二つの途 2
5
時間は丸一日以上巻き戻る。
*
バネ脚はその出力を最低限にしている限りにおいて、着用者の魔力をほとんど消費しない。より正確に言えば消費する分の霊素は呼吸から入ってくるから、問題ないという意味だ。
海抜が高い分、酸素は薄くなる。だが、その代わりと言ってはなんだが、霊素は薄まるどころか、濃くなってきている。これこそまさに霊峰ウライフ山の面目躍如と言ったところだろう。
つまり、秋人の「皇帝の鎧」も着装するだけならばほぼ魔力を消費しないという道理だ。
その上で、「皇帝の鎧」は意識によって重装備にも軽装にもできる。攻撃力はもちろん、防御力もほとんどオフにした状態の「皇帝の鎧」は、ある種金属光沢をもった全身タイツによく似ていた。寒くもないのにオカアザラシの上着を羽織っているのはそのためだ。
だが、
「……しまった」
「どうしました?」
深刻な声の秋人にエルメタイン姫は声をかける。
「こんなことなら高い防寒着なんか買うんじゃなかった。悠太やリリナの分だって必要なかったし、あああ、もったいねえ!」
エルメタインは苦笑する。
「皇帝の鎧」は言うに及ばず、「バネ脚」の力場もある程度は寒気を跳ね返す能力がある。オカアザラシの防寒着は正直過剰装備だったろう。だが、しかし
「不必要かどうかはまだ分かりませんよ」
姫君の声にはどこか軽やかさがある。
それから沈黙してただ足の身を動かす。やがて不意に、「まあ、霊廟で何かが見つかったらそれですべては終わります。あとはアキトさまが王位についてそれで終わりですから、もう少しの辛抱です」と姫君は語りかけた。
「そう願いたいね」
そう願いたい。
まったくそれは心からそう思う。
せっかくフォーダーンに帰還したのだ。できればこんな荒涼とした山道を歩くのはこれで終わりにして、ぬくぬくとした王宮で酒池肉林のバカ王として残りの生涯を暮したいものである。
ものである、が。どうにもそれはリアルに想像できない。
もちろん王様とはいっても仕事に追われるのは当然だろう。全てをエルメタインや家臣に任せて「良きに計らえ」で終わらせというのもある種「王様」としては正しいのだろうが、それで通用すると思ってはいない。
それでも、想像できるのはそこまでだ。大変なのはわかる。だが、じゃあ、良い点はどこだろうか?
それこそ後宮に美妃を囲って……などと駿介と話し合ってきたものだが、西王国に後宮という機能はない。当然だろう、あれは金がかかりすぎる。とはいえ慣例的には第三夫人までもてるらしいから、エルメタインを第一夫人として、さて、ゴージャス枠は埋まった、後は癒し系と……ロリ枠か?いやでも俺はそう言う趣味はないんだよね。そうなればうん、スポーティー系とかもいいな。
などと楽しい妄想ではあるが、では現実になったら?と考えると難しいとしか言いようがない。
イスラム圏では四人まで妻を持つことが出来るが、現実的には王族を含めてほとんどが一夫一妻である。理屈は単純で、そこまでの甲斐性が無い。甲斐性があっても身が持たない。身が持っても気苦労が絶えないからだ。ぜんたい結婚などというものは基本的に面倒くさいと敬遠していた秋人にとって、一夫多妻など心の底から「めんどう」としか感じられない話であった。
もちろん、まずこの彼の後ろで軽やかに山道を歩くエルメタイン姫一人であったとしても――これはまさに目がくらむほどのいい女である。
整った顔立ちに精気に満ちた瞳。そして完璧に均整の取れた肉体と、揺れる巨大な二つのふくらみ。この最上級のヒトのメスを己のモノにできるのであると考えれば、ヒトのオスたる秋人ももちろんこれは有頂天の歓びである。
「美しい妻を持つ」これ以上のステイタスは男として存在しないだろう。結局のところ財も名誉も腕力も、健康で美しいメスを手に入れるための手段でしかない。
だがここで問題なのは、女は物でないという点だ。
当たり前だが、特にこの姫さまに関してはそうだ。頭脳は明晰、明らかに秋人自身よりか頭が切れるし、呪霊刀を用いねば腕っぷしでさえ上回れない。当然だが天蓋世界の知識については比較することすら無意味だ。
現代地上世界の知識で無双、などとはなかなか難しい物で、そもそも魔法使いたちも地上世界については年に何名かではあるが研修的に来訪しているのだ。その上で現代科学をさまざまに魔法で代用している。そう上手いことはいかない。
――大体が。
本当にうまくいくのだろうか?という基本的な疑問が頭をもたげてくる。唯一の助言であるこの霊廟に行くのはいい。そこで本当に何かが見つかり、凱旋するのであれば万々歳だ。
だが、無ければ?
亡命して「まずまず」の生活を送ることもまた可能ではあろうが、そう上手くいくかと言えば怪しいものだ。その第一の要因と言えばまさにこいつだ。
――ゴーズ・ノーブ。
秋人の目が一瞬凄愴たる気を宿す。相棒の仇であり、ほとんど不必要なまでの理由で人を大量に虐殺する。
存在してはいけない男であった。
だが、あの男はおそらく何者かの依頼で動いているのだ。それも何やらややこしい条件付きで。
でなければ言動がおかしい。
「狂っているのならばおかしいのは当然ではないか」と言う意見もそれは正しいだろうが、コトはそれほど単純ではない。
まずあの男は「普通ではない」が、「狂っている」のかと言えばそうではない。少なくともある種の理路にのっとって行動している。その規範がほんの少し常識とずれているだけだ。まさにそのことをもって「狂っている」と言うのであれば秋人も全面的にその意見には首肯する。
だが、狂気に囚われているから虐殺に手を染めるのだ、と言う「狂気原因論」とでもいうべき意見には秋人は与しない。あの男は一切の制約がない。制約がなく、その上で効率的に死をまき散らすのであれば、ゴーズ・ノーブの行動にもいくつか合点の行くところではある。
――やはり、裏に潜む人間を探し出さなけりゃあなあ。
今のところ最重要の容疑者は誰かと言えば、やはりファルファッロ・アーチスタイン・ゴロメイア男爵であろう。なんといってもエルメタイン姫が死ねば、そうでなくとも秋人やリリナが死んでくれればそれだけで彼の勝利はゆるぎないものになるからだ。
次に怪しい者と言えば――
「南王国宰相、バタフリン・ムジュフシュでしょうね」
エルメタイン姫はかつてそう話したことがある。
南王国と西王国は歴史的に仲が悪い。隣り合った国同士の仲が悪いのは、これはいわゆる「地政学」的にどうしようもないことなのだが、三代前、つまり姫君の曾祖父の時代に美女の取り合いで戦をしたと言う経緯がある。
「バカバカしい」
秋人はもちろん、悠太も呆れ顔だった。
「まあそれはそうなんですが、」姫君も困った顔だ。「その女性が私の曾祖母になるのですから、更に困るんですよ」
ハザリク市が自治領なのも理由がある。ここは一種の緩衝地帯としての役割を果たしていた。シャルルハ高原最大の宗教都市にして交易の要。ここに住む者は西王国民でも南王国民でも、どちらでもあるしどちらでもない。
だが、どうにもきな臭いのはバタフリンと言う男の動きである。
轟名竜「イング・ラバーバ」の加護によって不老長命の奇跡を授かったこの男は、すでにして二十年以上、南王国宰相の座についている。その間に傾きかけた王朝の財政を立て直し、更にその財政再建が終わった時期と呼応して、何やら不穏な気配があると聞き及んでいる。
その「何か」がなんなのか、は最重要機密としてエルメタインといえども知りうる術はなかったが、あの魔人とコンタクトを取るのであれば、ファルファッロ男爵よりも褐色の美丈夫の方がむしろふさわしいと思えた。
しかし司法機関や諜報機関を動かせる立場にない今のエルメタインたちにとってどこまで行ってもそれは全て想像でしかない。この二人以外の可能性だって当然あるはずだ。
秋人はかぶりを振って詮方ない思索を振り払った。思考するだけで脳の酸素が消費されるのだ。今はこの山道を踏み外さないように登るのが最も大事なことだというの。
既に森林限界はとうに超え、万年雪がそこかしこで見受けられる。霊廟への道はそれほど整備されていないのは、今や半ば忘れられている証左だと言えるだろう。
「あれですね」
エルメタインが指差した。
霧が立ち込める、その方角には確かに人工物があった。
歩き出して八時間強。魔法装具によるバックアップがあってもかなりの時間がかかっている。途中山崩れで道が途切れていたからだ。道なき道を二人はなんとか踏み越え、助け合い、励まし合ってここまで来た。
「目の前にあるみたいだけど……あとどのくらいかねえ」
既に山肌はかなりの斜度だ。道なき道、というより登る者の意識からいえば岩の壁に近い。そこに刻まれたかすかな階段状の道が、この方向で間違っていないのだと教えてくれていた。
途中、踊り場のように平らな岩があり、二人はピンダルゥの実を溶かした湯(『皇帝の鎧』の手の平は赤熱化する。その兵装をヒーター代わりに小鍋で雪を溶かしたのだ)を立ったまますすっていた。
爽やかな香気と滋味深い甘さが五臓六腑にしみわたり、胃の腑から直接熱と、それから精気が伝わってくる。
一瞬で、とはいかないが、それでも十分ほどかけてコップに二杯ほどのピンダルゥ湯を飲み終わる頃には、疲労感もだいぶ薄れ、思考も明瞭になる。
「……そうですねえ。あと、二時間といったところでしょうか」
「やれやれ。もう少しと言えばもう少し、か。天気も良かったし、これであとは何が出てくるのか、それだけだな」
「はい」
エルメタインの顔がほんの少し曇るのを、「霊廟」を見はるかしていた秋人は知る由もない。
6
「すごいな。これは」
秋人が息を呑むのも当然であった。エルメタイン姫すらも言葉もなく驚いているのだから当たり前だ。
リリナは言っていた。「大した遺跡ではないのでしょう」と。
とんでもない。
「帝国の霊廟」は白亜の豪壮な建造物であった。
否、豪壮などという言葉では到底言いあらわせない。
柱の一本一本が数十トンはあるだろう。秋人一人ではかかえきれないほどの太さ。高さは十五メートルほどもある石のかたまり。それが視界いっぱいに続いている。素材は明らかに山肌を構成している岩石とは違う。という事は、この柱をどこかからここまで持ってきたという事だ。それも数百本。
軽装の上、魔法装具の助けを借りた秋人たちが十時間近くかかった道のりだ。このような物を持って登ってくることなどできはすまい。
魔法を用いたという事は分かる。しかしそうであっても凄まじい事業であったろう。リリナが見たら解説してくれるかもしれないが、しかしウライフ山中腹どころか、ピクニック気分で行ける「丘の上」程度の場所であっても、この建造物を作るとなればは国家的大事業だろう。「帝国期」の文化的爛熟ぶりがうかがえた
屋根は山塊をそのまま使っているが、階段状の基壇もまた大理石と思しき正方形の巨大な岩が敷き詰められていた。一辺の長さがリリナの身長ほどもある。厚さは分からないが、それでも一個数トンあるだろう。
「参ったな、これは」
「ええ、ちょっとこれはまた」
男女二人は息を呑んだ。
精々大きめの体育館ほどだろう予想していた秋人であったが、これはもう、ショッピングモールがそのまま入るほどの巨大な空間だ。ここから目当てのものを探すというのか。それは途方もない作業であると思えた。
そうはいってもやらなければならない。
二人は内部へと歩を進める。
するとどうだ。
廟の内部にぼんやりと明かりが灯る。
魔法の明かりだ。
「魔法炉が生きているという事ですか」
姫君はちょっと信じがたいという顔でそうつぶやいた。
霊廟が作られてからおよそ八百年。現在通常使用している魔法炉の寿命が五十から八十年だという常識から考えれば、文字通りけた外れの長寿命だが、これが帝国期のレベルなんだと言われれば、もう何も言うことがない。
そも、帝国期の遺構は今やほとんど残っていない。
暗黒龍とその軍勢によって「帝都」リングフィラーモーが灰燼に帰したのがその主たる理由だ。帝国の超技術は現在東王国最大の湖となっている「リングフィラーモー」の周辺にまでしか伝播しなかった。
それも当然で、帝国期の移動手段は半日あればフォーダーンを横断できたと言われている。それがどのような「モノ」あるいは「魔法」であったのかは不明だが、言ってみればすべての領地が「日帰り出張」の範囲内であったのだから、わざわざ出張先にまで金をかける必要はないという思想である。
否、帝国貴族には、帝都に住まう支配者とその従者と、その他大勢の庶民はまったく違うのだ、といった思想的断絶があると考えるのが正しいだろう。
歴史的に見れば、それ故に四英雄の割拠を許したという部分もあるが、もし帝国期の貴族たちが封建的に各領地にそれぞれ住んでいたならば、帝国期の文物はもっと遺されていたことであろう。もったいないことだ。
もちろん破壊を免れた遺構も数多くあるが、そう言ったところも経年劣化や改築などで完璧に残されている物などほとんどない。
だから、この霊廟はその中でも別格のモノだ。
「なぜこの霊廟を魔法協会は重要視していないのでしょうね」
「ああ、嬢ちゃんが見たら大喜びでそこらじゅうを走り回りそうなもんだがな」
二人は歩を進める。
進めるごとにフロアに明かりが灯ると、巨大なレリーフや彫刻が幽玄な光に照らされて、今にも動きださんばかりに二人を睥睨する。
帝国期の皇帝の肖像や業績が立体物となって描かれているのだ。見える範囲だけではあるが、製作者の(あるいは発注主の)個性で統一されている。ある意味では、個人美術館と言っても良い。
彩色はなされていないが、よくよく見れば、やはり下から見上げる時の効果を狙っているのだろう、遠近感を強調するためのデフォルメがされている。
「すげえな」
「はい」
もはや二人は本来の目的も、そして疲労も忘れて見上げながら歩く。巨大な物に対する原始的な畏怖がそこにはあった。
歩き出しておよそ三〇分か。見上げ過ぎて首が痛くなる。そう言ってエルメタインに笑いかけた秋人に対して、姫君は
「もう半分はすぎてます」
と笑顔で答えた。
「なんでわかるんだ?」
「わたくしも最初は分かりませんでしたが、よくよく見ればこちらの皇帝方は、『偶数』なんです」
「偶数?」
「はい、それもどんどん数字が少なくなってくる」
つまりはこういう事だ。おそらくこの建物の中心に初代皇帝『ロウ』が陣取り、右に二代皇帝、左に三代目、右に四代目、左に五、右に……と延々と続いて行っている、という寸法だ。
「ちなみにこれが十八代皇帝、スーザキュリオ二世陛下です。幼帝ですから、分かりやすいですよね」
なるほど、あどけない顔をしている。とはいえ像の大きさはそれでも十メートルを超えているから、むしろ不気味な物であった。
「この霊廟を建てたのは第六十二代皇帝、ミレオン八世陛下。一番最初の部屋にいた人です。そしてこのお方がスーザキュリオ陛下で――あちらの部屋に見えるそうそう、あの茨の腕輪は第十六代皇帝ルズキロム陛下の代名詞ですから、間違いありませんね」
かつての日本人も歴代天皇を暗記していたというが、この王女殿下は三百年前に滅んだ帝国の皇帝、その名前と特徴を全て覚えているという事だろうか。もちろんいわゆる「帝国オタク」ってことも考えられるが、おそらくは古典の素養の一環でしかないんだろうな、と秋人は嘆息した。これからも覚えることは多そうだ。言葉のように魔法で一式あればいいんだけど、とそろそろ記憶力に自信のなくなってくる年頃の男は願うのだった。
*
魔法装具の助けがあると言っても五千メートル級に匹敵する高地での活動は、体力を消耗する。水筒の水で喉を湿しつつ、二人はさらに歩いた。いくらすごいモノでも観すぎれば飽きるというものだ。平地にあるのであれば二人とも走ったであろうが、ここではそうもいかない。ゆっくり焦らず歩を進めるしかない。
しかし何という広さだろう。自分の卑小さを強く感じる、まるで小動物や虫にでもなった気分だ。ある意味、宗教施設が豪奢なのはそう思わせるため、ということも一つの理由ではあるだろう。自分の矮小さを知らしめるための建物。しかしそれにしても、――それだけのためだとしたら――これはあまりに途方もない。
秋人たちはげんなりと歩む。しかしその歩みが止まることはない。止まらなければ、そうだ、目的地には着く。
――ここが。
シャボリー宮殿の地下で、「遺棄されし魔法使い」に導かれた目的地は、まさにここであった。
「帝国」初代皇帝。「大英雄」、イスガンテ・ムシャヤ・アロイレーム・ロウ。
今までのどれよりも巨大な坐像であった。
右手に持つのは霊剣アラガロン。左手に持つは宝珠エスターシャ。座った状態で高さは二十メートル超。さすがに純金ではないだろうが、その表面はほこりすら積もらずに金色に輝いている。
「文句なしにここが中央でしょう」
「これは確かに、教わらなくても分かるなあ」
秋人とエルメタインはしみじみと巨像を見上げた。
威厳のある、だがどこか優しげな瞳が二人を見下ろす。よく来たな、と言っているようであった。
否、それは決して彼らの思い過ごしではなかったのだ。
「うお」
秋人は思わず声を挙げる。
胸の勅令がぶるんっと震えたからだ。
と同時に像の目に青い光が灯った。
それと呼応するかのように、壁の幾何的なレリーフも同じ色の光を満たす。キシン、キシン、とまるで真冬に湖が凍る時のような深く静かな摩擦音が響いた。
二人はもはや声もない。
像の目から照射された光と、壁の模様から照射された光。それらは合わさって複雑な文様を描く。魔法象形文字だ。
何が起こるのか、まったく想像も出来ずに二人は事の成り行きを見ていると、像の目がかっと開かれた。
次の瞬間。
二人の足元の空間が無くなった。
文字通りの意味でだ。
落とし穴の蓋が開いたとかではない。巨大な大理石の床が消失して、当然の帰結として自由落下する。
「むっ」
秋人はどちらを選ぶのか瞬時に判断した。
エルメタインを抱きしめるか、呪霊刀のアンカーワイヤーを壁に打ちこむか。
選んだのは前者だ。
バネ脚を姫君が装着しているとはいえ、高さが三十メートル以上になれば衝撃を吸収しきれない。であるならば、と秋人は彼女を抱え込み、瞬間的にワイヤーを射出しようとして、その時にはすでに、落下が止まっていることに気付いた。
落下はほんの一瞬。今、彼の肉体は中空にとどまっている。
どこだ?ここは。
「失礼」言って秋人はリリナの腰を離した。
「大丈夫です」
リリナは首を振り、周囲を見晴るかした。
「――!」
二人とも息を呑む。
それはそうだ、誰だってそうなる。今の今まで、薄暗い、ウライフ山中腹の霊廟の、始皇帝の間にいたはずなのに。
足元には、ウライフ山が雪を頂いたほぼ真円に広がっている。それだけではない。
「これは、――これは」
秋人はこの光景を知っている。
あの日に幻視した光景だ。
あの日、そう、五歳の誕生日に祖父の膝の上で見たあの木彫のままの光景が、足下に広がっていた。
彼らは、ウライフ山の山頂をはるかに超えた高所、フォーダーン、その人の統べる土地、「緑の丘」を全て足下に見ているのだ。
エルメタインも見た。
美しい銀色に光る「水晶の杜」。
何度も望遠鏡で見た、あの美しい世界が今や伸ばせば手に触れそうなほどに近い。そしてなんという大きさ、広さであろうか。まさにそれは世界の天蓋である。
「ああ――」
自然と、彼女は声を発していた。
涙があふれていた。
そうだ、ようやっとここまで来た。
帰りたかった故郷が、ようやっと目の前にある。
*
二人が自失から帰るのは早かった。
ここはどこなのか、
それはもう、考えるまでもない。ここは、空の上だ。空の真ん中、といった方が良いのかもしれない。
龍道を没しつつある太陽が見えた。
男女がいるのは龍道の中、その中央である。
おそらくなんらかの壁、力場が存在しているのだろう。呼吸は霊廟の中よりもずっと楽であった。平地のころと何ら変わらない。
無重量状態。
(思考実験として)地球の中心まで行くと、質量が互いに打ち消し合うので、無重力状態になる。ここもそういう事だろうか?
秋人はそう考えつつ、周りを観察してみる。
何もない。
正確には一つを除いて何もなかった。
赤茶色の、玉。直径は三メートルほどか。それはこの場において秋人、エルメタイン以外で形のある唯一のモノであった。
――まあ、選択肢ってほどではないね。
そうだ、秋人は選ぶことすらできない。彼はエルメタインの腕をつかむと、今度こそ呪霊刀を変形させ、アンカーワイヤーをその玉へと打ちこんだ。
そうすると意外なことが起こった。
赤土色のほぼ真球の形をしたそれ、それはアンカーを打ちこまれて叫んだのだ。
「んぎゃぴいいッ!!」
その赤土色の毛玉は、ばっと「展開」して、その正体をあらわにした。
翼ある蜥蜴
竜。
体長は尾までいれて五メートル、頭と目がデカい、寸詰まりの可愛らしいとさえいえる顔をしている。腹は黄色く、いわゆる「蛇腹」状である。手足にはとげとげとした鱗が生えている。だが、一つの大きな特徴が、それの正体を単なる爬虫類ではないと主張していた。
赤土色のほこり、あるいはカビのように見える物で覆われた翼、その表面はお世辞にもかっこいいとは言えなかったが、翼長およそ八メートルのその存在は、フォーダーンすべての生き物と一線を画していた。
その隔絶した存在は、ぎろりと瞬膜でまばたきすると、オレンジ色の瞳をこちらに向けた。
「いきなり何するんだよ、痛いじゃないか!」
虚を突かれる。
少年の声だ。悠太よりももっと幼い、小学生のそれだった。
竜であったのもそうだが、その存在が子供のように、子供の声で喋るなどというのは予想外にもほどがある。
二人は中でくるくると回りながらも顔を見合わせた。
見合わせてから、秋人がうなずくと、ゴホン、と咳ばらしてから、
「すまなかった、気付かなかったんだ。許してもらいたい。私の名前はハニュウ・アキト。地上世界から来た。こちらの女性は……」
と、そこまで語ったところでその「竜」は、食い気味に語りだした。
「あー、いいよ、わかるわかる。別にニンゲンの個体識別なんてキョーミないけど、そのメスは違うもん、そいつは『紛いモノ』だよ。うんうん、珍しいねえ。それとも僕が眠っていた三百年の間にそう言うのが『緑の丘』じゃ流行ってるの?」
そう言ってからけたけたと笑う。
無邪気な笑いだ。
だからこそそれは、その笑い声はアキトと、それからもちろんエルメタインに響いた。
――「紛いモノ」?なんだそれは?
秋人はぐらり、とめまいを覚える。
それは決して無重力のせいばかりではない。




