百分の一 3
4
「助けてください!助けて!」
女は言った。
布でくるんだ赤ん坊を抱きかかえている。まだ歩くことも出来ない本物の赤子だ。
「何でもしますからお願い!殺さないで!」
長い髪の女は震えながらひざまずいて駿介に請う。
何を?
生命を。
ゴーズ・ノーブはもちろんすべてを話していない。彼の用いた「殺戮粘菌」は確かに恐るべき感染力を有するが、それでも感染率一〇〇パーセントということは無い。およそ百人に一人、抵抗する者がいる。
一人は村長がそうであった。そしてもう一人はこの目の前の女である。
もちろん駿介はそんなことなど知らないが、とりあえず喋るだけの理性が残っている者など皆無であったから、度肝を抜かれた。
抜かれたが、次の瞬間に「これは厄介なことになったな」という思いが首をもたげる。
この村で起こったことを「なかったこと」にするには、目撃者がいてはまずい。まずいというよりも、秋人が言った事の裏側にはこの状況があったのだ。
もしまっとうな人間が残っていても、そいつを全員殺せ、と。
まっとうで、善良な人間であっても、だ。
子に覆いかぶさってひれ伏す女に害意があるようには到底思えなかった。
「クソッ!」
駿介は心の中だけで悪態をついた。
どうすればいいのか、正解は分かっている。正解は、分かっているのだ。今更この女一人を生かしたところで贖罪にもならない。だが、敵意を持って襲ってくる相手を殺すのとはわけが違うのだ、だが、あの姫様のためになら―――
彼はエルメタインの顔を思い出す。
あの美しく一点の汚れもない顔を。
激しい煩悶がふた呼吸の間に駿介の中で戦う。
そして、思った。
あの姫君のために、殺すのではない、あの姫君のために、生かさねば、と。
「いいよ」
駿介は精一杯優しく語りかけた。
その声に女はしかし最初何を言っているのかと命乞いをやめなかった。「いいから行けって」と彼が続けてようやっとその声が止まる。
「え?」
ある意味で願いは通じたのだが、予想は外れたのだ、女は呆けたように駿介の丸い顔を見る。血にまみれたその顔を。
「今日の事を何も話さないでくれると約束してくれるんなら、行っていいよ」
もちろんその台詞は彼自身のために吐いた条件の提示だ。女がその約束を守るとは到底思えなかったし、それならそれで仕方がないと駿介は考えたのだ。
流浪の生活が続く。その限りにおいて、俺はずっとあの姫様と一緒だ。
そこまで考えはしなかっただろう。だが、その思いが頭をかすめなかったと言えば嘘になる。
この十日余りは、彼の人生において真の意味において薔薇色の時代であった。深紅の薔薇、エルメタインという名前の、大輪の花とともにあるという一事で、彼はこれまでの人生が報われる思いであった。
だから、殺さない。
駿介はそう決めた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
泣きながら女は何度も駿介を拝んだ。駿介はまるで自分がいいことをしたような気分になってしまったが、そうでないことは彼が一番分かっている。
彼女たちの生活を壊してしまったのは自分だ。それは紛れもない事実である。
今後彼女が生き残れるのか、それさえも怪しいものなのだから。
「あのさ」
彼はポケットの中の西王国銀貨と、それから〈クッピーラムネ〉の小袋を赤ん坊にやろうと女の肩に手をやる。
女は大げさにびくっと体を震わせた。無理もないか。そう嘆息して彼は押し付けるように銀貨とラムネを女に渡した。
その時だ。
見てしまった。
女が抱いている物を。
女が愛しそうに抱いている布に包まれた赤ん坊を。
赤ん坊だったものを。
じゅる。
と、赤ん坊はよだれを垂らしていた。よだれ?そうではない。そのよだれは蛍光オレンジだ。否、よだれだけではない。鼻からも、目からも、耳からも、いや良く見れば女の手を伝って肘から垂れているモノは、意志あるごとくウゴウゴと蠢いている!
既に赤ん坊は赤ん坊ではない。それは「殺戮粘菌」がパンパンに詰まった袋だった。
激しい嘔吐感が駿介を襲う。胃がせりあがる。
これは危険だ!
と、現代地上世界の常識を持ち合わせている駿介は気付いた。もしこの粘菌が成熟し、再感染するという事態に陥ったのならば――
爆発的流行。
駿介の脳裡にその文字列が暴力的な書体の赤文字で浮かび上がった。
駿介の行動は迅速だった。彼はもう一度道具に戻った。赤ん坊を取り上げると(すでに腕も足も半ば融解してぼろりと取れかかっていた)、おくるみのまま炎のもとへと投げ捨てた。
「けーーーーーーーっ」
赤ん坊のそれではない、金属的かつ機械的な「鳴き声」をひと声あげると「赤ん坊」はぼろりと表皮が裂け、その内容物を露わにし、餅のように膨らんでから爆ぜて、燃えた。
「…………」
女は呆然と四つん這いでそれらの一連の景色を見ていた。涙ひとつ流さずにじっと見ていた。ただ、見ていた。
いま、見逃すと、言ったじゃないか、なぜそんなことをしたのか、嘘つき、と。怒るというよりも問うような瞳で駿介を見ると、それから幽鬼のように立ち上がる。
駿介は、どうしたらよいのか分からない。
彼もまた、立ち尽くすのみだ。
女が両手を見た。蠢く粘菌が彼女の腕をオレンジに染める。それは彼女の息子が残してくれた何かのように思えた。
「あ」
声が、一つ。
「あああああああああ!」
女は、かたわらに落ちていた両刃の短剣を握りしめると、駿介に襲いかかった。
駿介は悲しそうな顔でその攻撃をよけよう、と思って。
女の動きは「バネ脚」を装着した駿介を凌駕した。
*
「かかあっ」
髑髏面の怪人はそのよく見える目で笑いながら「観て」いた。
彼が完璧なタイミングで瞬間移動させた魔法装具は完璧な性能を見せていた。
*
ずん、とその短剣は駿介の腹部に突き刺さる。
痛みよりなによりも驚きがある。女の人間を超えた動きに驚愕し、その次の瞬間冷たい衝撃が襲ってきた。
そして熱を伴った暴力的な痛みが。
絶叫した。
こんなに痛いなんて聞いてねえぞ!
そう絶叫した。
だが、そうではない。
叫んでいるのは駿介だけではない。短剣を握った女も叫んでいた。青白い燐光を発しながら叫んでいた。
それは人の物とも思えない、水晶が共鳴するような澄明な音だ。
体内の魔法力が暴力的に吸い取られていくのだ。魔法の使い過ぎは人事不省を招く。そしてその上でなお強制的に魔力を搾り取られたのなら――女の叫び声はやがて途絶え、その手は力なく柄から離れる。
だがしかし彼女は本願を叶えたのだ。
彼女の「息子」を殺した憎い敵に対して彼女は一矢報いた。
報いたなんてものではない。
女は、女の全魔法力は、女の生命は、短剣に凝り、その傷口から仇の体内に広がってい行った。
「がああっ!」
痛い。
痛すぎる。
駿介はもんどりうつ。
静かになった村の中、その叫び声を聞きつけて悠太がやってきた。
「駿介さん!」
悠太の声が、一夜にして忽然と消えた村に谺する。




