思い出の村 1
第九章 「思い出の村」
1
シャボリー城塞より脱出に成功してからおよそ十日。
一行は一路ウライフ山を目指して旅を続けていた。
「あの師匠が言ったのなら、それは、まあ、まず間違いないでしょうね」
不思議と悔しそうに魔法使いの少女が断言し、確かに王家の言い伝えで霊廟があることをエルメタイン自身も認めたから、一行の行き先はウライフ山のある東へとすんなり決まった。
それは初動において常識的な者が想定する「川を下って海へ、つまり西に逃げて亡命する」という考えとは真逆の方向であったから、貴重な時間を稼ぐことに成功した。
成功したのではあるが。
「お姫様はさあ、ホントに追われているっていう自覚あるのかいな?」
秋人の愚痴も無理からぬものだ。
エルメタイン姫殿下は事あるごとに人助けをしている。
小は老人を荷車に乗せて送ってやることから、大は、……大はそう、彼女らが後にした、遺跡と砂丘の町「セイナス」で起こったことだ。
*
五人の姿が遠ざかっていくのを、年若いセイナスの領主とその幼馴染である男装の魔剣士が見送っていた。
青年の所有する中でも最も素晴らしい羚羊馬を四頭と、純白の一角羚羊馬である。荷駄用に貴重な駱駝牛も一行に与えた。
五人のうち、少年の手綱さばきは危なっかしいものだが、あれは一番年嵩で利口な羚羊馬であるから、まあ何とかなるであろう、と若き領主は思う。
「よろしいのですか?」
魔剣士が尋ねる。
「何が?」
「エルメタイン姫殿下を見つけ次第召し捕らえよと、審議会から同画機を用いて達しが来ていたはずでは?」
「ああ、そのことか」
青年は苦笑する。
同画機は平たく言えばファクシミリに近い魔法の道具だ。ただしA4の紙一枚分を送り、受信するのに三十分はかかる。
しかし早馬や狼煙、あるいは伝書鳩よりはるかに速いし、魔法による「念話」での口頭伝達に比べれば格段に正確なのは言うまでもない。
その同画機により、西王国審議会の通達が来たのは、エルメタインたちが塔より脱走したその晩だ。
エルメタイン姫とその一党を捕らえよ。褒賞は金貨千枚。匿った者は厳罰に処す、と。
確かに見逃したことがばれたらコトだ。この片田舎にまで手配書が回ってきているということは、エルメタイン姫は今や、西王国全てにおいてお尋ね者になっている、ということなのだ。
「ああ、まあ、そうだなあ」
その口調、のほほんとしたところは子供のころから変わらないな、と女剣士は思った。
「しかしそもそもだよ、あの姫様や魔法使いの女の子が悪人だと思えるかい?」
ちょっと笑って女剣士は首を横に振る。
金褐色の髪が太陽の光に透けて、きれいだな、と青年は素直に思った。
今からちょうど七十二時間前、リリナに面罵された魔剣士はしかし、その思い出さえも今や良い経験だったと思える。肩ひじを張っていたあの頃の自分に今日という日は来なかったであろう。
だからこそ彼女らが、町の噂雀どもが言っているような悪人であるとは、とうてい思いもよらぬことであった。
「だから、僕は彼女たちが復権すると睨んでいる。そうなれば、今の時流に乗るのはむしろ損ってものでさ」
青年貴族はそう言って舌をちょろっと出す。
なるほどそうかもしれない。そう思わせる物をエルメタイン姫は確かに持っていた。
「けれども」と女剣士は持ち前の生硬さで継いだ。通報しないということがばれたら問題があるのでは。と。
「もちろん通報するよ」
そこで彼女の幼馴染は悪戯っぽく笑う。
「しかし、今日はもう遅いからなあ。明日しようか、でも明日は日が悪いって言っていたし……」
誰が言っていたのかはこの際訊くまい。
「明後日あたりに通報すればいいだろうさ、それで遅いってことは無いだろう?」
新たな領主はそう言うと、一回ウインクする。
美しい女剣士は肩をすくめた。
そして、沈黙が二人を包む。
青年は一回深呼吸した。それから、ありったけの勇気を振り絞って隣に立つ女剣士の肩を抱き、自分の方へと引き寄せた。思っていたより細い肩だ。彼女はこの細い肩に、彼の領地の正義を一身に担っていたのである。
そのことを思うと、青年の心は静かな後悔に捉われる。
だからこれからは、後悔しないように生きよう。
青年は女剣士の細い頤を指でくいと持ち上げると、接吻をかわした。
「あそうそう、ユージーン」
今や「つがい」となった男女の片割れが、男の唇が離れるのと同時に冷めた声で告げた。
「その口髭、似合ってないからやめた方がいいよ」
童顔の青年は、困ったように頭をかく。
2
それが二日前のことだ。
「まあ、愉快は愉快じゃないの」
駿介は灰色の羚羊馬に揺られながら、おかしそうに秋人に語った。
「ま、そうだな。それは認める」
秋人はそう返すと、完全に葦毛の羚羊馬にナメられて悪戦苦闘している悠太を見た。
「とくに悠太少年はなあ」
「確かに」
悠太は最後の最後、セイナス攻防戦でユージーン青年の叔父に、人質にとられてしまったのだ。
剣を喉元に突きつけられながらも。あの時の「どうしよう」という困った顔は実に見ものだった。
悠太はその時、「聖騎士の鎧」の手袋を着装していたのだから。
まだこれから一勝負できる、と高笑いして、自分の今までの悪行と、これからの計画を高らかに歌い上げる「いかにもな悪役」の腕の中で、少年は赤面しながら「変身」した。そして一秒後にはユージーンの叔父を制圧していたのだ。
「悪の親玉」は何が起こったのか分からずに、悄然ととなすがままにされていた。
秋人や駿介のみならず、エルメタインまでからからと笑って、少年は痛く傷ついた。
いやしかし、それは一場の喜劇ではあったが、後にリリナが怒ったように(「嫁さんは怖いね」とは秋人の弁だ)悠太が魔法装具を着けていなければ、五十人からの命を贄とした、恐るべき魔法装置、「セイナスの門」の起動まであと一歩と迫っていたのである。
大人たちは少し弛緩していたと言われてもしょうがない。特にエルメタインはしおれたようになって「ごめんなさいね」と謝っていた。
道中で既に悠太と駿介の中にも「フォーダーン普遍語」が一式組み込まれている。リリナが「とりあえず、ありもので」作り上げたのだ。
正直大したものであった。
「英語もこれで出来ればなあ」
と実に残念そうに言う悠太に対して、
「もちろん英語もあるわよ」
となんでもないようにリリナは応えた。
それはそうだろう。ネイティブスピーカーの数で日本語はベストテンの中に入ってはいるが、どうしてもローカルにとどまる。「日本語一式のセット」があって英語やフランス語が無いわけがない。
「でも今ここにはないの」
そう言って彼女は自分のかたちの良い側頭部をつついた。
リリナによれば、「日本語」をワンセット脳内にインストール(とは言わなかったが)しているので、それを参照して彼女の母語である「普遍語」の簡易版を彼らにインストールしたということである。
だから正直、悠太と駿介の語彙はリリナ本人よりもかなり少ないし、「まるで十代の少女」のように話す。
日本語と違って普遍語はあまり女性と男性の差異は無いのだが、割と絶妙なところでその面白さが表われて、周りの人々が爆笑するのは、この十日ほどで二人も慣れた。
それに少しずつではあるが脳も普遍語に慣れて、あまりその「面白」が飛び出さなくなったから、エルメタイン姫なぞは残念がっているようだ。
「でも俺はイマイチその面白さが分かんねーんだよな」
「微妙なところだってえからねえ」
一行は「テイン女神の森」を進んでいる。
ブナの類が主たる植生を占める明るい広葉樹林だ。
標高が高いこの辺りは、季節はシャボリー城塞よりひと月ほど進んでいて、秋まっ盛りといったところである。紅葉が日に映えて美しい。まさに錦秋とはこういう事だろう。
苔で覆われた橋を渡ると、小川が一面落ち葉で埋まっていた。まるで一面の赤い布の様である。
と、
「千早ぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは。 か」
駿介が口ずさむ。
「なんですの、今の詩は?」
エルメタインが興味津々と言った体で一角羚羊馬の馬首を返す。
日本語であるからもちろん意味は分からない。だがそれが詩であると看破したのはさすがであった。
まさかこのコロコロとした体型の男に詩心があるとは思っていなかったから、リリナも興味津々(きょうみしんしん)である。
「いやあ、古い詩ですよ。ヒャクニンイッシュってゆー。意味はですね……」
曰く、相撲取りの「竜田川」が、遊郭に行き「千早」という花魁に惚れてしまう、だが「千早にふら」れ、千早の妹分の「神代」もいうことを「きかず」ふられた竜田川は廃業して豆腐屋になる。それから幾年かが経ち、竜田川のもとへ女乞食が現れる。女乞食は「おから」をくれ、というが、その女乞食が千早の落ちぶれた姿だと気付いた竜田川は「(お)から(を)くれない」。そして自分が若いころ美貌を鼻にかけてひどいことをした因縁が巡ってきたのだ、と世をはかなんだ千早は「水をくぐって」入水自殺してしまう。
「悲しいお話ですね」
「スモウトリとかいう男は実に心が狭い!」
エルメタイン姫とリリナは割とその話の心を動かされたようであったが、悠太少年は一つの事実に気付く。
「え、さっきの川の様子とこの歌の間になんか関係があるんですか?」
その問いに秋人はこらえきれなくなったものか、くくく、と笑いだして、
「ご隠居、じゃあ最後の『とは』ってのはなんなんですか?」と尋ねた。
「『とは』、とはねえ。えーっとだねえ。『とは』ってのは、『千早』の本名だったんだ」
そう落語の『千早ぶる』の落を演じると、男二人は吹きだした。
すっかり騙されたリリナはヘソを曲げた様子であったが、エルメタイン姫はけらけらと笑い、本来の意味である「神話の時代であっても、川がこんな美しい赤く染まった布のように見えることなどなかっただろう」という訳にもなるほど、とうなずき、「ニッポンという国にも、良き詩人がいるようですね」と莞爾と笑った。
*
既に日は天蓋、水晶の杜へと没し(誤用であろうか?)つつあり、森の奥ではヤブガエルが銀の鈴のように澄んだ求愛の声を上げている。
今夜も野宿になりそうだな、と秋人は思う。
それは仕方のないところだ。エルメタイン姫はとにかく目立つ。そのうえ一番目立つ赤い髪を切るのという提案は主従ともども反対された。
だとしたら男どもにそれ以上の決定権はない。
となれば通報の危険性がない分、野宿の方が気楽ではある。缶詰と硬く焼きしめたパンを基本とした保存食料も豊富にあるし、火起こし水汲みはリリナの魔法ですぐに出来る。その上、虫や動物避けの魔法もあるから、むしろ地上世界のキャンプなどより快適なぐらいだ。
だが、姫様はなぜかどんどんと先へ進む。その手綱さばきは迷っているふうもなく、むしろ土地鑑のある人間のそれだった。
「お姫さま」
駿介がエルメタインに並んで尋ねる。
「何か目的地があるんですの?」
エルメタインは駿介の可愛らしい語尾に不意打ちされて、くくっと笑う。笑ってから皓い歯で笑顔を向ける。
「これからもう少し行けばわが母の産まれた村が見えてきます。そこではさすがに私を通報する者などいますまい。今夜はそこで宿を求めましょう」
駿介は大きくうなずくが、実際はその笑顔に見蕩れているのだ。
だからだろうか、その情報を彼は秋人に伝えなかった。
もし伝えていたならば……いや、やはりどこかでそれは起こったはずであった。それが、今日であったと言うだけのことで。
駿介は、たわいない会話をエルメタインとかわす。彼女は地上世界の事がことのほか気になるようで、話す内容は無限にある様子であった。それは駿介にとって幸いなことである。彼はそれほど異性関係に強い方ではなかったからだ。
話が盛り上がっている二人をリリナは気遣わしげに見ている。はたで見ていても、駿介が姫にぞっこんなのは丸わかりであった。
しかしそれは困ったことである。
少女はちらりと秋人を見た。
このまますべてが上手く行った際は、エルメタイン姫はこの男と結婚しなければならないのだ。それがすべてのゴール、それこそが「そしてみんな末永く幸せに暮らしましたとさ」という終わり方になるはずなのだ。
秋人はそのことに気付いているのかどうか。悠太と日本語で何やら笑いながら会話している男の様子からは、うかがい知ることはできなかった。
何やら胸騒ぎがあった。




