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伊藤駿介

第十一章 「伊藤駿介」



             1


 「悠太の鎧」に抱えられた駿介はリリナのもとへと届けられた。

 魔法使いの少女はその怪我を見てほっとする。即死でなければ、この程度の傷ならば治せるからだ。


 だがおかしい。


 痛がり過ぎだ。ここまで深い傷を負うと人間はショックの方が大きくなる。つまりは痛みが後回しになるということだ。

 だが脂汗を流し胎児のように縮こまった駿介の意識は明瞭な様子だ。明瞭なまま痛みに耐えている。

 いやいや、彼女は首を横に振ると麻酔をかけた。麻酔をかけて、さて、とエルメタイン姫を見る。彼女の抱いている女性を駿介の横に寝かせた。駿介とミツセ。ミツセは駿介が投げ飛ばした結果ここに横たわっているわけだから、ある意味被害者と加害者である。


 そのことをエルメタインの瞳は語っていたが、リリナにとってみればこの短身肥満の愉快な男をここで失うわけにはいかない。

 だが、短剣で刺されたくらいならば、ミツセを診てからでも―――と思ってその瞬間だった。

 駿介が「うーっ」と唸ったのだ。

 ぎょっとする。

麻酔の魔法が解けたのか?

 リリナは慌ててもう一度魔法をかける。それからミツセの体内に治癒の人工精霊を飛ばす。それは迅速に行われた。迅速かつ急速。

 だというのに、駿介はまたもや魔法が解けて唸りだしたのだ。


「駿介!」秋人は叫ぶ。

「駿介さん!」悠太もだ。


 リリナは愕然とする。魔法による麻酔は薬物によるそれよりも安全かつ効き目が確実だ。それでももちろん状態によって危険であったり効き目が弱かったりする、ということは先に記したとおりだ。

 だが、これは異常だ。

 リリナはふっつりと額に大きな汗をかく。

 何が起こっているのか?

 彼女はもう一度麻酔をかけようとして、激痛をこらえている駿介にとめられた。

「…ま、待ってくれ。村人たちを燃やすんだ。死体を燃やさないととんでもないことに……」

 喰いしばった歯の下からそれだけ言うと、駿介は痛みで地面をかきむしった。爪が割れ、剥がれる。

 秋人と悠太は目配せをする。

 それから村人たちの死体を見た。

 駿介の言っていることが理解できた。「殺戮粘菌」が半数ほどの死体からあふれ出ようとしているのだ。


 悠太はリリナから受け取ったピンダルゥの実を口中で溶かすと、「僕なら」と言った。

 「鎧」を用いている間、使用者は精神的に落ち着いている。鎧の能力の一つだ。そこで悠太は頼もしくも、もう一度「聖騎士の鎧」を装着するとその大きな腕でショベルカーよろしく死体を一か所に集め出す。

 そのかいがいしい働きに秋人は眉をひそめる。

東日本大震災の際に、死体を集めて埋葬した自衛隊員は、その場では何ともなくとも、その後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)を多く発生させたと聞く。だが今は悠太の馬力は文字通りの意味で百人力だ。頼らないわけにはいかない。


 そして何より少年のその後の心配よりも――

 

 魔法使いの少女の顔は蒼白だった。

 ミツセの肉体はもはや半ば粘菌そのものと言っても良いようなものだ。治す治さないといった話ではない。

 だが駿介の腹部に突き刺さった短剣、これは――これは、魔法装具だ。それもなんという悪意を持って作られた魔法装具だろうか、これは、「着用者」の、つまり刺された人間の肉体と癒合して、なにがしかの信号を――おそらくは激痛を送り出す装置となっているのだ。

 おそらくこれは秋人の「皇帝の鎧」の回復魔法をすら凌ぐための魔法装具なのだ。それが駿介の肉体を襲った。最初の使用者の全魔法力を絞り切って変形すると、肉体に食い込む。今現在この魔法装具は駿介の肉体の半分にまで鋼線となって侵食している。刺された丸い腹部に、黒鉛で描かれたような魔法装具が浮かんでいる。ほぼ肉体と一体化しているこの「鋼線」を外すための魔法は何があるのだ?


「魔法破壊魔法」

 ぽつりと言ったリリナの声に、秋人は腰間の呪霊刀を見る。

 リリナは無表情に首を横に振った。

 呪霊刀の「魔法破壊魔法」は雑に過ぎる。どのような弊害を起こすのか知れたものではない。 

 その時だ。


「……リリナ、ミツセを」

 もはや泣き叫んでもいない、虚ろな顔の(かが)やく赤い髪を持った姫君が肩を叩いた。

「姫様――」

 事ここに及んでも未だ旧友の事が大事なのか、と、あまりのことに呆れて何かを言い返そうとしたリリナは、姫君の友人の変化に気付いた。

 腹部がぼこぼこと膨らんできているのだ。先ほど健康だった時に見た臨月の腹よりなお大きい。姫君とて、気付いていないわけがない。

「彼女を、もう――」

 姫君にそれ以上の言葉を発せさせる必要はなかった。

 悠太!とリリナは叫ぶと少年は姫君の友人を、その動く死体を丁寧に村長の家を利用した火葬場に置く。


「愛しているわ、ミツ」


 エルメタインは口元を押さえ、滂沱(ぼうだ)と流れる涙をぬぐいもせずにその情景を見ていた。

「殺戮粘菌」はどのような理由か良く燃える。ぐつぐつ、と煮えたぎるとぼっと着火して、妊婦の肉体は松明か何かのように盛大に燃えだした。

 燃え盛る肉体は熱によって筋肉や腱が収縮したり、逆に伸びたりする作用で踊りを踊っているかのようだった。


 エルメタインはその踊りをじっと見つめる。見つめながら思考する。


 自分はどうすればよかったのだろうか?

 どうすればこの惨劇を生み出さずに済んだのだろうか、と。


           *


 リリナは脂汗をかきながら駿介を診ている。

 魔法の若枝が薄緑の光を描いて駿介の肉体の上で複雑な魔法象形文字を象り、回復の魔法を彼の肉体に降らせている。しかし効果は極めて限定的か、あるいはない。それでも少女は駿介の肉体を侵食する魔法装具に対して、リリナは魔法破壊魔法、妨害魔法を知っている限り試してみた。しかし結論は変わらない。ほんの少し侵食速度を遅くすることが出来る程度だ。


 と、


 がくん、とリリナの細い肉体が突如としてエンストを起こした車のように動きを止める。魔法力がつきかけたのだ。だが、のろのろと、手のひらに握りこんでいた(悠太に半分与えた)ピンダルゥの実の残りを口中に放り込むと、嚥下(えんげ)した。

 かっと目を見開くと少女はもう一度術式を開始する。その形相は必死のそれだ。


「妨害魔法でも魔法破壊魔法でも駄目、回復魔法の効果が無いということは装着者の肉体自体を防護壁として活用しているわけか。そうなれば魔法装具の強制排除、そうかそれを考えるべき、とすると解呪の方程式を行わなければならない。解呪魔法はつまり……」

 リリナは、魔法使いの少女は適宜駿介に麻酔の魔法を掛けつつ、最新式の解呪魔法を唱える、しかしやんぬるかな!


「馬鹿な!」


 解呪がなった瞬間に、新たな呪術式が自動的に生成されていくのだ。これではイタチごっこである。そしてそれこそがこの魔法の狙いだ。そうだ、相手を殺せばいい、それが目的なのだから。


 リリナは駿介の体力が目に見えて削られていくのを感じた。それはつまり、魔法装具が装着者の魔法力を使って自己増殖していく様を見せつけられているということだ。

 初めて見るタイプの魔法であった。初めて見るタイプの魔法装具であった。確かにすべては彼女にとって既知の技術の組み合わせでしかない、だが組み合わせによってここまで凶悪なものが作り上げられるのか、と彼女は髑髏面の男を呪った。

 どうすべきなのか?

 せめて魔法使いがもう一人いれば!

 リリナはほとんど初めて師匠!と虚空に助けを求めた。しかし当然ながら援軍など来てはくれない。それは当然だ。知っていたことだ。

 だが、だがしかし。

 やらないという選択肢は無かった。

 効かないと分かっていても、少女は魔法をかけ続ける。呪術解除に必要な魔法力と呪的暗号を生成する魔法力では前者が圧倒的に不利だ。ましてや駿介の生体反応(バイタル)にも気を使わなければならないリリナの負担は相当のものである。


 だから初歩的なミスもする。


 バキン、と重々しい破砕音が聞こえた。駿介の口中からだ。彼の発達した咬筋が食いしばった奥歯を割ったのだ。麻酔の魔法がなくとも指の先まで「痛み」の魔法が絡まった彼の肉体はもはや動きはしない。ただその痛みに耐えるのみだ。

「!」

 少女はそのミスに気付くと、駿介に麻酔の魔法をかける。だが、その魔法自体を打ち消すのだ、この魔法は。

 少女は青ざめる。だが――、


 クソッ!


 彼女は持ち前の負けん気を奮い立たせる。ここで彼を死なせてしまっては何のために――彼女はそこで胃の腑がせりあがるのを感じた。

 極度の緊張と魔法の負担が少女のか細い肉体を責め、(さいな)んだのだ。

 立ち上がり、一歩退いてから後ろを向いて、胃の内容物をすべて吐き出した。

 先ほどの酒宴で口に入れた一切をリリナは出し切ると、袖で口を拭き、もう一度彼女の戦場へと踏み出そうと振り返ったその時、がくんと膝が崩れた。

 今日、この数時間でこれまでにどれほどの魔法を行使してきたのか。それはもはや一個人の行える限界を超えていた。魔法工房で二桁の優秀な術者がいるのならばともかく、飛びきり優秀であっても年若い魔法使い一人しかいないこの状況では――、


 もはや誰が見ても明白であった。

 延命が、苦しみを長引かせているだけにすぎないのだ、と。


 秋人は崩れ落ちそうになりながら、それでも魔法の若枝をかざそうとする少女を抱きとめて、「もういい」と呟いた。


「もう、楽にさせてやってくれ」とも。

 

 ぷつん、と駿介の右目が破裂して、そこから鋼線が覗く。

 

「俺が、やるよ」

 秋人は静かにそう続けた。



        2


「よう、新入り」


 駿介は秋人を睨みつけた。ように秋人には思えた。

 「ロシア帰還社」、ウラジオストク支部。

 実銃を用いた戦闘訓練のために秋人はほかの「若手」とともにこの地に送られた。もとKGB(ソ連国家保安委員会)の教官に徹底的にしごかれたその夜だ。

 秋人はマメだらけの手のひらを「さて、どうしようか」と思いながらシャワーを浴びた帰りだった。


「あ、どうも」


 秋人はへこり、と適当な挨拶をしてから、独房の方がもう少しはましだと思われる自分の寝室に行こうとして、そこを駿介に止められたのだ。

 この短身肥満の男が同じ齢なのは知っているが、男の方はすでに三年目、先輩後輩と言うなら自分の方が圧倒的に後輩だ。


――やっかいだなあ。


 先輩風は吹かすのも吹かせられるのも苦手である。ほとんど喋ったこともない相手であるからなおさらである。しかもその上で先日この男は、システマ(ロシア武術)の師範(マスター)相手に「目突きをフェイントとした金的狙い」というえげつない戦法を用いて、身長二メートル近い大男の顔面を蒼白に変えたのだ。まともではない。(もちろんそのことに怒り狂った教官は十キロに及ぶランニングを最後に彼ら全員に与えた)

以上の理由から秋人はげんなりした顔をした、のだろう。


 突然駿介は吹きだした。


「実にいやそうな顔をするなあ、お前はよ」


 駿介は笑いながら右手を差し出してきた。そうなれば秋人としても握り返さねばならない。マメだらけの手には実にきつかった。


「――そうかい、そりゃ悪かったな」

 駿介はライターで縫い針を炙ると、秋人の手のマメを次々と潰して中の水を出す。もちろんこれは本来の治療法ではないが、マメが自然と潰れて破けるよりかは幾分マシだ。

 その上でメンソレータムを塗ると、包帯代わりに清潔な軍手まで与えてくれた。「ま、明日は絆創膏の上からテーピングするんだな」とのアドバイスつきだ。

 幾度となくぶすぶすと手のひらを突き刺された秋人は、げっそりと言った顔で駿介を見上げる。

 駿介は笑いながら「まあ、食いねえ」と〈うまい棒サラミ味〉を彼に与えた。

 彼はこのウラジオストク行が二回目であり、そろそろレクリエーションも必要と感じて、駄菓子とウォッカのパーティーに誘うべき者を待っていたのだ。


「いやしかし、誰も来ねえんだもん、俺って嫌われてるの?」

 駿介の問いに秋人は苦笑する。どちらかというと「帰還社」に入る者は変わり者が多い。端的に言って人と距離を縮めるのが苦手な者がコネで入ってくるのだ。


 たとえば俺のような。

 秋人は片方の唇を吊り上げると、「なら、俺がお相伴にあずかりますよ」と告げた。


 二人のサシ飲みは深更まで続き、危うく翌日の朝は教官に大目玉を喰らうところであった。


          *


「あの時のお礼をしなけりゃあ、な」

 秋人は呪霊刀を細く鋭く変形させた。

「あの時」、手のひらのマメをつぶしてもらった時のように、今日彼は駿介の生命を絶たねばならない。

 嫌だとか、やりたくない、とかいう物ではない。しなければならないからやる、これは彼の義務だ。


「秋人さん……」

 鎧を着込んだままの悠太は何かを言おうと声をかけて、それからかけるべき言葉などないのだと気付き、口をつぐんだ。

 「鎧」の能力は駿介の心拍が上昇し、それに反比例するように血圧が降下しているのを正しく「見て」いた。文字通り致命的に身体が毀損(きそん)されている。そして悠太は駿介に「慈悲の一撃」を与えるほどの度胸は無い。であるのならば彼に言える言葉はやはり、なにもないのだ。


 リリナも抗弁しようと口を開きかけたが、やはり己の無力を思い、唇をかみしめるのみだ。


 だが、動いた者が一人いた。

 エルメタイン姫である。

 泣きはらした顔もしかし美しい姫君は今やようやっと精神の平衡を取り戻したかに見えた。

 彼女は今や死という安穏をのみ希望だと、うめいている男のもとへひざまずくと、一瞬だけ動きを止め、それからぱっと上着を脱いだ。

 ちょっと類を見ない大きさの胸がまろび出る。


「!」


 駿介以外の三者は三様に驚く。だが、エルメタインは成人男性を苦も無く自身の膝の上に乗せると、ゆっくりとかき抱いた。

柔らかな胸が駿介の顔の形に押しつぶされる。


 とうとう村長の家は焼け落ちて、バラリ、と大きな音を立てて立派な通し柱が焼け落ちる音にリリナは一瞬そちらを見た。見てからもう一度駿介を見る。

 驚くべきことが起こっていた。

 エルメタインの胸に顔をうずめた駿介の顔が安らかになっていたのだ。

 エルメタインは涙をためた目で秋人を見た。

 秋人は鋼のような瞳で駿介の露わになったうなじを見つめる。

 迷いと呼べるような時間は無かった。

 

 音もなく呪霊刀は駿介の頭蓋を貫くと、脳幹を破壊した。


 心臓が停止するまでにはそれからおよそ五秒の時間が必要だった。そしてそのことを「鎧」のセンサーは冷静に捉えたのだ。

 がくん、と「鎧」のまま悠太はくずおれそうになり、鎧の制動によって倒れるのをようやっと立て直した。


 リリナは呆然と草の上に座っている。


 静かだった。

 あまりにも。

 そしてこの恐るべき夜、最後の死が生まれた。


 伊藤駿介、三〇歳

 

 だが、その顔には安らぎが充ちている。

 そのことをゴーズ・ノーブが知れば心底悔しがるであろう。エルメタインの乳房と、秋人の呪霊刀が、ゴーズ・ノーブの恐るべき魔法装具の威力、痛みという呪いを消した証拠だからだ。


 だが、それを成し遂げた二人の顔には、当然ながら何の喜びもない。

 二人とも、打ちひしがれて無言であった。

 

「うあ」

 リリナは、黒髪の美しい少女はようやっとそのことに気付いた。

 この愉快な男は二度と口を開かないのだと。

 二度と会えないのだと。

 これを。

 彼女の主はこの気持ちを二百人分も味わってきたのか、とも。


 少女はなすすべもなく両手から逃げて行った命の事を思う。命たちの事を思う。

 緑がかった灰色の瞳は涙でうるみ、脚は魔法力の使用しすぎで萎えている。

 彼女は四つん這いになって顔を手で覆った。


「うわああ」


 泣いた。

 泣いた。

「うわあああああん!」

 その肩を、上着を着けたエルメタインが優しく抱きしめてやった。



            3


 

 ウライフ山からさす暁光が一朶(いちだ)の煙を浮き上がらせた。

 村人たちと伊藤駿介、全ての遺体が結局この村長の家を用いた火葬場によって灰となった。殺戮粘菌の火勢はすごいもので、駿介の遺体も骨まで燃えつくされたが、それでもその遺体からは魔法素子が無傷で取り出される。魔法力の結晶たる魔法素子はなまなかなことでは破壊できない。


「熱っち!」

 秋人はその丸い金属片をつい素手で触って、丸い火傷を手に負った。

「見た目に変化がないからと言って、常識で分かりそうなものでしょう」

 リリナはその行動にまったく正しい突っ込みを入れる。

「……ぐぬぬ」

 秋人は少し待ってから、草の中に落とした魔法素子を恐る恐る持ち上げる。熱伝導率がきわめて高い魔法素子は既に常温に戻っていた。

 これがあれば駿介の形見である「バネ脚」が使えるのだ。

 墓の中に埋めるには少し高価すぎる、そして便利すぎる道具である。

 彼はしかしその素子をポケットに入れると、数歩、祭壇となった村長邸の残骸から身を引く。

 入れ替わりに出てきたのはエルメタインである。


 はだしだ。


 はだしに、花冠をして、手に真っ赤な紅葉をした「ホウキグサ」を一掴み持っている。

 ホウキグサの赤さは姫殿下の赤い髪とどちらが華やかであるのか、妍を競い合っているかのようであった。

 その右手首には鈴が三つ、紐で結わわれてつけられている。

 シャーン、となった。

 姫殿下が右手を高く掲げて鳴らしたのだ。


「すべての同胞(はらから)よ、全ての同胞(はらから)よ」


 エルメタインの口から涼やかな清水のような詞が流れ出てくる。


「天蓋の世界にある者よ、祈りたまえ。至高天(いとたかき)ナストランジャのお計らいにより死した全ての霊魂(みたま)がこの地にて健やかに巡り来たるよう、祈りたまえ。全ての祈りわが舞の中にある。さればわが舞ひとふし供物として、神々に捧げまつらん。すべての同胞(はらから)よ、全ての同胞(はらから)よ来たれ、祈らん。来たれ、祈らん。来たれ、来たれ、来たれ…………」


 祭礼王としての側面も持つ地上世界の王、その第一王女ともなれば巫女として最高位にある。葬祭全般において彼女が舞うということは至上の法義に当たる。

 もちろんそんなことは関係ない。そんな常識を知る者はこの場にあってリリナただ一人だ。そんな事とは無関係に――エルメタインは舞った。

 死者の霊を鎮める?

 いいや、ただ、自らにできることをやっただけのことだ。

 ただただ、無力な自分にできる事だけを。


 秋人も、「鎧」を解いた悠太もその舞を見た。

 その舞は、天女が地上に降りて踊っているかのように美しかった。


         *


 静かに、舞は終わり、「急ぐぞ」という秋人の声によって一行は羚羊馬を(幸いであったのは彼女たちの愛馬は一切の攻撃を受けていなかったことだ)乗る。

 旅装は既に整えてある。

 駿介の羚羊馬が主人のいないのを悟ったのか、少しばかり悲しそうにひと鳴きする。

 悠太はその哀調のある鳴き声に眉を寄せた。彼の愛馬は少年を主と認めたものか、ひょいと背に乗った悠太の方を向くと、じっと瞳を合わせた。

 少年は羚羊馬の首をポンポンと叩く。心配ないよ、というように。

 駿介の羚羊馬は秋人の羚羊馬と手綱をつなぐ。見る人間が見ればこの羚羊馬が高価な良い物だということは分かる。金に余裕があるでなし、換金すればそれなりの金額になるだろう。それに自由にしたからと言って野生で生きて行けるかははなはだ心もとない。それはこの村に生きるケナガブタをはじめとした家畜たちにも言えることだが、そこまでの責任は持てない。秋人と悠太は綱や鎖につながれて、そのままでは確実に餓死するであろう犬や山羊を自由にしてやるのが精一杯であった。


「はっ」


 掛け声一閃、一行はカガンデラ村を後にした。

 その背後には、静かな――静かになってしまった村の残骸があるばかりだ。

 悠太は後ろ髪引かれる思いでもう一度だけ振り返る。遠ざかっていく村の姿は村長の焼け落ちた家以外は何らの変わりもなく、そこに人の営みが無いなど想像もつかなく思えた。


「なんてことだろう」


 少年は口の中だけで呟く。

 先頭を走る秋人の姿を見る。

 血塗れの鬼神のごとき男のその背中を見る。

 彼の背中からは、少年の未熟な眼力でも明らかなほどの寂寥がにじみ出ていた。


 秋人は一晩で変わってしまった、と少年は見て取る。


 それは良い変化なのか、悪い変化なのか、良いことをもたらすのか、悪いことをもたらすのか、それは分からない。――彼にできることは、あの愉快な男の霊に、羽生秋人という男が道をたがえぬように導いてもらいたいと祈る事だけであった。



 ――今はもういない、伊藤駿介に。


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