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二つの途 1


  第十二章 「二つの(みち)



          1


 そっと、リリナの白魚のような指が悠太の腹に触れる。

 上気した顔が驚くほど近くにあった。


 笑顔のような、苦悶しているような、不思議な顔だった。


 宿屋の二つ並んだ寝台、今宵の月は満月であるが、ここ宗教都市ハザリクはウライフ山の麓に位置しているため、「灯台下暗し」の原理で夜は昏い。だから魔法の明かりが廊下を照らして、その隙間の光と、窓に映る満艦飾の明かりを灯した宗教施設の夜景が、リリナの顔に複雑な陰影をつけていた。


「ユータ」


 美しいその声は、しかし熱く湿っていた。

 ゾクゾクっとその声に彼の背筋には電流が走る。

 みしっと、あまり質の良くない寝台を鳴らしてリリナが悠太の上に乗ってくる。


「寒い、ね」


 言われてみればその通りだ。一応床暖房が入っているが、地上世界に換算すれば二千メートル級の高度に匹敵するこの地は、秋口とはいえ外気温は既に一度か二度といったところだ。 

 安宿の窓ガラスは二重になっていないから、カーテンを閉め忘れるとそこから冷気がもろに入ってくる。


「う、うん」


 悠太はどぎまぎしながら、まるで喉の奥にイモでもつっかえたように、ようやっとそれだけを答えた。

 クスッと、今度は明瞭にリリナは笑った。

 長い黒髪がさらさらとこぼれて悠太の顔をなでる。

 彼の上に馬乗りになったリリナは、それから自身の夜着のボタンを下から外していく。

 悠太は物も言えない。いや、正確には呼吸さえしていなかったかもしれない。

 少女の指はボタンの上三つだけ残して外すのを止めた。控えめだが、しかし存在感のある美しい二つのふくらみの下部が、三分の一ほど覗けている。

 リリナがそっと腰まで毛布を引いた。

 おそらく寝ている間に、彼の夜着は前を開かれて、裸の上半身がまろび出ていることに今更気づく。旅を始める前から比べると、おそらく五キロは脂肪が減り、筋肉が二キロほどは増量している。腹筋は男らしく六つに割れていた。

 その腹筋をもう一度、リリナが今度は手のひらでなぞる。

 緊張と混乱で悠太は指一本動かせない。


 少女はやや緊張した面持ちで、それからそっと己の腹部と悠太の腹部をくっつけた。

 暖かな、そして柔らかくしっとりと吸い付くような肌理(きめ)の細かい皮膚が悠太の腹に合わさる。


「あ」

 

 少女はしばらくそのまま抱きついたままだ。ゆっくりと体温がなじむのをまってから、合わさった肌を、やがて少女は少し動かした。

 白磁のように滑らかな肌は自在に蠢く。どちらかの、否、二人の汗が混ざり合い、摩擦が少なくなると同時に、感覚は鋭敏になる。体温が交換され、上がり、皮膚と皮膚、その下の筋肉と筋肉がどちらの物とも判別できなくなり、互いの臓物が絡み合い、その粘膜もとろけ、二人の熱が、血が自由に交換するかのように動き、循環し、やがて、二人の身体は発光するかのように輝きだし、悠太の視覚は光の奔流にくらんだ。そして、やがて―――、


「!うっ」


         *


 白い光は潮が引くようになくなり、暗い暗い、真の闇が彼の視覚だけでなく肉体を支配した。

 やがて悠太はまぶたを開ける。


――ここはどこだっけ?


 一瞬だけ記憶が混乱したが、頬に感じる冷気が、今の今まで見ていた、感じていたそれが夢であることを教える。あまりに真に迫った、未だに腹には体温すら感じるその経験が夢である、と断言できるのは、横の寝台ですうすうと静かに寝息を立てているリリナの存在だ。

 ぎしぎしと音のしそうなほどに強張った首を力づくで逆側に曲げると、夢の中で見たのとそのままに、満艦飾の明かりも眩しい古刹が目に入った。

 何もかも夢のままだった。

 夢?

 本当に何もなかったのか?

 そう自問して、それから苦笑する。

 たとえ何があっても、あの少女があんな真似をするはずがないじゃないか、と苦笑する。

 悠太は夕飯に食ったチーズ入りの水餃子を食い過ぎたのが原因だな、と胃のあたりをさする。あまり上等ではない肉とチーズがみっちり詰まった水餃子が、腹の中でごろんと転がっているかのようだった。

 ふーっと息を吐くと、ようやっと先ほどの夢の甘ったるい残り香が消えたように思えた。そして少し冷静になった意識が、下半身の異常に気付く。


 濡れた感覚。


 最初に思ったことは「この年齢にもなっておねしょをしちまったのか?」という恐怖だった。だが、濡れた感触は一向に広まることは無い。音をたてないようにパンツの中に手を入れてみて、そのぬるっとした感触に少年は口を「あ」の形に開ける。


 彼は、夢精していた。



          2


 何をしているんだか、とリリナは寝ぼけながら、荷物をガサゴソやっている悠太を半目で見た。

 もちろんいかな魔法使いと言えど、自分が出演した夢のせいで少年の下着が大変なことになっているなどとは想像の外であるから、まあ、いろいろあるのだろう、と思い、抜き足差し足で部屋から少年が出て行った後、静かに目を閉じて、眠ろうとした。

 その際に、何も考えずに眠ればよかったのだが、基本的に貧乏性である少女はつい、あれから何日経ったのかを脳内で数えてしまった。


 伊藤駿介が死んでから十二日。

 この街についてからすでに五日。

 この宿に泊まってから今日が二泊目の真夜中である。

 そうだ、姫様と分かれてから二日が経っていた。

 

 ここはハザリク市旧市街の宿屋。値段からいえばかなりいい部屋である。もちろん野宿などとは比べ物にならない。

 そうだ、姫様の受けている苦難と比べれば、こんな布団の中でぬくぬくとしているなどとは!

 リリナは爪を噛んだ。



             *



 六日前のことになる。

 野営の準備を整えた後、リリナは今後の予定について語りだした。

 

「目的地であるハザリク市はウライフ山信仰、巡礼の街です。多くの名刹古寺が立ち並んでいる自治領となります。ここで私たちが登山用品を揃えて、霊廟まで一気に登りましょう。姫さまは申し訳ございませんが、顔をお隠しになって……」


 野営の焚き火の下、その日の夜、リリナはそう切り出した。顔を隠すのにもちろんエルメタインに否やは無い。殺戮粘菌の脅威は文字通り骨身にしみているのだ。


「しかし」

 秋人は夕刻に捕らえた小鳥の丸焼きを骨ごと噛み砕きながら当然の疑問を口にした。

「王家の霊廟には何があるんだろうな?」

「宝石、とか?」

 悠太がスープを吹き冷ましながら合いの手を入れる。

「宝石ももちろんあるでしょうが」

 エルメタイン姫は堅パンをスープに漬けてふやかすと、一口頬張った。

「しかしそれで何事かが変わるとは到底思えません。王家の宝物庫には鵞鳥(がちょう)の卵より二回りほど大きなダイヤモンドが仕舞われておりますが、それは高価ではあっても何かを生み出す品ではないからです」

「フォーダーンにおいて」

 リリナがぽつりと言った。

「フォーダーンにおいて、結局最も高価なものは魔法の道具です。王権の鍵となる秋人さまの『勅令(ハイレン)』もそうですが、たとえば伝説にある「四神器」や、そうでなくとも帝国期の高価かつ強力な魔法装具が隠されてあれば、それの威を用いて王位を継承することも可能でしょう」

「ほとんどクーデターだな」

「しかし、それもまた仕方のないことです」


 ふん、と秋人はリリナの言い分に鼻を鳴らした。まったく、仕方のないことだらけだ。そもそもフォーダーンに来たことそのものが仕方の無きことだというのだから!


「まあ、疑問は全て霊廟に着けば分かることだろうさ。嬢ちゃん、お師匠さんとはやはり連絡は取れないんだろう?」

 もちろんリリナは日に何度かは彼女の師である『遺棄せられし魔法使い』との念話を試みている。しかし今まで一度として繋がったことはない。城の地下宝物庫で意味ありげに助言を与えた彼女から、もっと具体的な情報が引き出せたなら、一行の大きな力になることは想像に難くない。だが、結果はいつも同じだ。

そもそも「着信履歴」が残るわけでもない。隠者であるところの老魔法使いがいつでも「念話」の魔法をセットしている方が考え違いという物ではあろう。

 だから少女は、黙したまま首を縦に振るしかなかった。


「だとしたら、やはりここでごちゃごちゃ考えていても始まらねえよなあ」

 一同はうなずき合う。


 ――そう、この場を仕切っているのは、今や羽生秋人であった。


 リリナも、悠太も気付いていた。もちろん主導権を失った側のエルメタイン姫が気付いていないはずもない。だが、当の秋人は決してそこに気付いていない。

 秋人にしても、自分が決断をしていることは理解している。だがそれは全て「雑事」を片付けているに他ならないと思っているのだ。自分は本当の意味で重要な決断などしていないのだ、と。  

 あくまで代理人であって、本来の責任者はエルメタインである、彼女の意志によって動いているのだ、という主張である。

 だが、あれからときおり微笑を浮かべる以上の笑顔を見せないエルメタイン姫はそうでないことを知っている。秋人は自らの意志で、自ら進んで今この場を取り仕切っているのだ。今のところ彼女たちに反対意見がないから衝突が起こらなかっただけであり、いつかその時が来たとしたら、彼は己の決断を()げることなどないであろうと、その確信がある。


 そして、その時は意外なほど早くやってきたのだ。



         3


 オカアザラシの革で作った頭まで覆う防寒具、ナガゲラクダのセーター。絹の下着。登山用の靴、アイゼン、背負い鞄、駿介の羚羊馬と金貨を数枚使って、一行の手持ちの金は半分ほどになった。

 中古品もあったが、ウライフ山に登る中でも最も遅い時期の装備は、高価にならざるを得ない。

 もちろんここまでくれば霊廟までのルート、その詳細も分かる。

 分かるがしかし、その道を使う者は既に途絶えて久しいという事も同時に分かった。


「ある意味予想の範疇ですね」

 とリリナはこめかみを揉みながらそう言った。


 魔法協会があまり重要視していない遺跡だ。そう大したものではないだろう、という推測が成り立つ。帝国後期、第六十二代皇帝ミレオン八世が作らせたと言うが、ウライフ山の中腹という険しい場所だ。作ったという事実だけで偉業と言えた。

 であるのならば、観光や崇敬の目玉にはなりえまい。それほどの難所という訳ではないが、命の危険は常にある。そこまでして行った結果、それほどのものでもない遺構であるのならば、行く人も絶えて途絶えるのも道理という物だ。


「しかも、割と遭難者は出ているみたいです。大人数で行くと、かなりの確率で遭難します。山の事は分かりませんが、そういう物なんでしょうねえ」


 山登りに詳しい者はこの中で誰もいない。一応秋人は訓練で夏山の北アルプス縦走と、冬の富士登山をしたことがあるが、単なる素人の彼が昇り切った一月の富士山を、その翌週にフランス人のプロ登山家が滑落して死んでいる。リリナの言ったとおり、山とはそういう物なのだ。


 だがその言葉よりも、リリナの言葉遣い、吐息の漏れ方に悠太は違和感を覚えた。

 顔色が白いのは、魔法の明かりの調整不良だろうか?


 街の宿屋、エルメタインとリリナの部屋で明日の登山のための最終確認のために集まっていた。エルメタインは部屋の中に入って、ようやっと顔を隠している包帯を解くと、開放感に安堵の息を吐いている。

 治癒魔法も、地上世界の近代医学も「自己免疫系」の病に弱いのは同じことである。何せ「元に戻す」行為自体が病気を進ませる事になるのであるから、『業病』というものは天蓋世界であってもなくならない。だから霊場であるこの街に限って言えば、顔面を包帯でぐるぐる巻きにしていても、同情の目で見られるだけで、それほど人々の関心をひかない。ウライフ山の精気による奇跡を望む者たちが引きも切らずに巡礼しているからだ。

 そして、ウライフ山の奇跡を最も切望しているのは、ほかならぬこの一行であったろう。

 明日の朝、というよりは夜中の三時にここをスタートして、十二時間かけて霊廟へと向かう。霊廟へと入ってさえしまえば、後はリリナの魔法で一泊ぐらいならばなんとでもなる。

 食料もピンダルゥの実があればあとは雪を溶かした水だけでいい。行動食として蜂蜜菓子と塩気の効いた干魚を少し買ってきたが、それで十分だ。ただしピンダルゥの実はあと残り八個。街の貴金属店で見たその値段は既に一週間前の三倍になっていた。目の玉の飛び出るような金額であるが、売って現金化するわけにはいかない。「魔法力」を補充する唯一の霊薬であるのだから、これは金では引き換えられない。


「まあ、なんにしろ情報が少なすぎるからな。だが、俺はリリナの師匠の言葉を信じるよ」

 秋人はもじゃもじゃ頭をかいてそう結論付けた。


 なにがしかはあるだろう。

 それが本当の意味で状況をひっくり返すのか、それだけが不明なだけで。


 一同の間に沈黙が落ちた。このような時に明るい声で場を盛り上げてくれていた男はもういない。

「さて、明日は山登りだ。早いとこ寝ないとな」

 秋人のその言葉に、場はお開きになった。



          *



「――リリナ」

 姫君は強い視線で侍女の名を呼んだ。


 宿を出て四時間、本格的に山を登り始めて三時間といったところだ。

 まだ細い木立がそこらに生えているが、ガラガラとした岩だらけの荒涼とした道である。それでもまだここは巡礼ルートであるから、歩きやすいことは歩きやすい。小休憩をはさみつつも順調に一行は登っていく。だが、異変はほとんど突然に起こった。

 少しずつ、遅れがちになる者がいた。

 リリナである。

 遅れがち、などというものではない。

 未だ太陽はウライフ山の山頂を薄く照らすのみで、少女は自身が灯した魔法の明かりのもとで、その白い光とはまた別に、蒼白であった。

 汗もかいているが、これは脂汗というものであろう。

 明らかな異変である。

 秋人と悠太が来た道を戻ってきていた


「大丈夫です」


 リリナは言葉少なにそう言うが、強がりであることは誰の目にも明らかだ。息も上がり、目も虚ろである。


――高山病か。


 秋人は急ぎ過ぎたかと後悔する。高山病は誰にでも起こりうる症状だ。プロの登山家であってもなる時はなる。それでも唯一予防策といえば高度に馴れさせる、という事に他ならない。

 ハザリク市に着いてから二泊している。十分かとも思ったが、そうではなかったようだ。だが、またなんという事だろうか!

 そこで、はっとエルメタイン姫が気付く。

 「リリナ」そう言って耳打ちすると、少女は恥ずかしそうにコクリとうなずいた。

 ああ、やはり。と複雑な表情でエルメタインは秋人のそばまで来ると、リリナの周りを忠犬のようにうろうろと周っている悠太の耳に入らないように声を押さえて、こう言った。


「リリナは、月のものが来ています」

「ッ……!マジかよ」


 秋人は小さく、しかし硬い落胆の声を出した。

 生理と高山病に正の相関があるかは議論の余地があるが、生理痛と高山病がダブルでこのか細い少女を(さいな)んでいるのであれば、取るべき道は一つだ。少なくとも急性の高山病ならば高度を下げればすぐに良くなる。問題は……。


「どうします?リリナが恢復(かいふく)するまで延期となさいますか?」


 エルメタインが翡翠(ひすい)の瞳で秋人を見つめる。ほとんどの男が心を(とろ)かされるような美しく澄んだ瞳であった。

 だが、秋人はその瞳の魔力に頓着(とんちゃく)せず、ガリガリと頭をかいた。

「今日明日の天気は快晴。だが、この後どうなるかは――『山の天気は変わりやすい』。しかも時期としては霊廟に行けるチャンスはあと二週間ほどしかない。そうなれば」

 もう半月もすれば冬山となるウライフ山に登るのは、これは自殺とそう変りない。

 秋人の決断は早かった。

「悠太、お前さんの『魔法装具』を借りるぞ。そして、リリナ嬢ちゃんを連れて、お前は下山しろ」

「私は大丈夫です!」

 リリナの反論を秋人はブツンと断ち切る。

「高山病は最悪死ぬ。治癒魔法を使える人間が嬢ちゃん以外にいないんだ、どうしようもない」

「姫さま!」

 懇願するような目でリリナはエルメタインを見たが、姫殿下もきっぱり首を横に振った。無理なものは無理だ。確かに少女の能力は得難いものだが、しかし文字通りの意味で生命を危険にさらしていいはずもない。


「なに、『皇帝の鎧』を着ければ遭難することもまずないさ。エルメタイン姫の『バネ脚』も、登山にはこれ以上良い物もないしよ」


 そのとおり、エルメタイン姫のたおやかな足には駿介の遺品である『バネ脚』が履かれている。先ほど根雪の上で試したが、氷との相性も抜群で、足底が自由に可変して鋭いアイゼンを形作ったり、常に最適なソールパターンを作り出したりする。本領である爆発的な跳躍力はこの高度では体力の消耗が致命的であるからそうそう使えないが、それでも充分肉体的なサポートを行っている。

 エルメタイン姫は優しく、だが確信に満ちた笑顔でコクリとうなずいた。

「任せなさい」と言い、それから悠太の方を向くと、「ユータ、リリナをお願いします」と続ける。

「姫さまぁ……」

 リリナは紙のように白い顔で、しかし抗議の声そのものの音量が我ながら小さいことに気付き、自分が今ここでは足手まといでしかないことを理解した。

 ツン、と鼻に涙の刺激がはしり、いくらなんでも泣くのは柔弱に過ぎると自らを叱咤(しった)する。そして筆頭侍女の少女は堅い笑顔を作り、「分かりました」とだけ告げた。


「帰ったら、あったかいお茶を入れておいてね」

 姫君は優しい笑顔でリリナにそう言うと、再び山道を登り始めた。

「そういう事だ――すまんがピンダルゥの実を……」

 もちろん登山をする者にこの霊薬を食べる優先順位がある。リリナと悠太はそれぞれ二粒ずつ持っていたピンダルゥの実を半分渡し、登山の無事を祈る、と秋人に告げた。


「ああ、もちろんだ」


 秋人はそう言って笑うと、悠太の頭をくしゃりと撫でた。


            

           *



 それが二日前のことである。

 リリナの高山病は、町まで降りるとあっさり治った。生理痛も、それだけならば意志力で何とかねじ伏せられる。

 あれからどうなっているのか。無事であるのならば今日の昼には下山しなければおかしい。明日以降、天気は崩れるとも言っていた。だとしたらなおさらだ。

霊廟に何もなくとも仕方がない。せめて無事に帰ってきてほしい、と少女は祈る。


 窓の外では暁天(午前五時)の鐘がかすかに鳴り響いた。

 この地では外はまだ夜ではあるが、寝られそうにない。

 リリナはそっと寝台から起きると、貫頭衣の夜着の上に(考えてみれば少年の夢の中の少女は、高橋家で着用していたパジャマを着ていたのだった)毛織りの外套を羽織る。オカアザラシの防寒具は売り払い、その金で購入した少数民族の作ったしっかりした物である、この程度の寒さならば問題ない。

 

 卓上灯を付けた。

 そのテーブルの上には紙とペンが置いてある。数式が書きつけられていた。

 彼女はその数式をじっと見つめると、やがて数式に数字を書き加え出す。

 カリカリ、と付けペンの走る音が部屋に静かに響いた。


「わっ!」


 小さく悲鳴を上げたのは悠太である。汚したパンツを替えて、洗ってきたのだ。まさかリリナが起きているとは想像だにしていなかった。少女はちらりと悠太を見ると、「気にしないで、寝ていて」とだけ言うとまたもや数式を書くことに没頭し、「むーっ」と唸ると、テーブルの上にある大分の辞典を開く。

 辞典だけではない。テーブルの上には分厚い本、手書きの写本、巻物といったものが山をなしていた。

 これらは全て悠太が借りてきたものである。

 『魔法協会』はかつてリリナが言ったようにあまねく世界を真理の明かりで灯している。そしてその支部は、数万人規模の町となれば必ず存在する。

 ましてや宗教都市たるここハザリク市には各宗教団体が共同で作り上げた立派な図書館があるのだ。魔法協会の人間ならば閲覧は自由。そして少女の有している『黄金の位』のメダルは貸し出しも無制限となる。少女はこの部屋に閉じこもったきり、こうやって机に向かってペンを走らせている。その合間に本を引き、さらに数式を書き、そうして悠太の買ってきた惣菜を食べて一日を過ごす。


 『魔法使いのメダル』は少年が親指と人差し指で丸を作った時ほどの大きさをした協会が発行している身分証明書だ。だがそこには名前の一つも書かれていない。ただ偽造防止の紋様が刻まれているのみだ。

 それは身分も、犯罪者も関係なく門戸を開く、という協会が掲げている自由さのゆえに、必要なものなのだ。青銅、銅、白銅、銀、金、白金と五種類に分かれていて、当然のことながら白金が最高位だ。とはいえ白金の位階はある種の名誉位階であって、宮廷魔法使いなどの高級官僚、貴族、あるいは魔法学校の校長といった「魔法使いの権威を高めた者」に与えられる称号であり、能力に応じて与えられる地位としては金の位階が最高位である。

 もちろんリリナのごとく十五歳で金の位階というのは破格であり、史上三人目となる。

 本人でなくとも使いの者にこのメダルを持たせ、そのメダルが本物であると鑑定されれば、資料の閲覧貸し出しが行われる。とはいえそれは銀の位階以上に限られる。そもそも銀の位階以上で全魔法使いの五パーセントにしかならないし、金の位階と言えば一パーセント強だ。白金の位階について言えば一時代に一〇人もいたためしはない。限られたエリートであるから信頼もある。

 その上で「魔法使いのメダル」は「魔法の若枝」とはまた別の意味で魔法使いの分身である。どこにあっても持ち主はそのメダルの位置を捉えられるし、持ち主が死ねばそのメダルも同時に変色して『死ぬ』。

 門戸は常に開かれている、という魔法協会の考え方から生まれたこのメダルは、リリナのようにお尋ね者にとってはとてもありがたい物と言えた。

 

 もちろん、お尋ね者だから使っている、というのが本当の使い方ではない。リリナはなにごとか計算し、魔法式を作り、それを実践し、また計算し、本を繰り、また書きつけて、を繰り返し行っている。

 その合間に悠太に「この本を借りてきて」や、あるいは貸出し禁止ならば「この写本の何ページから何ページまでを写してきて」と言った指示を出し、その隙間に悠太の買ってきた惣菜を口に運んで、バタンキュウと寝床に就くのだ。魔法使いとは元来そういう生活を送るものだ。

 確かに本人が借りに行くのは手間だけではなく、精神的なテンションも下がってしまうだろうから、代理の者が行くのは理にかなっていると言えた。


 だから、悠太はこの街についてだいたいのことを知ることになった。

 図書館との間を一日に三往復程度、更に美味いと評判の惣菜屋を探し、道すがら異世界のなかでも特に異界の香りのする宗教施設を観光した。

 左右対称、幾何的完璧さをもっぱらとする金属製の寺もあれば、ある種の蟻塚を思わせる有機的な建物や、毒々しいとさえいえる極彩色に塗られた塔、あるいは壁も何もない掘っ立て小屋の中で(気温は一〇度を下回っているのだ)一心不乱で祈る僧たち、と言ったさまざまな宗教が一つの都市の中に共存しているのは地上世界ではまずお目にかかれない光景で、少年の好奇心を満足させた。

 もともと「街歩き」は毎日していたのだから、そう言った方面の偏りはあるのだろう。

 見る物聞くことが常に目新しいのは、悠太のともすれば不安に押しつぶされそうになる精神を慰めてくれた。


 だが、何よりの慰めは。


「いや、寝付けなくて。勝手にやっていることだから、ユータは気にしないで」

「ん、うん。そうさせてもらうよ」


 悠太は濡れた下着をそそくさと隠すと、毛布にくるまった。

 ――なんといっても、この少女とともにいるという事だ。


「明るいんだったら、わたしのベッドで寝てもいいよ?」

「あ。いや、それは……」

 遠慮しとくよ、と口ごもりながら答えた。

少女の香りや体温が籠ったベッドで寝たりなんかしたら、また『出して』しまいそうだ。そうなったら、替えの下着はもはやなかった。


 少女は興が乗ったのだろう、無言でカリカリと数式を書きつけていく。少年はその音を聞きながら、再び微睡(まどろ)んでいくのだった。



         4



 午前(ひるまえ)


 ハザリク市にある宗教施設は大小百以上。それぞれに意匠を凝らした個性的な建築物であるが、もちろんごく普通の市井の人々も住んでいる。

 近くで取れる白茶けた石と、マツやモミ、トウヒと言った豊富な森林資源を背景にした重厚な二階建ての家々が連なる。

 都市計画はきちんとしており、ほんの少し台形をした緩やかな坂の町は大通り、中通り、小道に至るまで直角に交わり、すっきりと配置されていた。

 大通りでは様々な商店が軒を並べ、巡礼に来た人間を相手にお土産や食事、それに何より大事なそれぞれの神への捧げ物を売っている。

 「だがね」とは宿の女主人の忠告だ。ころりと肥った女主人は大通りの商品はやはり観光客価格であり、一本入った中通りで、しかもぽつんとやっているところがいいものがあるのだ、と教えてくれた。なるほど確かにそれは真理に近い。

 昨晩はつい誘惑に負けて大通りの水餃子を買ったが、どうもボリュームばかりがあって味はイマイチであった。リリナはもちろん文句を言わなかったが、見た目と誘い文句に騙された感がある。


 悠太はリリナに言われた通りに資料を書き写して帰る途中であった。そして、おそらくここであろう、と目星を付けた曲がり角に、やはりその店はあった。


 (しわ)でくしゃくしゃのお爺さんが一人でやっている、店の前に三人座れるかどうかという床几(しょうぎ)が置かれているのが看板代わりだというから間違いなかろう。

 醗酵させた米をすりつぶした麺に、鳥の肉とスープを加えて香草をかけ、酢と魚醤と砂糖に唐辛子で味付けするというスタイルだ。図書館の司書さんから教わった穴場である。持ち帰りも出来るそうだから、昼飯としてリリナに持って行ってやるのもいい。

 だが、今はとりあえず持ち帰るに足る味かどうかを見極めなければならない。

 少年は銅貨を何枚か老人に渡すと、薄い木の椀に入れられたその麺を受け取る。さっさっと壺の中から匙で調味料を加えると、床几に腰かけ、箸(そう、この地域ではナイフやフォークよりも箸の方が主に使われる)で麺をすする。


「――うまいなあ」


 悠太は思わず声を出した。鳥の出汁がじんわりと効いている。そこにそれだけで旨みのモトともいえる酢や魚醤が絡まるのだ。砂糖と唐辛子もいい仕事をしていた。

 香草の青臭い香りも爽快だ。

――これはリリナに食べさせなきゃな。

 悠太がずるずると麺をすすっていた、その時だ。


「ここを、いいかな」


 落ち着いた声が悠太の上から降ってきた。

 もちろん、と麺をすすりながら首を縦に振ると、少年は床几の端に寄る。公共の食事の場では互いに譲り合いの精神が大事だ。

「すまんな。――ラグア、ルギア、お前たちも付き合え」

 男の声に、若い女たちは「はっ」と揃えて声を発すると、「えーっと、なんにする?」「なんにするって言っても大盛りか、肉大盛りぐらいしかないわよ」「何言ってるのよ、そこは大事なところじゃない!」「太るわよ」「そのくらいじゃ太りませんー」

 (かしま)しい。

 少年はちょっと笑った。隣に座った男も笑ったらしいことが知れた。

「そういや、どうしますー?」

 女の一人が男へ声をかけた。

「ハルザット様も大盛り肉マシマシにしますか?」


――え?

 少年は耳を疑った。


「いや、私は普通でいいよ、普通で」

 そう答えた男。

 少年はお椀から顔を上げてその姿を見た。


 軽装の鎧に身を包み、鍛え抜かれた身体。年は四〇がらみ、なのに長い髪も髭も純白だ。そして猛禽のように鋭い黄金色の瞳。


 そう、見間違えるはずもない。その男は、西王国一の武芸者として名高きゴッサーダ・イン・ハルザット子爵その人であったのだ。



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