思い出の村 2
3
「エルメタイン姫様、ご到着が遅いですぞ!我が村は貴女様のお助けをしたくてうずうずしとったところです」
カガンデ村の村長は、森で一行が出会ったそばかすの少年の知らせに、おっとり刀で村の入り口までやってきた。
「すみません村長、これでも急いだつもりなんですよ。でも、久しぶりだというのにお変わりなく」
「なんのなんの、十年ぶりですか、ずいぶん年を取りましたわい。それにしても、お母上のリスティア様もおきれいでしたが、姫様はホンにまあ美しくなられましたなあ」
そこで村長は涙ぐんで目頭を押さえた。
エルメタインの母であるリスティアは某伯爵の婚外子であり、ある意味ではこの村に母子ともども捨てられた存在であった。本来なら王妃となれる身分ではない。しかし近隣に鳴り響く美貌を備えた彼女はエルメタインの父との劇的なロマンスの結果、正妻の座を射止めたのである。
多くの外交使節も「彼女を妻に娶るのであれば、むしろ玉座など惜しくないであろう」と書くほどのあふれ出る美貌の王妃はしかし一粒種のエルメタインを生んで六年目に病で他界した。乳癌であった。
その翌年からエルメタインは十三の時まで、毎年ひと月ほどをこの村で過ごしてきたのである。村の子供たちと野山を駆け回り、川で水遊びをした。ドングリを拾い、キノコを採り、雪山を橇で滑った。
それは「姫」ではなく、一人の子供として過ごしたエルメタインのもっとも幸福な記憶の一つだ。
「ミツセはどうしています?」
「ああ、あの子ならローハンと結婚しましたよ。今呼びにやっています」
「まあ、ミツセとローハンが?素敵!」
「村の者どももまっておりますぞ、さささ、長旅でお疲れでしょう、こちらへ」
村長に促されるまま、五人は彼の家へと案内された。
なかなかに立派な瓦葺きの家である。
「宿でも良かったのですが、姫様にはこちらが宜しいかと思いまして」
そう言って通されたのは彼女がこの村で休暇を楽しんでいたころに使っていた部屋であった。
今まで主がいなかったはずであるのに、きちんと清潔に保たれているのはこの家の主の人柄がしのばれ、また、「彼女がこの村に来るのを心待ちにしていた」という言葉が真実であることを何よりも雄弁に語っていた。
エルメタイン姫がことのほか喜んだのは言うまでもない。
その部屋へリリナが使うための寝台が運び込まれ、男たちは村長の四人兄弟たちが使っている部屋を割り当てられた。広くはないが、清潔だ。宿と言うものは公共性が保たれなければならない空間であるから、決して「有名人」を迎えるのにふさわしいわけではない。このような田舎であるならなおさらだろう。個人の住居を宿にする方が気楽であった。
男たちはやれやれ、と旅装を解き、腰を落ち着けたが、そこにノックの音があった。
「姫様がお呼びです」リリナの声だ。
姫君は、この村の公共温泉浴場が最高なのだ、とのたまった。
*
フォーダーンの夜空にも星が輝く。
しかしそれは、はるかかなたで核融合によって燃え盛る恒星のそれとは違う。だからおそらくこの「夜空」の裏側は、多分ない。
金砂銀砂を水の張った暗い盆の上にこぼして、巨大で不可視の砂絵職人がゆっくりとかき混ぜる、フォーダーンの星空はそのようなものだ。
夜空を見上げ、五分も星を見ていたら、雲の動きよりはるかにゆったりとはしているが、強く輝く星、もやっとした弱い光を放つ星が天上の音楽に合わせて自由気ままに舞い踊っている、そんな気分に人をさせてくれる。
露天風呂だ、良く見える。
だが、この五人組の男女はあまり風情を解さないようであった。
「姫様そんな、畏れ多いです、身体なら自分で洗えますか!」
「リリナ、そんなことはありませんよ。いつもわたくしのために身を粉にして働いているあなたのために、たまには年長者の言うことをお聞きなさい!」
「お、おやめくださ、ひえ、わ、ひゃあああ!」
などという会話を聞きながら男湯の方でも。
「な」
「はい、びっくりしました」
「駿介は背は小さいが、あれはビッグな男なんだよ。見たことないレベル」
「いやー、尊敬しちゃうなあ」
「俺なんかカセイ人だもん。泣けるよ」
「?なんだよ、裸の男がこそこそ何の話してんだよ」
これもまた風呂を楽しんだことには違いは無かろう。
*
風呂を出て、村長の家に戻れば料理が大広間にあふれんばかり、そして村中の人間が文字通りあふれていた。
「ミツセ!」
「エルメタイン様!」
二人の同年輩の女性は抱き合って久闊を叙した。
「そのお腹!」
「ええ、来月の予定なの」
「まああ、本当におめでとう!こんな場合でなければ、贈り物をしなけりゃならないのに!」
「あなたに会えてそれが何よりの贈り物よ」
「ありがとう、ミツ」
「いいえ、メッタ」
二人の幼なじみは、二人しか使わないあだ名で呼び合うと、コロコロと笑った。
「ローハンは大きくなったわねえ」
一長尺(約二メートル)ある肌の黒い男が良く響く低音で答える。
「はい、今は父の仕事を継いで、鍛冶屋をやっています」
「あの『おもらしローハン』がこんなに大きくなるなんて、十年って長いわ」
「姫様、それはもう忘れてください……」
「エンリスおじいちゃんもお元気で!あら、ローデラおばさん、まあ、カボチャのパイを?是非食べさせてください!チャッカちゃんもすっかりかわいくなって、わたくしの事を覚えている?サザンさん、あのときはお世話に…………」
村中の人間と知り合いと言う事なのか、エルメタイン姫は料理をぱくつき、酒を飲み、途切れず挨拶に来る村人たちと楽しげにおしゃべりをしている。リリナはそんな姫様のもとでかいがいしく仕切っている。おかげで男たちはゆっくりと、フォーダーンの田舎料理に舌鼓を打つことが出来た。
この村の特産である、ケナガブタの骨付きローストにすりおろした林檎のソースをかけた物、付け合せはサグーナというキャベツによく似た野菜の酢漬けだ。ヤマドリの丸焼き、川魚の燻製のピラフ、野菜とキノコのピクルス、辛かったり酸っぱかったり血が入っていたりする各種のソーセージ、チーズが十種類ほど、山と積まれた芋のマッシュ。さらに村人たちご自慢の手料理と大量の酒。どれも上品ではないが、ざっかけない美味で、日本人の舌にも良く合う。
リリナが既に食品にも酒にも、飲料水にも毒や特殊な薬が入っていないことは確認済みである。二百種類の代表的な薬物を検出することのできる魔法に反応は無かった。より正確に言えばいくつか反応はあったのだが、それは香草として使われているだけの事で、彼女も「これが引っ掛かるのは珍しくありません」と言ってぺろりと味見をしてからオーケーを出した。
逃亡者の悲しい性であった。ではあったが、やはりこの村の人々は単純に歓迎してくれているということなのだろう。
「そうは言っても酒は控えとくか」
「そうは言っても飲まないのも失礼ってもんじゃない」
「確かに、一杯くらいはな」
「悠太君も飲みねえ」
駿介から葡萄酒を渡された悠太はじっと陶器の杯を眺めていたが、ぐっと一息に流し込んだ。初めて飲んだ訳ではないし、グレープジュースを想像していたわけではないが、しかし地上世界の規格品とは違う、地酒のワインは渋くて辛くて、とうていうまいとは思えなかった。
それでも一気に飲み干す。みるみる顔が赤くなった。体質的に弱いのもあるし、そもそも法律で未成年の飲酒が禁じられているのも故なきことではない。
「僕んちではお父さんも晩酌しませんから、あんまり酔っ払いも見たことないんですよ」
「今どきはそーだろうねえ」
駿介が話を聞いてやる。
「だからなんで酒なんかを飲みたがるのか、それから飲めたから偉いのか、ってことですよ」
「からみ酒だ」
秋人が鶏の串焼きを食いながら笑う。ブロイラーというもののないフォーダーンでは、高級品の部類に入る。
「聞いてますか!あなた方は僕を子供だ子供だと言ってからかいますが、僕に言わせりゃあ、あなたたちは齢を食っているだけでちっとも大人じゃあないんですよ!」
「正論すぎて何も言えねえ」
「秋人君に同じ」
「ほらそうやってすぐおちゃらける!あなたたちは人生をなんだと――」
そこで悠太はむんずと腕を掴まれると引っ立てられた。
「ほら、酔っ払い、こっち来て水でも飲む!アキト様にシュンスケ様!子供で遊ばないでください!」
実は一杯どころかその七倍ほどきこしめしていた男二人は「はーい」と小学生のように右手を挙げた。
リリナはチッと舌打ちする。
剣呑な瞳に大の男がちょっと悲鳴を上げた。
「まったく、馬鹿ね!」
「うーん」
柑橘酢の入った冷えた水を飲み干すと、悠太はバタンと寝台に仰向けに倒れ込んだ。
リリナは酒精を解毒する魔法を使おうか一瞬迷って、まあ、一晩経てば自然に抜ける物だからと考えを改めると、少年の隣に座った。客人は三々五々帰り始めている。残っている人間もだいぶ酔いが回っている様子だ。ここで一休みというところである。彼女は悠太とともに広間から持ってきたカスタードパイをぱくつく。
ちらり、と傍らの少年を見る。
寝ているのか起きているのか、規則正しい寝息を立てている少年の目は半眼である。ずいぶんと間抜けな顔だった。
ふふっと少女は笑う。
……笑ってから、不意に来し方を思い返す。
あの夜だ、侍女長、レイザハットさん。――口うるさいけど優しい人だった。――彼女は突然やってきた亡霊のような捕縛吏の棍棒によって頭蓋を割られた。
耳と鼻から血を流し、棒のように倒れたレイザハットが死ぬのを、魔法による治癒も出来ずに、ただがたがたと震えていたあの日の女の子は今やいない。
実際問題として、治癒術式を行うことがあのタイミングで出来ていたとも思えないが、それでも試すことなく諾々(だくだく)と罪人用の馬車へと乗せられたのは、今でも痛恨の極みだ。もちろんその事こそが狙いで彼女は殺されたのだろう。
強力な魔法使いへの示威行為のためだけに!
ただそれだけのために人を殺せる。
なんという恐ろしい話であったろう。
それから彼女はほとんど信じられぬ気分で事の成り行きを見つめていた。念話によって実家のリリンボン家をはじめ、彼女の知る多くの人々に助けを求めたが、色よい返事は無かった。
かなり根回しがしてあったことは間違いない。
それなのにこの村の人たちときたら!
だが、それはある意味普通の事だと彼女は感じる。エルメタイン姫殿下と直接接していたのなら、彼女を好きになることを止めることは難しいだろうから。
だから不思議なのはこの少年だ。
「それはあんまりにも、つまらない」
と拗ねたように言ったあの時のことをリリナは鮮明に覚えている。
どういう意味だったのか、かなり余裕のなかったあの時は深く考えることなく着いてくることを承諾してしまった。だが、今となって後悔していないと言ったら嘘になる。
彼は本当の意味でただの「地上に棲まう者ども」(もはや彼女の中でそれは差別語としての意味は風化していた)でしかない。「地上堕ち」した者の子孫である羽生秋人や伊藤駿介とは違う。フォーダーンは完全なる異郷の地であったはずだ。
そこで冒険、と言えば体裁はいいが、要は命を狙われる日々が待ち受けていたのである。恐ろしいストレスであろう。であるはずだった。
なのに悠太はそれに耐えた。
泣き言一つ、……は言ったか。
泣き言の二つ三つで少年は逃亡の日々を耐えている。
それが、そこのところが少女には理解できない。
よもや本当につまらないから着いてきているだけとは彼女も思っていないが、それでは何が彼のモチベーションを維持しているのか、(この自分の心に鈍感な)少女は理解しきれなかった。
「えい」
リリナは半眼で寝ている悠太の目へと指先を突き出した。まつ毛に触れるか触れぬかのぎりぎりで止める。タヌキ寝入りならば反射的に眼球や瞼は動くだろう。
悠太の反応は無かった。
――本当に寝てるんだ。
くくく。
と少女は笑う。無防備な少年の寝姿は、ある種の前衛舞踊を写真に収めたような形で上半身と下半身と首がねじれている。このまま朝まで寝たら、寝違えること確実であろう。
――明日の朝、痛いでしょうねえ。
困った顔が目に浮かぶ。
顔立ちはそもそも悪くないというのに残念なものだ。
身長も今は彼女とそんなに変わらないが、父親は一八〇センチを超えていたから、その血を受け継いでいれば大きくなるだろう。
頭も決して悪くない。
性質は、うん、いい。彼女は彼に何度助けられただろうか。それも見返りなんかなんにもなしで。
少女は魔法で悠太の身体を正すと、靴を脱がせてやった。
――私は、彼に何ができるのだろうか?
そのことを思うと不意に鼻の奥がつんと痛む。
リリナのエルメタイン姫殿下への忠誠心は本物だ。自分よりも第一に彼女のことを考える。彼女のために死ねるのであれば、それはとても良い死に方だと心の底から思える。
だが、悠太はどうだ?
悠太がエルメタインのために死んでしまったら?
彼女は氷の棘が心臓に刺さるのを自覚した。
考えないようにしてきた想定だ。そしてこの先、いくらでも起こるであろう可能性の一つだ。
もしそうなったら。
彼女は正体なく寝込む少年を見る。
もしそうなったとき、私は姫様を恨まないでいられるであろうか、と。
少女は少年の手を握る。
温かかった。
すうっと、正体のわからない涙が彼女の頬を伝った。
あるいはそれは、彼女が自分の心を自覚した初めての事だったのかもしれない。
来週金曜日に更新いたします。




