顔を引き締めて、ゴッサーダは語り出す。
「まあ、ムダ話はやめておこう。単刀直入に聞きたい。姫さまは帰ってくるのか?」
ぐっと筆頭侍女は唇を噛んだ。彼女個人で答えていい範囲を超えていたからだ。しかし無言がこの男に通用するであろうか?
少女の悩む顔に気づいた武人はふっと微笑んで、なるほど君が迷うのも無理はない。と呟き、こう切り出した。
「私はエルメタイン姫のお父君に姫さまのことを頼まれている。これはもう完全に個人的な約定なのだ。私が三十数年前に西王国に亡命した際、助けたところでなんの得もない私を、当時皇太子であったグリーエルナーサ・イグレ・ジズ・ファルステイア陛下は助けてくださった」
その名はエルメタイン姫の父王だ。ゴッサーダよりちょうど十歳年長の少年は、純粋な義侠心によって、一族の長の座を奪われそうになっていたゴッサーダを助けたのだ、と告げる。
「それから私は陛下とは個人的な友誼を結ばせてもらっていた。そして私はこの父娘のためならば身命を賭そうと誓ったのだ。もちろんあの場に居合わせたのは偶然に近い。だから、」
そこで武人はリリナに笑いかける。
「君が動かなければ、私が動いていたのだ」
悠太は、そして何よりリリナがポカンとした顔になった。
にわかには信じがたい。なんといってもこの男は厳しい法の番人として名が轟いている。
二十歳の頃、王都の閨閥貴族の一部子弟が狼藉を働いたのを一刀のもとに切り捨てたこともある。この時はあわや縛り首になる寸前であったが、その閨閥の筆頭であるゼルエルナーサ侯爵の口添えで間一髪命を取り留めた。無論彼の行動は法に照らして一片の瑕瑾もないものではあったが、それでも首に縄をかけられても一切動じず、助かったことの安堵すらその顔には現れなかった。この時から後、ゴッサーダの名は武芸の達人というものを超え、西王国にこの人ありと言われるようになる。
リリナは取り急ぎ悠太にそのエピソードを語る。この男が信念を曲げる日が来るなどとは到底思えない。との意見も添えて。
「それも全て、このような日のためであったんだよ」
ゴッサーダは悠揚迫らぬ声でそう答えた。
「敵を騙すならまず味方から、とはちと違うか。しかし誰も私のことを疑わない状況を作っておけば、様々なことがやりやすい。そうだろう?」
「しかし、しかし……」
なおも続けようとするリリナに対して、双子の片方が笑いながら話す。
「まあ、信じられないのも無理は無いけどさ、そもそも考えてご覧なさいよ。ゴッサーダ様が本気を出して、あなた方が『嘆きの塔』から逃れられるわけないじゃないの」
はっと、少女は気づいた。
そうだ、そこの所に少女は違和感を覚えていた。『あまりにうまく行き過ぎた』と、そう思っていた。もちろん自分や秋人の能力、姫さまの策や、機転、あの老僕の助けが全てうまく絡まった結果、脱出出来たのだ。
そう、結論づけた。なぜならそれ以上考えても意味はないし、それどころではなかったというのも本当のところである。
だが、それでもやっぱりおかしいと首をひねらざるを得なかった。こんなに簡単に行くものだろうか、と。
とはいえ、その違和感もそもそも城主が彼女らの脱出を半ば手伝っていたのだとしたら、全ての合点がいく。一方の側だけが手心を加える。いわゆる片八百長というやつだ。
だが、それはつまり、
「じゃあ……、わたしの行動は無駄だったっていうわけ?」
「もちろんそうではない」
白髪白髯の武人は確信を持ってそう答える。
「君が動いた結果、事態は加速度を上げた。私に出来たことは精々姫さまを亡命させる程度のことだったろう。あるいは姫さまを担いで内戦でも起こすか?しかしどちらにせよその結果は――」
ゴッサーダはそこで口ごもった。言うべきか否か、剛毅な武将も逡巡したのだ。
だから、リリナは子爵の言わんとすることを代わりに話した。
「その結果、西王国は南王国の傀儡国家となる。――あの恐るべき『英雄宰相』、バタフリンの鋼鉄の手によって。でしょう?」
ゴッサーダは、魔法使いの少女の怜悧さに深くうなずく。
「そのとおりだ。どう転んでも私は姫さま一人をお救いすることしかできない。だから、君の行動は救国的と言ってもいいだろう」
武人の言葉にリリナは複雑な笑みに似た表情をする。救国とはまた耳あたりが良いが、一体何人死んだことだろう、と。
そのうえで、とゴッサーダは付け加えた。
「私の得た情報によれば、バタフリンは禁忌魔法の研究をさせているらしい。無論、具体的な部分は完全な秘密だがな」
ゴッサーダは言うまでもなく東王国の生まれである。その上大陸全土にその名が鳴り響く「剣聖」ガラン・ザバリが認めた唯一の免許皆伝者でもある。その出自と武芸者としてのネットワークは、易々と国境を超える。つまりは、この情報の確度は高い。
そのことをよく知るリリナは青ざめた。
「あの男は、何を考えている……」
リリナは直接バタフリンに逢ったことがある。「師匠」の元での修行時代だ。あの男は彼女を一目見るなり「金銭に糸目はつけないから、南王国へ来い」とスカウトした。その時は師匠が丁重に断ったが、あの人材を集めることへの飽くなき執念はどこから来るのか?
「正直言って、あの男が何を考えているかは想像すらできない。だが、今ここで君には私を信じてもらいたいのだ。西王国を……否、エルメタイン姫を救うために」
「リリナ」
心配そうに悠太は声をかける。少女の白い肌が今度は緊張で更に脱色されている。
リリナは考える。
意外な申し出ではあったが、確かに先王とこの子爵の友情はつとに知られている。普通に考えれば「味方」として良いはずだ。だが、それが誰の味方なのか、というのが事の本質である。
姫さまの味方であるのならもちろんそれに越したことはない。だが、彼が先王の遺したこの国家の味方でしかないのであれば、羽生秋人の存在をどのように見るのか。いや、そうではない。この武人は現在独身である。まさかそこまでとは思うが、自身が王となる野望を持っていないと、誰が言えるだろうか。
だが、とそこまで考えて、しかし少女は考えを改めた。
だからと言って、今ここで敵対できる相手ではないのだ。
「……いいでしょう、ゴッサーダ子爵、貴方さまを信用いたします」
武人は特有の嗅覚のようなもので、リリナが言葉とは裏腹に自分を信じていないことに気づいてはいたが、この場においてはそれでも構わない。彼とて姫さまやこの少女と意見が相違することもあるだろう。その際に、それが裏切りという形に見えたとしても、それはそれで仕方のないことだ。
子爵はごつい右手を差し出した。
姫君の筆頭侍女も右手を出し、握る。
ここに、リリナたちは心強い援軍を得た。
だが、その時だ。
「ゴッサーダ様!」
若い男の声が窓外から聞こえた。
鍵を開け、窓から体を出そうとする少女を制すると、ゴッサーダは「どうした!」と壁に身を隠しつつ尋ねる。
「来ました!」
金髪の青年――ノーギス・カリオンは少し時代がかった小札鎧(小さな金属板を紐などで接合した鎧。物にもよるが、板金鎧よりも軽く、柔軟で、なにより安い)を着用し、腰には長剣と短剣で武装している。
しかしその持ち物の中で最も異彩を放っていたのは、右手に持った白い布にくるまれた細長い「何か」であった。
小柄なカリオン青年の口元まであるその細長い物体、それはまさに、そう、ゴッサーダの代名詞でもある魔法装具だ。
『巨神乃戦杵』
この武装を部屋まで持ってこなかっただけでも、子爵に害意がないことは証明されるであろう。
「ゴッサーダ様の読み通りです。ゴロメイア様は自分の兵を出してきませんでした。奴らは―奴らは――」
ここで、忠勇無双の青年とてツバを飲み込む。
敵だ、恐るべき敵なのだ。
「奴らは、亡霊騎士団です!その数三十騎!!」




