堕ちてきた少女 3
*
――見失った!
リリナはその場で三六〇度回転した。無重力下のような動きだ、精妙なコントロールのたまものである。
しかし見つからない。
だが、見られている。
それは魔法ではない、彼女の確信だった。危険だ、と本能が告げている。下層階にまで降りすぎた。小男の動向も忘れてはならない。ゆっくりと上昇する。
この速度では相手から丸見えだろうが、相手を見逃す懸念もない。ただの一発。すでに彼女の肚は決まり過ぎるくらい決まっている。人差し指に宿る魔法量は今まで放った光矢の総量を凌駕する。魔法破壊魔法といえども万能ではない。この魔力を直接ぶつけるのではなく、直前で熱量に変換する。出来上がるのは即席の窯。完璧でないとはいえ閉鎖されたこの戦場では最も効果的な魔法である。
敵は消し炭になるであろう。
ぞっとするほど凄愴たる気が少女の瞳に猖獗した。
姿をあらわせ!
その時が貴様の最期だ、と姿を見せぬ敵に彼女は視線だけで叫んだ。視線を走らせるため頭を振り、中空で舞う長い黒髪が夜叉を思わせる。
「おっかねえ」
そうぽつりと呟いたのは伊藤駿介であった。
ゴン、とコンクリートにひびを入れるほどの最大出力で跳びあがる。
はっと気づいた時にはもう遅い。
魔法を撃つべきか?
少女が悩んだのは一瞬にすぎない。駿介は目の前を弾丸のように通り過ぎて行ったからだ。
何が起こった?
目の前の吹き抜けを駿介は最上階まで幾度か壁を駆け上がってその姿を消した。
目を巡らせる。
気配も前兆も何もない。
首筋に蜘蛛の糸が触れる感触。
完璧に彼女の動きにシンクロしたその糸は、リリナの防御壁に感知されなかった。そもそも常時展開されている物でもない、しかしガラスの割れ方からある種の障壁の存在を確認した秋人は一計を案じたのだ。
駿介の肩に乗せてもらった秋人は、音も立てずに少女の背後に立ち、糸状にした呪霊刀を彼女の首に巻きつけることに成功していた。
「!」
リリナが気付く暇も有らばこそ。
秋人は剥きだしになった水道管を経由して、自身の体重でリリナを釣り上げた。魔法で見かけの質量が軽減している少女の異常な軽さに驚きはしたが、水道管と天井の間には五センチほどの隙間もない。この部分で少女の首を締め上げればコトは足りる。
首つりは、ただ首を絞める絞殺や扼殺とは違う。頚動脈洞反射を利用して速やかに意識を消失させるのだ。
結局はこの方法が相手を失神させる方法としては最も確実で手っ取り早い。スタンガンで気絶することはほぼありえないし、クロロホルムを意識消失させるほど吸わせたら最悪死に至る。そもそもフィクションで使われるような布きれにしみこませた程度の量では、気分を悪くさせることが関の山だ。
最悪の場合に備えて鼻薬をかがした大学病院も用意はしてあるし、救急救命士程度の処置ならば二人とも可能だ。
何より、幾度となく実践している。
首が絞められる感触にリリナは一瞬で恐慌に陥る。
蜘蛛の糸の太さしかなかったそれは見る間に太くなり、素麺からウドン、そしてウドンからきしめんほどの幅と厚みを持ち合わせた。
あまりに細すぎれば彼女の頸部に傷を――最悪動脈を――傷つける可能性すらある。要は圧迫さえできればいいのだから。
リリナの身体は空気よりは少し重い程度しかない。それは幸いであった。自身の体重で縊られることが無かったからだ。しかし踏ん張りは聞かない。一瞬で天井まで引きずりあげられると、ガツンと天井に頭をぶつけ……る前に防御膜が展開したが、それは首が絞まるのを四半秒ほど早めるだけの効果しかなかった。
意識を失うまで平均で七秒。カウントダウンは始まっている。
もちろんそんなことを考える余裕はない。
だが、できることは何か、恐慌下で少女は考えた。――正確には考えようとした。考えられるはずなどなかった。
右手が首を絞める紐を外そうと爪を立てるが、成人男性の腕力である。どうすることもできない。
できることと言えば、そう、一つだ。
彼女は、できることをやった。
魔法を放った。
高熱魔法を。
やってしまった。
恐るべき熱が部屋を炙る。
その部屋には誰もいない。苦し紛れに過ぎない。だが輻射熱で火傷をしかねないほどの恐るべき熱量である。直撃したらば、と考えれば秋人は冗談じゃないな、と冷や汗交じりの汗を額にかいた。
しかし、その部屋には人間こそいないが、ある粗忽者の置き土産が残されていた。あるいは今日の作業に使う予定だったのか。どちらにせよ違法だ。
そこに残されていた物。
それは、ガスバーナー用の酸素ボンベ。
秋人は気付いた。
酸素ガスと書かれた黒い容器が見る間に膨れ上がる。
彼はそのさまをまるでスローモーションのように見ている。そして、脳の危険を知らせるアラームが最大音量で鳴り響く。
――ヤバい!
それからは記憶にない。衝撃が体を打ちつけるまでのほんの刹那で秋人はリリナの首に巻いた呪霊刀をほどいた。それはまさに神業と言えよう。だが時系列としてきちんと記憶できているのはそこまでだ。
失神しかかっていたリリナにしてみればなおさらだろう。
そして次の瞬間。
ボンベは爆ぜた。
4
「うわっ!」
悠太は大声を出す。
だがその声を聞いた者は誰もいなかろう。
彼が小道から国道へと出たその瞬間に、道路を挟んだ真正面にある解体途中のビルから爆発音がしたのだ。
耳を聾する大爆発。
逃げるべきか?
もちろんその通りだ。一刻も早く。
だが彼の中にある野次馬根性は、これからなにが起こるのか、と良く見える位置へと前に進んでしまった。
歩みを進めて、しまった。
5
秋人はキーンという耳鳴りだけが響く世界で目覚める。爆発の衝撃は大きいが、爆弾ではないから運が悪くなければ(ボンベのバルブ部分が直撃するとか)、問題はない。
実際彼は体のどこにも欠損はない。二、三のかすり傷はあるが、軽傷以下といったところだ。
頭を振り振り立ち上がると、窓から外を見る。
まだ野次馬も来ていないが、時間の問題だろう。
――こりゃあ室長に大目玉だな。
やれやれ、とため息を吐く。ついてから、目の前に駿介が出現しているのに気付いた。否、さっきからいたのだろう。相棒は必死に無言で彼に何事かを訴えている。
駿介が遊んでいるわけではない。彼の耳が聴力を失っているのだ。
――一時的なモンだといいけども。
秋人は少しだけひやりとした。
無論、相棒の台詞が聞き取れたなら、ひやりとした、などと呑気な感想を持つことはなかっただろう。
*
全力だ。
全速力で少女は飛んだ。
爆風に吹き飛ばされ、何度回転したのかもわからない。耳鳴りはする。三半規管は悲鳴を上げた。質量の軽さは彼女をまさに糸の切れた凧のように、シェイカーに入れられたラム酒とライムジュースように振り回す。
逃げなければならない!
敵は用意周到だ。あんな爆弾まで用意していたとなればこれは自分の目算が甘かったとしか言いようがない。
もちろん、これは少女の勘違いだ。
酸素ボンベがあったことは秋人も駿介もまったく想像の他である。それに第一、彼女の魔法がなければ酸素ボンベは危険なものではなかった。しかしそのことに思い至るような状況に少女はいなかった。
どこへ向かうか?
とりあえず遠くへ、相手をまきさえすればそれでいい。時間があれば、ほんの数十秒あれば!
上だ!
上に行く!
彼女の判断はそこまでは間違いない。「バネ脚」の垂直跳びは精々十六メートルといったところだ。それ以上の高度を保てば相手の攻撃はかすりもしない。
それは真理だ。
全速力で!
しかし三半規管の不調がすべてを御破算にした。
彼女は飛ぶ。
全速力で、地表へと。
*
悠太は吸い寄せられるようにもう一歩、歩道を前に進んだ。
何が起きているのか、彼ならずとも気になるところだ。
時間にしたらほんの数秒と言ったところだろう。悠太は爆発のあったビルをじっと見る。すると、おそらく五階ほどの高さから防護幕をすり抜けて黒い影が外に飛び出してくるではないか。
「?」
それがなんであるのか、彼には視認できなかった。
夜である、速度もある。しかし何より、一瞬で視界から消えたからだ。
どこに行ったのか?
そんなに小さいものではない。そんなに遠い場所ではない。二車線の道路を隔てているだけなのだ。
ぞくり、といやな予感がした。
いやな予感は、いやな予感だけはいつだって的中する。
悠太は上を仰いだ。
人間の視野は正面に特化されている。左右も上下も見えない。
「!」
そうだ、その黒い影は彼の直上にあった。
あっただけではない。その黒い影はものすごいスピードで彼へと向かってくる。
足がすくむ、といったレベルの話しですらなかった。彼が認識したその時にはもうその黒い影は目の前にあったのだ。よけられるはずもなかった。
激突。
ものすごい音がして彼は地面に圧し潰された。
気絶にいたるほんの一瞬前、悠太はその黒い影の正体と目があった、黒い影は狼狽していた。
大きくて、美しい瞳だ。
悠太はそう思った。
場違いだけど、そう思ってしまったのだ。
6
アスファルトが穿たれ、黄色い点字ブロックがはがれた。
速度で言えば八〇キロ以上は出ていた。ものすごい加速度と言えるだろう。それでもリリナの身体に傷の一つもないのは自動防御魔法のおかげである。なるほど、師匠の言いつけは守るだけの価値があるというものだ。
リリナは正座する格好で一、二秒その場にしゃがんでいた。その場、なんだかぐにゃぐにゃする敷物の上に。
なんだろう、と思う間もなく彼女はバランスを崩して背中から倒れる。倒れ切る寸前に手で体勢を保った。
足の間からその敷物を見る。
なんだろう、と再度思う。
手が生ぬるいものに触れる。
不快だ、と思って弾かれたように手をその場からどかすと、星と街灯の明かりがその生ぬるい物の正体を教えてくれる。
血だ。
そして彼女は目が合う。この敷物と、否、「地上に棲まう者ども」の少年と。――ひどい怪我を負った少年と。
少年の目がゆっくりと閉じた。
そして思いだす。あの時、リリナは上空と間違えて、地表へ向けて全推進力を動員した。そしてこの少年に激突したのだ。
完全なる彼女のミス。
何という日だ。
青ざめる。
だが、彼女は放心している場合ではないことを思い出した。
――この少年を殺してしまうわけにはいかない!
少女はその瞬間すべての事を忘れた。「敵」の存在も、「姫さま」のことも。
数十に及ぶ魔法の術式を同時に駆動して目の前の少年の怪我を診断し、補修し、治癒する。
「魔法の若枝」を失ったというのに、その手際の良さはなまなかの物ではない。
当然である。貴族で、魔法使いの彼女にとって回復魔術は最初に覚えるべき魔法である。有事に際して貴族の子弟は指揮官であり、魔法使いは最高の兵器である。だがそんなことよりも民の生命を守る、それこそが優先されるべき事項だ。
王国間の戦争は一世代に一度は必ず起こる。それはライフサイクルに組み込まれていて、命を刈り取る収穫祭のようなものである。
ある種の通過儀礼と呼べるかもしれない。さらに言えば身分制度の厳しい王国にあって、立身出世のできる(官僚は試験によって選ばれるが、子が学業に専念できるのは親の代からの蓄財が必要だ)乏しいチャンスの一つでもある。そして、数千年に及ぶ戦争の積み重ねはまた回復魔法の発展の歴史でもあった。
治癒魔法は人体の自然治癒力を数千、数万倍にスピードアップさせる魔法だ。かすり傷程度ならばそれだけでも構わない。しかし骨折に治癒魔法をかければ折れた形のまま癒合してしまう。それならば魔法など用いないほうがまだましだ。
リリナの魔法は悠太の全身をチェックすることから始まった。
少年の肉体が薄緑色に発光する。
そこまで認めると目を閉じた。網膜に直接少年の身体情報が投影されている。目を開けていてもノイズにしかならない。
そして、少女は小さく苦鳴を漏らす。
ひどいものだ。骨折は十八、大小の出血が体表、体内を問わずに無数。何より胸郭が大きくへこんでいる。
彼女は急いで気道を確保し、清浄な酸素を送り込む。それと同時にいくつもの半自律魔法装置「人工精霊」を体内に侵入させ、「治癒魔法」で済む部分は治癒を、ずれた骨や血管は物理的に整復してから治癒を行わせる。人工精霊は彼女が長年かけて練り上げた人工知能のようなものである。簡単な傷ならば「彼女ら」に任せても問題はない。
だが、特に重度の胸郭損傷は少女自らが直しにかかる。
そう、まさに「直す」だ。魔法による「念力」で骨、血管、神経のずれを整え、整えたまま細胞分裂を促進させて「治癒」させる。コマ落としのように少年の肉体の損傷は補修され、見る間に回復される。
おそらく百秒とかかっていない。現代日本の医学でも命は救えるだろうが、リハビリテーションに長い時間がかかり、その上である程度の後遺症は残る怪我だった。それが一分半程度で完全とまでは言えないまでも「回復」したのだ。
文字通り、魔法だ。
「う……む、ン」
少年の眼球がまぶたの下で動き始める。意識も戻ってきているのだろう。完璧である。少女は薄く笑った。
どんなものよ、と。
だが、魔法の若枝もなしに同時にいくつもの魔法を展開し、人工精霊を使用した反動は術者に跳ね返る。
ポタリ、と少女の鼻の孔から深紅の液体が少年の唇にしたたり落ちた。
「あ」
腕が体を支えようとするが、そこまでだった。
リリナの眼球がぐるりと白目をむくと、そのほそっこい体は力を失い、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
魔法の使いすぎだ。
こうなるのはまさに彼女の未熟の証拠。だが、全力を尽くした彼女に師匠ならばこう言うだろう。
「それでこそ、だ。それでこそ〈リリンボン・ゼ・クシャーナ・エンリリナ〉だよ」と。
少年少女はまるで抱き合うかのように道端に倒れている。
少年の聞いていたラジオのエンディングがイヤホンから静かに流れていた。
『それではみなさん、生きていたら来週また会いましょう……』
*
わらわらと野次馬が道路にあふれ始めた。誰かが通報したのだろう、消防、警察、救急車が次々と深夜の街をサイレンと赤色灯で切り裂く。
「しくったな」
一時的難聴から恢復した秋人が眼下の騒動を見ながら呟いた。
ビルの中、防護幕越しだから野次馬から見える懸念はない。
「あそこでお嬢ちゃんが逃げてくれりゃあ簡単にとっ捕まえられたのによ」
いかにも残念そうに言う秋人に〈小梅ちゃん〉をあげると駿介は、「でもまあ、あの男の子が死んじゃっていたら、夢見は悪いじゃないの。お嬢ちゃんのノブレス・オブ・リージュって奴に感謝感謝」と慰めた。
「ま、そりゃそーだけどよ」
怒られるのは俺らだぜ。あーやだやだ。
などとぶつくさいう声の中に、しかし死人が出なかったことの安堵が色濃くにじんでいるのを感じて、駿介は相棒の露悪趣味に笑いかける。
「ま、プランBに変更だ。ここまで大ごとになっちまったら、それしか方策はないけどもな」
羽生秋人は言うまでもないことをあえて言うと、口中のアメをガリガリと噛み割って嚥み下した。
8
それは、まるで暗闇が凝集したような人影であった……。
「おやまあ、面白くなって来ましたねえ。ま、せっかく久しぶりに地上世界に来たことだし、楽しみたいものですよ。いや、ワクワクしてきました」
一部始終を特殊な「目」によって見ていたその影はうんうん、と自らの言葉にうなずくと、そっとまた闇の中に消え行く。
その姿を見ていた一匹のキジ猫が不思議そうに、にゃあ、と鳴いた。