思い出の村 3
4
「おいおい、悠太君とリリナ嬢ちゃんが寝室にしけこんだまま出てこないぞ」
「マジかよ、とうとう一線超えちまうのか?」
「見てこようぜ」
そう言って腰を浮かせかける秋人を押しとどめる者がいた。
エルメタインである。
彼女は結果的に村人たち全員と飲み比べをして勝ってしまったようで、床に転がる死屍累々(るいるい)どもをしり目に、手酌で悠々と杯を空けている。
「野暮なことはやめましょう」と言って手招きをした。
もちろん男どもとしても、本当に二人がどうにかなるなどとは思っていなかったから、この美しい姫君の両隣に侍り、酒を飲むのに否やは無い。
姫のお酌を恐縮して受け取る。注がれた酒は米のワイン。つまり、
「うお、これ日本酒じゃないの」
「ちょっと泡盛っぽいところもあるけど、確かにポン酒だよ」
男二人がびっくりしているのを姫はおかしそうに眺める。
確かに今日の晩餐に長粒種のピラフが出てきたから、それで酒を造るのは驚くにあたらない。泡盛のような風味、というのも泡盛はタイ米で作られているから当然であろう。
「まさかここまで来て酒が飲めるとはな」
男二人は杯を空けるとぷはーっと息を吐いた。
「やっぱ日本人にはこれだね!」
「刺身が食いたくなる味だぜ」
「サシミ?とはなんです?」
姫の疑問に駿介が答えると、エルメタインは目を白黒させて信じられない、という顔をした。魚を生で食うなど、ゲテモノにもほどがある、という表情だ。
地上世界においても、寿司が世界的に広まる前は、生魚を食べるということに対して、日本人以外のほぼすべての人種が拒否反応を示していたのだから、これは当然と言えた。
駿介は何とか刺身の美味さをエルメタインに伝えようと必死だ。だがそもそも「お姫さま」なのだ、衛生観念が非常に厳しい。これまでの逃避行において弱音一つ吐かなかったのは、彼女の異常な克己心がもたらした物なのだと男二人は気付かされる。
戦場では汚いだのきれいだのは関係ない。泥水をすすり、砂の入った飯を食い、野糞を垂れる。もちろんそれらと関係のない戦場を構築することこそが良将の条件ではあろうが、戦塵にまみれるのもまた武人の本懐だ、そこに文句は言うまい。
姫君はそう思ってこの十二日余りを耐え忍んできたということに今更ながらに気付いた。
否――
「そうじゃあないな」
秋人が物騒な目で超の付く美人を見つめる。『美人は三日で飽きる』などと言うが、飽きるどころか慣れる事すらない。恐ろしく完璧な美の結晶だ。目がほんの少しとろりと潤んで、一層色っぽさに磨きをかけている。
「?」
エルメタインが怪訝そうな顔をする。駿介は何か嫌な予感がするのか、相棒に向かって口パクで『変なことを言うなよ!』と告げたが時すでに遅し。
「姫様は、なにを隠しているんだ?」
「隠、す?」
もしそれが演技であるのなら立派なものだ。姫君はまさに鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。
「私が何を隠しているというんですか?」
「隠してなければおかしい、って話しさ」
「おい秋人!」
駿介が介入しようとするが、エルメタインはぜひお考えを聞きたい、と言って秋人の顔を正面から見つめた。
その緑の瞳の美しさに思わず吸い込まれそうになるから、秋人はぷいと横を向くと、酒の量を気にしている体で杯の表面を見つめる。
「そもそも、なぜ姫殿下は従従姉弟の、――なんて言ったけ?」
「ファクベル」
「そうそのファクベル君との結婚が嫌なのさ?」
「それはそうでしょう」
エルメタインは何をいまさら、とファクベルが七歳であることと、その後見人であるファルファッロ男爵の人品骨柄とを事細かく説明した。
「当たり前だよ!俺でも嫌だよ、そんな結婚!」
駿介が援護射撃に入るが、秋人は素知らぬ風で天井を見上げると、
「そうかな?」
と呟く。
「そのくらい、我慢できるでしょ」
と。
沈黙。
秋人はひょっとしたらエルメタインが怒っているのではないかと観察したが、どうぞ続けて、という風情でゆったりと米のワインを舐めている。
「真面目な話さ、七歳の男の子だって十年、いやまあ八年もすりゃあ立派に『子づくり』はできる。姫様はその時三十一だろ?まだ慌てる齢でもない。むしろその間にじっくり教育できる分、おっさんよりはましなぐらいだと思うがね。
「それに後見人の問題だが、まあそこは……頑張って頑張れない訳でもないだろうよ」
ふふっ。
とエルメタインが笑う。
「我慢して、頑張れよ、ですか。ずいぶんとまあ無茶を言いますね」
少し小馬鹿にした口調であった。だが、しかし秋人はそれがあえての挑発であることを見抜く。
「無茶な事とは思わないですよ。あなたがわがまま放題の『お姫さま』であるのならばそれはそれで整合性があるけれど、そうじゃない。確かにわがままなところはあるが――いや、それは悪いことでもないさ――、我慢が出来ない質でもないし、なにより頭がいい。
「いわゆる外戚の横車をはねのけられないような柔な人間ではない。だろう?」
「……だろう、と仰られましても」
エルメタインは苦笑する。「苦笑」とはあいまいな気分を煙に巻くことを企図した、誰であっても汚い笑みだが、それがこんなにも美しいのだからいやんなっちまうな、と秋人は思った。
「いやいや、これはもうだろうとしか言えないよ。だいたい、リリナ嬢ちゃんが命がけで頑張って、正解を選んで、見つけてきたのが『これ』なんだぜ」
秋人は『これ』と言って己自身を親指で指す。
「まあ見た目に関してはノーコメントにしておくが、ポイントは年齢さ。俺が三十だったのは、単にそれは偶然だ。八十過ぎのじいさんの可能性もあるし、生まれたばっかの赤ん坊の可能性だってあった。何より存在しない可能性も」
コクリとエルメタインはうなずく。
「そして居たとしても、絶対にフォーダーンに来ないと言い張ったらどうするつもりだったんだ?」
その可能性は高い。ごく普通に生活をしていて、なおこの状況のフォーダーンに来たいと思う人間はどれほどいるのだろうか?観光ではない、外国どころか異世界で生活せよ、と言っているのだ。もちろん今現在の日本で鬱屈している者、異なる環境で活き活きと生きたいと願う者は多かろう。
しかしそれとこれとは別だ。
「そして何よりも、――俺がそのファルファッロ男爵よりも悪い人間だったとしたら、どうする気だったんだよ?」
そうだ、秋人はしゃべっていて己で気付く。違和感の原因はこれだったのだと。
もちろん全ては時間が足りないための見切り発車だったのだ、という見方もできるだろう。だが秋人はそうは思えない。今まで旅をしてきて、エルメタインと言う人間は本当にデキが良いのだということを思い知らされている。
見た目だけではない、体力知力、精神力。何拍子もそろっている人間が、このような不完全な行動を起こすのだろうか?
もちろんどうやら陰謀があったことは確かなようだ。それが彼女の選択肢の幅を狭くしたことは間違いない。比喩でもなんでもなく、あと一日あればさまざまなことが出来たはずだが、その機会が得られなかった。そこまでは理解できるし納得もできる。だが――どう考えても地上世界で婿探しを行うのは無謀な話である。そこだけが腑に落ちない。
「確かに」
ようよう姫君は要点を理解した、という顔を作る。この所作が作為なのか真実なのか、正直分からんな、と秋人は判断を保留した。
「あなた方には言っていませんでしたね。いいえ、リリナにもこのことは語っていません。――ファルファッロ男爵よりも地上世界の男性の方がマシな唯一にして絶対の理由が一つあります」
そこでエルメタインは杯を傾けて中身を一息に飲み込んだ。
「ファルファッロ男爵は南王国に、正確に言えば南王国宰相バタフリンと気脈を通じているのです。彼の最終目的は、王国の外戚として権勢を得ることではありません。この国その物です」
「確証が、あるようですね」
「証拠はありません、しかし間違いはないのです」
「へえ、そりゃまた不思議なお話で」
「それはそうです。私は直接聞いたのですから――」
「誰から?」
姫君は一呼吸置いた。
「南王国宰相、バタフリンその人からです」
*
「姫殿下、かの侏儒は我に愁波を送ってきておりますぞ」
隻腕の魔法使いにして宰相バタフリン・ムジュフシュは、五十をとうに超えているというのに、二十代の美しさを持つ美丈夫であった。
豹の毛皮で作ったマントと宝石で裸の上半身を装い、喪った右腕の代わりに黒光りする鋼の魔法装具を着けている。
父王の国葬の際、南王国国王フォッメス九世の名代としてやってきたこの派手好きな男は、最後の最後に、そう彼女に耳打ちすると、獣脚犀に乗り、呵々大笑して去って行った。
*
「へえ、それはそれは」
なんともはや、という顔を秋人はする。
駿介は無言のまま難しい顔をして腕組みをした。
「バタフリンの言葉をそのまま信じるかどうかは難しいところでした。しかしそれでも、内偵を進めていたその結果がでる前に――」
「今の事態が起こったってことか」
こくり、とうなずいた。
なるほどそうか、と秋人は合点がいく。姫の婿候補が地上世界の人間でなければならなかった理由だ。
「誰が敵なのか、分からない、ということですね」
「そうです」
王国貴族の中でいったい誰がファルファッロ派なのか、誰にもわからない以上、適当に決めるわけにはいかないし、ファクベルを選ぶなど論外だ。だとすれば、薄い可能性であっても、誰にも与していない地上世界の男を選ぶのは正しい選択であろう。
そしてリリナを地上世界に送り込んだ理由ももう一つある。
「リリナ嬢ちゃんを、助けたかった、ってことでしょうかね」
エルメタインは肯定とも否定ともとらえきれぬ微笑を浮かべた。リリナがもしも任務をしおおせたならば重畳、だが、できなくともそれはそれでよい。少なくとも彼女は自分とともに殺される、という最期を迎えずに済む。
リリナの忠誠心は篤い、「自分一人逃げ延びる」という選択肢は無かろう。主従もろとも死ぬのなど、従者はともかく、主人としては選んではいけない選択だ。そこのところをエルメタインは弁えていた。
「なるほどなあ。聞いてみれば納得の話ですよ。今まではリリナちゃんもいたから言いづらい部分もあったんですよね」
駿介が相槌を打つ。確かにそうだ、今の話で秋人の疑問の回答とはなる。なるのだがしかし、しかし、何かが足りない。何かが―――、
その次の瞬間。
秋人の右腕はほぼ自動的に動いた。
呪霊刀。
この魔法装具は風呂場にも持参していたし、今も佩いている。魔法装具の能力は酒の酔いとはまた別の回路で、完璧に仕事をしおおせた。
すなわち。
5
老女の腕を呪霊刀は迎撃する。
切断ではない、ではないが勢いのある硬い一撃だ。
尺骨が折れ、橈骨が白々としたその身を露わ に、皮膚を飛び出している。老女が逆手に持っていた包丁を取り落す。それを危なげもなく秋人は空中でキャッチすると、目の前のテーブルに突き刺した。
それがスイッチだったかのように、
「があああああああ!」
老女は複雑骨折した右腕を意に介さず、秋人へと左手を伸ばした。目をえぐろうというのだ。
その老女の落ち窪んだ瞳には、憎悪の光が、怒りの炎が燃えていた。
「む」
秋人の動きは鮮やかだ。
椅子に座ったまま、右足を突きだすと、ほんの少しだけ腰を浮かせて、老女の腹に足裏を合わせ、ポーンと蹴りあげた。正確には老女の勢いを用いて自分の身を屈ませたのだ。柔道の巴投げに近い。
老女は戸棚に頭から突っ込んだ。
一連の成り行きにエルメタインも駿介も言葉もない。戸棚に突っ込んだ老女の着ている物は、村長の妻のそれだった。
「なんだ?なんなんだ?」
秋人は声に出そうとして、それがかなわなかった。
「ぎい!」
「がっ!」
先ほどまで酔いつぶれていた男性二人が駿介とエルメタインに殴り掛かってきたからだ。
轟!
駿介の「バネ脚」は男を蹴り飛ばした。服の上からでもわかるほどに胸を陥没させた強力な一撃は、文字通り男を吹っ飛ばした。
「ラステスさん、やめてください!」
禿頭の初老の男の右腕を脇固めにねじ上げたエルメタインが必死に呼びかける。しかし男やもめの農夫は激痛が走るにも委細構わず、床を自由になるほうの腕で必死に掻き、やがて人差し指の爪が剥がれるのと引き換えに床板の節を支点に体を起こした。
エルメタイン姫の関節技は完璧である。
であるのならばどういう事が起きるのか。
ぶちぶち、と何かの切れる音、ビキビキと何かが剥がれる音。ボクン、と何かの外れる音がして、それからラステスはすんなりと立ち上がった。右腕が二割ほど伸びている。肩関節が抜けているのだ。
「ぬー!」
気の抜けた気合とともに、左拳がエルメタインを襲う。おそらく背筋も壊れている、姫殿下の敏捷性からすれば余裕を持って避けられるスローモーな一撃だった。
しかし、姫はその拳を受けた。受けて、尻餅をついた。
打たれた衝撃によるダウンでも、バランスを崩したことによる転倒でもない。
ただ純粋に、精神的な動揺によるそれだった。
「危ない!」
駿介の蹴りがラステスの脇腹に入る。遠慮のない一発は中年の肉体を壁に張り付かせた。
「シュンスケ様!」
エルメタインのその叫びには非難の響きが含まれていた。ラステスは漆喰壁に張り付いたまま、ずりずりとその身を重力に任せるままに滑り降りていく。頭部のあった部分から、血の赤が白い壁に、極太の筆で描かれたように一本引かれる。
「ラステスさんはお母様思いの…!」
言い切れない。駿介はその場からバネ脚の反発力だけでエルメタインを飛び越えると、後方から農業用の四本爪フォークで襲い掛かるそばかすの少年を蹴倒した。
農業用だが、先端は鋭いうえに、長さも駿介の肘から先ほどもある。突き刺されば致命傷を負う、れっきとした武器だ。
蹴倒した少年がむっくりと起き上る。顔面が半壊している。駿介の体重をもろに喰らったのだから当然だ。むしろ立ち上がれたのが異常なのだ。
眼窩を中心とした骨折。痛いなどという物ではないだろう。
ぺっ。
駿介は唾を吐く。唾とともにアルコールの酩酊も吐き出したかのように意識は冷静に澄む。
前蹴り。水月にモロだ。
そのまま滑るように、反射的に体を屈した少年の横に立つ、奥襟を持って、真下へと逆落としに後頭部を床にたたきつけた。
凄まじく大きな音が響く。
頭蓋骨と頸部への遠慮ない一撃。
遠慮。
そうだその攻撃には敵対者の生命への配慮が一切欠けていた。
びくん、びくんと少年の肉体が無意識化で不気味なダンスを踊る。
エルメタインはそのさまに胃のあたりの服をぎゅっと握りしめつつも、状況判断に努めている。声を出せば駿介を叱責してしまいかねないからか、ぐっと唇をかみしめて。
何が起こったのか?
起こったことは分かっている。襲われているのだ。それも明確な殺意を持って。
ならば、これは「敵」の罠だったのか?
最初から私たちに対して殺意を持っていたということなのだろうか?
違う。
殺そうとするのならばもっと良い手段はあったはずだ。
確信は今となっては無いけれども、もしそのようなそぶりがあったら、私は観ぬけていたはずだ、そうでなくともこの五人のうちの誰かが違和感に気付かない方がおかしい。
だとすると、これは。
「魔法――なのか?」
秋人が同じ結論に達した物か、エルメタインに尋ねる。
しかし彼女はその答えを持っていない。持っているとしたら――魔法の専門家である彼女の今やただ一人きりの侍女は、この屋敷の中にいる。今すぐに合流をしなければならない。
むくり、むくりと、泥酔していたはずの人間たちが起き出す。
その表情は一瞬の無表情からゆっくりと、激怒した人間のそれへと変化していく。
「あああああああ!」
複数の雄叫びが広間をつんざいた。
つんざくのと同時に、ガチャン、とガラスの割れる音。その次の瞬間には轟、と炎が廊下を舐めた。火炎瓶。
「ヤバい!」
駿介は窓から飛び込んできた次の火炎瓶を、セリエAのサッカー選手のように優しく秋人の胸元へとパスする。
チン。
呪霊刀はゆらゆら揺れる炎の芯を瓶の首ごと切断すると、片手で揮発油の入っている本体をキャッチする。火種は呪霊刀の先端が変形して、包み込んだ。
リリナと悠太は廊下の向こうだ。突っ切るか?だが炎はあっという間に廊下を火の海と化した。駿介の魔法装具ならば大丈夫だろう、だが残念ながら「バネ脚」の結界は一人用だ。
「リリナが来るのを待つしかないようですね」
エルメタインは秋人に頼んで切ってもらった農業用フォークの柄だけを構える。彼女が扱えばただの木の棒も魔法の道具に等しい強力な武器となる。だが、彼女は無慈悲にその棍棒を振り下ろせるだろうか?
――厳しいだろうな。
と、駿介は判断する。それは実は秋人も同じだ。先ほど咄嗟に老婆を相手にした際、秋人は「刃物」ではなくて「鈍器」として呪霊刀を用いた。
相手が「敵」であるのならば、秋人もエルメタインもその暴力を全力で扱うことにためらいは無いだろう。だが、このような状況で全力を出せる人間というのは少ない。
少ないというよりも、まずいない。
戦争ならば、エルメタインも知っている。
殺し合いならば、秋人も知っている。
だが、このような状況については駿介が一番よく知っているのだ。
そうだ、彼はこのような敵をよく知っているのだ。
村人たちは、純粋に、怒っていた。
怒り狂って、いたのだ。
――だとしたら。
駿介は思う。
だとしたら、これは俺の領分だ、と。




