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転章

 覚えている。

 祖父の膝に乗り、その木彫もくちょう細工をさわった日の事を覚えている。

 あれは確か五歳の誕生日だった。ということは五月だ。まぶしい初夏の陽光が差し込む自室に祖父は彼を呼ぶと、普段は古新聞で覆われたガラスケースに入れられている木彫りの卵を手渡した。


「じいちゃんのじいちゃんが作ったんだ」


 祖父の祖父、つまり彼の高祖父は木彫家として高村光雲の薫陶くんとうを受け、その才能を高く買われた人物であったが、惜しむらくは当時の死病である結核を発症して若くに亡くなった。

 その高祖父が帝展ていてんに入選を果たしたのがこの卵型の木彫細工である。


 祖父がその卵の殻をぱかりと開けてくれた。


 彼は目を見張る。自分の頭ほどもある木製の卵、その内側には一大パノラマが収蔵されていたのだ。外側は行く年月に磨かれて黒ずんでいたけれど、内側は栃の木の白い肌理きめが未だに保たれている。


 卵の天と地を結ぶ細い棒がまず目に飛び込んできた。その棒は上り下り二頭の龍が絡まり合うことで作り上げられ、卵の天地を繋つないでいた。そして龍は中央でまるで接吻をかわすかのように球体を保持している。


「この球が、お日さま」


 彼の頭の上から祖父が説明してくれた。


「ええー?」

 彼は目を丸くした。


「お日さまはこのウライッフ山から出て、ナリタリアのカロニクド山へと入っていく」


 太陽が自分の頭の上を周っていることを早熟だった彼は知っていた。しかしこの卵の世界はそうではないのだ。上へ上へとどこまでも昇ってやがて消えていく太陽。それがどんなものなのか、彼は幻視して、陶然とうぜんとした表情を浮かべた。

 祖父は節ばった指で卵の底面中央に鎮座ちんざましましている山を指し示した。富士山を思わせる円錐状の山はその噴火口から溶岩ならぬ龍を噴出させていた。


「ウライッフ山はこの地球にあるどの山よりも高いんだ」


 彼はまたもや感嘆の声を上げた。


「これはサルシア湖、日本全部が入るくらい大きい。これはヒラネの渓谷、長さは馬で……そうだな、自動車で一週間くらいかかる。しかもこの谷には翼を持った龍の塒ねぐらがあるんだよ。これは……」

 彫刻はまったく精密に土地の起伏を刻んでいた、「ウライッフ山」を中心に平行四辺形の形をした大陸の事を祖父は「ホルダン」と呼び、遠い目をして彼にその土地の名前と特性を教えてくれた。

 五歳の少年にとって祖父の一言一言はなんと刺激に満ちていたことか!まだ見ぬ世界、という意味ではアメリカや中国、いやいや隣の町でさえも彼にとっては同じくらい未知であったが、祖父がこうやって手に取り、教えてくれる世界の手触りは地表にあるどの土地よりも真に迫って想像力を刺激した。


「これは?これはなんなの?」


 彼は卵の天辺を指差す。そこは天然自然の土地、というよりも水晶や黄銅鉱のような結晶状の広がりが彫られていた。その堅牢けんろうで幾何的きかてきな形状は木で出来ているということを忘れさせる鋭さを持ち、作者の非凡な腕前が子供ながらに感得できた。


「そこは世界の天蓋てんがい。水晶のもり、って言うんだ」

「てん、がい?」

「そこには妖精の王さまが住んでいるんだぞ」

「ええええ?」

「そして水晶の杜から落ちてくる神様の果実、『ピンダ―』。こいつはほっぺたが落っこちるほどおいしいし、一さじ食べれば三日は腹が減らない」

「ボクも食べたい!」

 そこで祖父は呵々(かか)と笑った。

「そうだなあ、じいちゃんも食べたいもんだ」


 そこで祖父は秘密を打ち明けるように彼にそっと耳打ちした。


「実はな、じいちゃんのじいちゃんのそのまたじいちゃん、ずーっと昔に俺たちのご先祖様はこのホルダンからやってきたんだ」

「本当に?」

 彼は瞳を輝かせる。

「本当だとも」

「すごいすごい!」

「だけどこれは友達に言っちゃだめだぞ。お姉ちゃんも知らないんだ、男だけの秘密」

「ひみつ?」

「守れるか?」

「うん!」

 そうかそうか、と言って目を細めた祖父は木彫細工の中の世界について、更に詳しく彼に説明をしてくれた。


 島よりも大きなイカの怪物。

 砂漠に旅する人を襲う人食いミミズ。

 美しい魔女。

 人を不幸にする魔法の剣。

 石にされた王様。

 「暗黒龍」ガラバグとの戦争。 


 その語りは彼を魔法の国へと連れて行ってくれた。


 随分と想像力のあるじい様だったんだな、と祖父の通夜の席で大学生だった羽生秋人はその話を従姉妹にしていた。従姉妹はきょとんとした顔で、「あのおじいちゃんがそんな話するわけないじゃない」と応じた。


 既に父親と離婚していた母に聞いてもそんな話は知らないと言う。

 確かに祖父は石部金吉とまでは言わないが、地方公務員をやりながら地域の民生みんせい委員を長年勤めあげた実直な男である。読む本と言ったらノンフィクションや教養系の新書。蔵書の中でファンタジーと呼べるのは司馬遼太郎の「ペルシャの幻術師」くらいのものだろう。

 そんな祖父が彼にだけ異世界のおとぎ話を聞かせたという事だろうか?おかしなこともある物だ。と、厳密に言えばあと百日ほどは未成年という身で、ビールを寿司と一緒にあおる。

 とそこへ、父と叔父、それに見知らぬ男が彼のもとに詰め寄ってきた。


 父と叔父は血相を変えて、日本人には珍しいほどに彫りの深くクドい顔立ちの中年男性はにこにこと温和な笑みを浮かべて。

 別室へ連れて行かれた彼は叔父から「なんであの話をした!」となじられた。


「あのこと?」


「フォーダーンの事だ!」


 彼は面喰らって言葉に詰まった。

 フォーダーン?

 何のことだ?

 そして気付く。フォーダーンとは祖父の言っていたホルダン、の事なのだと。


「じい様のホラ話が?」

「違う!」

 秋人は今度こそ本当に怪訝けげんな顔を作った。父の目が真剣そのものだったからだ。


「あれは真実ほんとうの話しなんだ!」


         *


 秋人は片手をスラックスのポケットに入れながら、会社の談話室で紙コップに入ったコーヒーをすする。

 苦笑した。

 あの時大笑いした彼に、名刺を差し出したクドい顔の男が、今現在彼の上司であるのだから、世の中というのはどうなるか分からないものだ。


「どしたのよ、笑っちゃって。なんかおかしいの?」


 談話室にいるもう一人の男、同期の伊藤駿介が〈まるごとバナナ〉をかじりながら尋ねた。


「いやなに、まさかこんなことが本当にあるなんて思ってもいなかったもんだからさ。入社してからこっち、ずっと内輪揉うちわもめばかりだったしよ」

「今回も出番はないかもしれんでしょ?」

「いやまあ、その」そこで彼は駿介に見せることを目的とした苦笑を浮かべる。

「室長の交渉術に期待したいけどさ、ちょっと望み薄なんだよなあ」

「なんでよ?」

「見たでしょ、彼女」

「見た見た。可愛かった!」


 そりゃまあそうだけども、と肯定しながらも彼の顔からは苦笑の「笑」の字が剥はがれ落ちた。


「あの、完全に俺たちの事を見下していたぜ」

「……だねえ」


 無個性、という言葉を具現化させたような簡素の作りの談話室に、男二人の辛気臭しんきくさいため息が満ちた。


「室長は気付いてないんだよな。普段から他人の事を見下しているから、自分が見下される存在だとは思いもしねえんだ」

「『あっちの世界』の貴族の娘、か。室長も貴族の血筋とか言っているけど、現役のお貴族様にしてみりゃあ『地表堕ち』した人間なんて十把じっぱひとからげだろうしねえ」

「そーゆーこった、まったく!そもそもよ、これからの仕事は残業代つくのかいな?」

「今までの経験からいうと……、無理でしょ」

 秋人はもじゃもじゃ頭をがっくりと落とし、、再び大きくため息をつく。哀れに思った駿介から〈カントリーマアム・バニラ味〉を恵んでもらった。


 甘くて、ブラックコーヒーと良く合った。


 飲み終わると同時だ、激高した室長の怒声が、イヤホンマイク越しに二人を呼び出した。

 予想は大当たり。二人は顔を見合わせるとやれやれ、と首を振った。


――お仕事の時間だ。



 談話室から出る時、彼は追憶ついおくを誘った談話室の飾りを横目で見る。五歳の時に見たそのままの木彫刻。大人になってからみても確かに良くできている。


 そのガラスケースの中、台座にはプラスチックに金文字で彼の高祖父の雅名がめいと、題名が刻きざまれていた。



「仙境せんきょう 天蓋乃邦てんがいのくに」と。

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